えぬ日和

日々雑記。第二、第四土曜更新を守っているつもり。コラムを書き散らしています。

やわらかい執念

2008年09月24日 | コラム
『コレラの時代の愛』:ガルシア=マルケス著 木村栄一訳 新潮社

―「思ひ出すとは 忘るる故よ 思ひ出さぬよ 忘れぬは」

:ヒロインフェルミーノ=ダーサの夫、フベナル=ウルビーノがはしごから落っこちるまで何ページあるか数えたら71ページだった。全体500ページ近くから見れば些細な量なのかもしれないけれど、フロレンティーノ=アリーサについて全く触れられない冒頭は潔ささえおぼえる。

 51年9ヶ月と4日、ひとりの女性を愛し続けた漢(おとこと書かせていただきます)の生き様を描くガルシア=マルケスの長編『コレラの時代の愛』が白眉なのは、これが「生涯」を描くものでないことだ。フロレンティーノ=アリーサの「おわり」は本を読み通してもわからない。ぼかし一切なし、書かないことでこの小説はひたむきな恋愛が浮き彫りになるのだ。

 こう、誰かに触れたり、怒鳴りあったり、極端な感情のぶつけあいがなされないので「恋しています!」な暑苦しさはどこにもないけれど、じわじわ鉄板をあぶるようなフロレンティーノの愛しかたは、見ていてなぜかほのぼのしてしまう。あまいのだ。空気が。徹底的に、イロコイごとの甘ったるさも人間も、ドライな視線で描かれているためにかえって、その甘さがちょうどよい濃さで伝わってくるのだ。そこが、読者に対してフロレンティーノの51年を「しつこい」ではなく「すごい」と言わせる大切なものなのだとおもう。

 忘れられない思いは思い出として沈むけれど、既にその人の本質に組み込まれた愛は、時折存在を忘れてしまうけれどことごとく当人の周辺に被害をもたらしてしまう分やっかいだ。フロレンティーノの愛がもたらす、女性たちへの人生のむごい結末、一番大切なその愛の終着点はどうなるのだろう。見えているはずなのに、そこを描かないガルシア=マルケスに歯軋りする一作。

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