島ぐるみ闘争、乃至「オール沖縄」共闘が立ち向かっているのは、日米政府とこれを黙過するヤマトゥ(本土人乃至本土日本人的思考法乃至感興等)だが、現場で抵抗し抗議し説得工作する住民有志の相手は米兵であり工事業者とその従業員、更には現場を往来する一般人だ。その共闘内容はおのずから異なってくるし、活動のリアリティは当然比較にならない質と量を示している。(高江関連ブログ等)
沖縄県行政機関、つまり県知事以下県庁担当者が確定的に実行しているのは、普天間飛行場返還を優先し、辺野古移設を返還条件として認め、埋め立て承認をもって条件整備は成った(以降は国の裁量に委ねられる)とし、普天間の5年内運用停止(他の条件はあいまいである)を県側の代替条件とした、ということになる。しかし米側はこの条件を現実的にクリア不能(辺野古移設完了をもって運用停止、その間10年は掛かるとする....当然そこに国家対人民の対決という重大なハードルがあると踏んでいるのだ)と見做している。県側が条件とした普天間の5年内運用停止は恐らく誰が見ても不可能だ。つまり埋め立て承認の有する県内情勢における重大性に照らしても、県側の判断には相当な甘さがあると言わざるを得ない。一方、首相の言質だが、相手がある外交上の案件に関する知事認識としてはまことに拙劣なものを感じないわけにはいかない。結局沖縄振興予算分捕りに成功したと思い込んだ知事の、不可解な辺野古切捨てと断じることになる。
上記県側意向については議論があろうが、採算のとれない結果となるのは目に見えている。少なくとも米側に、名護市長選の推進派敗北を候補の一本化の遅れと説明した公室長などからすれば、沖縄県民、名護市民、辺野古住民が有する世論というものに対する官憲的思考法しか思い浮かばないのは当然である。全体主義は勿論、機械的効率性の追求は必ず人民を不作為に淘汰し、選別し、イエスマン的な、権力に尻尾を振る奴隷的従属を甘受する民だけを残すことになるのは歴史が証明している。今この安倍政権がなさんとしている政策は、過去の過ちの事実上のリセット、戦前的復古主義であり、その基本姿勢は敗戦と戦後民主主義、とりわけ縛りとなって作用し続ける9条含む現行憲法が織り成す「戦後レジーム」なる状況をなきものとし、「誇りある」戦前的旧日本人族への回帰を図るということにほかならない。一見もっともらしい言い分ではあるが、一国の代議員の長が、ほぼなんの担保も保障もないこうした懐旧的情念に取り付かれているさまは、現今世界情勢からみても不思議な光景ではある。少数党にすぎなかったナチスが陰謀と画策で政権第一党になり、その後の世界の暗黒を用意したのはつい70年前の話だ。違憲状態の選挙と実質性に乏しい代議制のなか、この政権がいくらかでも民意を反映する存在であるとは到底思えず、したがって、ここ沖縄で進めようとしている国内植民地処遇は、日本国国家と米国の権力的圧力を主体とする暴力的横暴としか言い様がない。(つづく)