えぬ日和

日々雑記。第二、第四土曜更新を守っているつもり。コラムを書き散らしています。

・芝居の仕草

2015年11月14日 | コラム
 古谷三敏『寄席芸人伝』の一篇に、食べる仕草が拙いと諭される場面があった。芸に慢心する主人公の若い噺家はその理由が分からない。拙い理由が理屈では腑に落ちない彼に師匠は、お前の噺が終わったら帰る客の流れを見ろ、と言い放つ。しぶしぶながら彼は喝采を受けて楽屋からぐるりと表に出ると客の後ろ姿を見た。彼らはどこにも立ち寄らずまっすぐに帰路へつく。それの何が悪いのか。分からない彼に師匠は独言する。今日は屋台の噺をしたはずなのに、みんな真直ぐに帰ってしまうなあ、と。そこで若手は己の芸に伴わないものに気づき、次の舞台で饂飩を食べた。架空の饂飩を観た客は帰り際に饂飩の屋台に立ち寄り、なんだか饂飩を食べたくなった、という言葉を若手が耳にして一段落、といった話だったと記憶する。

『新春浅草歌舞伎』のパンフレットを差し出しながら「『来年は食べ歩きだなあ』って浅草の人が言ってた」と歌舞伎好きの友人は苦笑い気味に言った。演目と役者を見比べた私の微妙な表情を汲み取り、「そんな感じでしょ?」と明るい声で続ける。
「むかしは歌舞伎を観て、演目に扇や櫛が出てくると仲見世でそれを買う人もいたそうだけど、そういう楽しみ方をする人って大抵新橋に行っちゃう」「歌舞伎座ですか」「そう。たとえばここ、『与話情浮名横櫛』って演目があるでしょ。このお話には櫛が出てくるから櫛屋さんにとっては縁起がいい演目なんだけど、これじゃあね」パンフレットに目を落とすときれいな顔をした若手の演者が並ぶ。対して演目は『三人吉三巴白波』『歌舞伎十八番』『義経千本桜』等、派手な演目である。見比べながらそう大して観慣れていない自分にも、パンフレットに漂う諦めのような気配は見て取れた。年に数回行くか行かないかの連中にすらそんなことが感じられるのだから、新橋の歌舞伎座で花道脇の席を取るような人々の想いはいかようなものだろう。

 そもそも芝居を演目から役者から仕草から小道具から丁寧に観て、それから今年の櫛や扇子を買う通人はまだ生き残っているのだろうか。煽り煽られる広告の加速に慣れてしまった身を振り返り、舞台を通した遠い時代の架空の物語を通してなごやかに買い物をする感覚にどうしようもなく憧れながらパンフレットを折りたたんで鞄の底にしまった。

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