えぬ日和

日々雑記。第二、第四土曜更新を守っているつもり。コラムを書き散らしています。

・ペンと紙と手

2015年10月24日 | 雑記
 花見の桜の下で鞄を開いた時、ごくごく自然に友人が「手書きなんだね」と言った。彼女の視線の先にはノートと筆箱が顔を覗かせていた。

 MDSのOKフール紙を40枚閉じたA4のノートとUniのシグノの0.38ミリ芯のボールペンを5年ほど前から使い続けている。紙の肌理が滑らかなおかげでどんな道具を使ってもインクは染みずペン先も引っかからず、ペンごとの書き口で使い勝手を変えながら書き味のすべり心地がよろしい。もらい物の太字のCrossのボールペンを使えば字は丸く、しかし勢いに任せた字に変わり、シグノの0.38ミリ芯は尖った針で刻むような硬い字ができる。

 休日用の鞄には両面テープ(まだ一度も使った事は無い)と筆記用具、それからA4のノート、A5のノート、透明なクリアファイル、中身のおそまつな巾着袋、財布諸々が詰め込まれる。ふと思い立ったとき思った事を書き留めるには都合がよさそうで悪い。ノートを開くにはまずノートを開く場所と空間が要り、筆記具を取り出すには筆入れを鞄から探してさらに目的の筆記具を筆入れから抜き出さなければならない。手で何かを物するには文字通り手間がかかる。
電車でノートパソコンを広げてプラスチックのキーをガチャつかせている背広よりもみっともない。電子化してしまえば清書の手間、修正の手間、暇つぶし、調べもの、印刷とのちのちの利便を踏まえればキーをガチャガチャするほうがよっぽど良い。紙とペンを使うのはそれがそれ以外何もできないからで、ガチャガチャはインターネットに繋がろうがつながるまいが読み物を漁ったり動画を見たりコンピュータゲームをプレイしたりと気散じの道具が取り揃えられているので、さぼり癖の人間にはとても優しく誘惑的な道具である。一方で紙のノート君は白紙の現実をひたすら突きつけてくる、食べられないおかずを前に絶望する小学生の前に立つ教師のように冷徹だ。だからノートを開けば書く事以外にすることがない。罫線入りなのでへのへのもへじ式の落書きもどうやら惨めになる。無表情に量が手に重い。ペンはペンでインクの残量を透明なプラスチックを透かして書いた量というものを明らかにちらつかせる。

 ペンを時々紙から浮かせて足を組み直し、窓辺を眺めてノートを見下ろしながら言葉や図をインクの線で組み立ててゆくやり方は不合理だ。それゆえに生じる妙な距離感は、手の使い方から生じるものなのだろうか。

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