えぬ日和

日々雑記。第二、第四土曜更新を守っているつもり。コラムを書き散らしています。

・うっかりもの机

2019年07月13日 | コラム
 唐突に勤め先の上司が言い出した単語に我々は一瞬固まったのではないかと記憶している。「認知症倶楽部だ」上司は再度はっきりと繰り返した。健康診断でよくわからない値が出たおかげかしばらく前からコーヒーから白湯に切り替えた上司は、今しがた電子ポットから注いだお湯をにやにやしながらすすった。「認知症ですか」「そう、認知症。つながらないでしょ、会話」「いや、一応聞こえてはおりますが」隣と向かいと斜め向かいの先輩方はお愛想笑いと苦笑いと混乱がほどよく入り混じった表情で部長を見上げていた。仕事の波は比較的平穏で、そろそろ引退の近づいた部長は仕事を順調に減らしながら空いた時間で我々をからかうことが気持ち増えている。
「ほら、……だよ」
 パーテーションと先輩の頭越しに私へ声がかけられたが、よく聞き取れなかったので「まあ、そういうことでしょうね」と危うい単語で返答した。「それだよ、認知症」部長は嬉しそうに笑った。「認知症じゃありませんよ」と、隣の先輩が笑い交じりにつっこんだ。「いや、認知症なんだよ」部長は譲らない。「会話が互いに食い違うでしょ、聞いていないってことなんだよ」なあ、とこちらへしっかり合わせられた目線はいたずらっぽく輝いていた。
「こればかりは人間にしかできないぞ」「何でそんなに嬉しそうなんですか」まともに切り返す姿勢に入ったのは私だけだった。他の先輩は私と部長のやり取りをおかしがっているような気配がする。部長はまたもにやっと笑った。
「面白いからだよ」
 趣味で部長はAIを育てている。認知症倶楽部と呼び出す前はアイドルの画像をインターネットで拾い集めて人間の画像認識システムを育てていたが、肖像権云々ではなく「あきた」の三文字で人間はやめて次は犬猫の写真に移行し、これも「あきた」と、今度は画像認識のプログラムを組み込む過程で使う技術を応用して「暗視カメラ」なるものを作り出して専門家から問い合わせが来た、と喜んでいた。そうした静的なやりとりにも「あきた」のだろうか、突如として部長の脳裏にひらめいた「認知症」というテーマにのっとり部長はよく給湯室のポットの往復路に近い我々にちょっかいを出す言い分を作り上げたのだろう。言われ続けていると本当になりそうで恐ろしいものだが、ささいなうっかりを「認知症」とほのかに笑って済ませる習慣は、互いのこの先を少しだけ笑い飛ばせるようで個人的には心中、気に入っている。

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