沖縄を考える

ブログを使用しての種々の論考

詩506 文民の怒り 15 仲井真弘多という個人

2014年02月12日 19時08分50秒 | 政治論

 ジェローム・コーン編著になるドイツ生まれのユダヤ人、ハンナ・アーレントの遺稿集がある。これには「責任と判断」と銘打ってあるが、日本でこれを翻訳出版したのが中山元訳で2007年である。遺稿といっても殆どが講演スピーチ、大学の講義、書簡と論説、書評などで、彼女の69年に及ぶ生涯にあっては主要な活動成果のほんの一部でしかないのであろう。この訳書の題名通り「責任」ということと、これにまつわる「判断」について、個人の一般的な活動、行為、から敷衍してジャーナリズム、学識者、文化人、政治まで、このことを問われないで済むような精神界はない。ということはどういうことかというと、底流は、基本的に人間は社会的動物であり、その社会が自己とそれ以外の他者で出来ているという、その事実によって、彼が望むまいが拒否しようが何時でも理念と正義と峻別の為の社会的な「判断」に功罪が委ねられる、ということであって、従って、ベトナム戦時の米帝国主義を裁こうとした国際軍事法廷は存在と行動の価値を有しているし、絶えず官憲と国家の強圧に晒されている(高江スラップ裁判をみよ)沖縄人民大衆行動は歴史的な意味を持つ。それは失望と絶望、挫折と無効性に対して果敢に挑戦するのであり、あらゆる威圧する権威や恫喝、不本意な妥協を強いるものへ、それが決してうまくいかないことを証明する。そしてそれは、各自が自身に問う「責任」において「判断」される行動の、必ず自主性において考慮された規範であり、更にその行動の実際のありように対してもう一度「責任」を問われる、そのとき今度は社会という法廷にいることになる。アイヒマンという、ナチス裁判にとっても最高度に重要な被告人に関するアーレントの、決して観念的概念的に単純化しない断罪のしかたは、この裁判が、人類史上かつて思考することすらありえなかった一人種の絶滅計画を実際に業務的に遂行した国家、人間群、機関が何故在り得たのかを問うものであって、裁判の終結と断罪と刑の執行をもって落着するものでない性質にあることを示唆する。

 結局はあらゆる人為は個人に帰着する。仲井真沖縄県知事(未だ知事なのだねえ)の辺野古埋め立て承認(ケネデイ大使との対談にこれが話されなかったのは何故か?県では8割近く反対しているのに)は、彼個人の判断に対する責任を巡って論じられなければならない。原発事故はこれを危険と知りながら推進してきた、しているムラビトたちの判断に対する責任を追及しなければ、またぞろウソッパチの規制委員会なんぞに再稼動を許すことになっていく(大飯では活断層はないそうだ)。あらゆる党派、グループ、人群に隠れて責任を逃れている悪党どもをなんらかの場において裁かなければ、人類の名における精神的堕落は目を覆う惨状を呈することになろう。(つづく)

 


詩506 文民の怒り 14 琉球沖縄のこころ 4

2014年02月11日 16時04分55秒 | 政治論

 ある、さほど暑くない真夏の昼下がりに、唯一人で海近くに出かける。其処には、誰もいない不思議な色の海原が広がっている。何故それがそんな色をしているのか、誰か物知りに尋ねてみたいくらいだ。夏の日の光が満ち足りた空気の中で、その水は単色の万華鏡みたいな海面を静かにうねらせている。白砂も水際(みぎわ)の蠢きも、水平線も空も雲も、透明だ。旅人は、これらを眺め、忘我する。誰もいない海はこの世の欲望を嘲笑う。一瞬、この独占された空間が、ここにある限りほかには何もいらないと人は思うのではないか、と思ったりする。それ故に、気分がいい。辿り着いたのはこの世ならぬ海流の中の島だった。この世ならぬ風情の、この世の「美」が、口から出る、この世の言葉を本来の「現実」に蹴り返す。これを拘りもなく知りうるのは無慙(むざん)な児どもだけであろう。人は、思い出の中の景色と香りに想像の手がかりを探すが決して見つからない。この海は応えない。唯静かな空気のそよぎの揺らめきに、静止した時間という奇跡がそこにあるだけで、相変わらず誰もいない海原が黙って広がっているのを眺め見る。いつの間にか、ここまで来た。ここがどこかを知らない。唯見ている。ちゅらと形容するわだつみを。

 この海に、一面に黒き船の無数の影が犇めいた時は、島の人々は行く手もなくうろたえ、彷徨い、爆裂の勢いに吹き飛ばされ、粉々になった。そういう話を聴いた。目の前から跡形もなく消えた惨い(むごい)野晒しが時折埃を払って立ち現れる。

 ここには、禍々しいいくさの記憶が其処かしこに不滅の語り部を配置し、永らえている人々を突き動かす。

 彼らは、その所属する部隊の教育的効果によって、ヤマトゥの為の用心棒の役割を誇り、絶え間ない追放の意思がこだまする島に、いつまでも平然とおるのですが、彼らも食う為に特殊職務を既定のノルマでこなしつつ、「楽園の島」で少しばかりの休息と癒しを享受する。ここは戦場ではない、と彼らは思っているが、訓練は実戦にシュミレートして、住民を脅かし、不断に彼らへストレスを加え、こどもらの耳を劈(つんざ)く。生活が通常でない環境に投げ込まれているというのに、兵隊たちはそのことを殆ど意識しないように仕組まれた真空地帯にいる。だが、彼らにも現状を語らなければなるまい。彼らの中から逃亡兵や反戦兵が出ることを願って。

 海原は、人事にも関わらずに、無条件の透明さで人を迎え、突き放す。われ等は無となり、消えうせる。(つづく)

 

 

 

 

 


詩506 文民の怒り 14 琉球沖縄のこころ 3

2014年02月10日 17時20分26秒 | 政治論

 都知事選などに全く興味もないが、それは、東京都にも、それが中心的な地位に置かれた日本国にも、なんらの思い入れもないからだが、40数%の投票率で都政乃至、この国の地方自治での、主導的権威付けを約束する都知事の地位を決定することに違和感を感じない者はおるまい。記録的積雪という気象条件に左右された、というより、都知事選そのものがトーンダウンした世論に攻撃されている様を我々は見ているのである。この国が、震災の負の記憶を、と同時に現在進行形の原発事故をPTSDのように脳髄から自己閉鎖し、追い落とし、「共同幻想」的に翼賛し、安倍政権の戦前復古主義に、デマゴーグさながら取り込まれつつある現状に対し都民はじめ多くの人民、民衆、大衆が、少なからぬ危惧感を禁じ得ないという、その素直な気持ちを示しているのだと思われる。舛添氏は決して待望されてない、そう思う。自公政権の地方選における勝利であるかの如く喧伝されるが、その実態は形骸化した政治理念のもと、愚昧な人気投票をAKB48並みに(それ以下の無味乾燥状態で)繰り返しているのがこの国のありようだ。(つづく)

 

 


詩506 文民の怒り 14 琉球沖縄のこころ 2

2014年02月09日 22時07分35秒 | 政治論

 筆者は不覚にも琉球的幻想にかかる心霊的な世界に足を踏み入れたようだ。不覚にも....勿論正確には意図してそうした。だから、言霊(ことだま)のようなものを密かに感じている、ということは、もしかすると筆者の言辞にはそれ(霊)がないのかもしれないなどと思ったりしている。つまり、筆者には「ペンは剣より強い」かどうか疑わしいのだ。

 この、人生をトータルで一刀両断するなら、そこに現実がない。しかし人はそんなに切羽詰ったものとして在るのだろうか。だが「目には目」、では彼らと同じになる。オバマと一つ穴だ。彼(オバマ)は、現実には正義の戦争はある、と言った。しかし疑って掛かるなら、その正義も、明日には邪悪そのものになることを、君ら自身暴露したのがブッシュの戦争じゃないか。オバマは、正義の戦争を言葉の上で可能にし、現実には相対価値だと言わねばならなかった。だから砕いて言うと、一切の戦争は、適当な理由をつけた果てのない殺し合いに過ぎず、その無尽の流血の代償は誰にも払えず、後悔とやりきれなさと止め処もない悲しみで押しつぶされるのだ。この劫罰を担うのは民衆であり。人民であり、あなただ。(あの震災が襲い掛かったのは我々に、であり、政治家でも資本家でも米軍でもなかった。)

 これでは不公平だからというので、日本国政府は米軍基地の隣に居を構え、原発は彼らと共に爆発してもらおう、勿論我々には影響が及ばぬところで。

 沖縄県 国頭(くにがみ)郡 東村(ひがしそん) 高江、同国頭村(くにがみそん)では、やんばるの亜熱帯樹林地帯に展開する米軍北部訓練場におけるジャングル想定訓練が繰り広げられている(ブログ海鳴りの島から「高江の様子」、ブログ高江の現状)。その米軍訓練場を一部返還するのに、またまた代替施設としてのヘリパッド建設が、2基目のそれに入っているのである。「標的の村」という映像が各地で公開されているが、これはQAB(琉球朝日放送)が捉えた、住民160名が居住している高江地区に関する住民闘争の実録であり、例のスラップ裁判の実情を現在進行で伝えるドキュメントだ。このヘリパッドを拵えるのに県内建設業者がジャングルに寝泊りしながら従事しているが、ほかでもなく己の住む県内に展開する米軍と日本政府の手先になって(しかし)食うために働いている人たちに、住民有志が抗議説得を昼夜分かたず実施しているのであり、とても追いつかない人員不足から何はともあれたくさんの協力者を募っている。興味、活動意思、好奇心のある人、偶然の通りすがりでも、立ち寄って、「沖縄に増設されようという軍事基地をねこそぎ追放しよう」という感じで、参加されたし。(つづく)

 

 

 


詩506 文民の怒り 14 琉球沖縄のこころ

2014年02月09日 14時38分11秒 | 政治論

 日本国、日本人、日本政府が同胞意識を失念している国内唯一の地方自治体として沖縄がある。怨み節ではないし、ただ事実、既成の事実としてそういえる。例の(オスプレイ配備撤回、普天間県内移設断念要請の)県内全市町村長、議会議長署名になる建白書が、一般行政文書として明年度廃棄される見込みという事案にもこれが当てはまる。そこには、彼らが通常言い訳がましくのたまう、「沖縄の負担軽減」なる偽善的欺瞞性に満ちた文言に適当するような、どんな配慮もおよそ全く含蓄されない。恐らくは請願書とみなされた場合にはこれに適切に対処したという証拠が必要になり、その事務上の論理的手続きが政府官僚によって到底用意される見込みがないから、かかる仕儀にあいなったというていたらくだ。ここにもこの政権が、地域住民の頭越しに国策行為を強行する明らかな手管が示されている。

 岸田外相と米国ケリー国務長官、ヘーゲル国防長官、ライス大統領補佐官との会談では、事前に既に「普天間5年内運用停止」はあっさり否定されているためか、これに言及することは一切なかった。というよりも安倍晋三の三百代言ぶり(五輪誘致では原発現状について嘘をついた)が、詐欺的に通用している現状がここでも露呈されていると言うことだ。詐欺的に沖縄県知事は籠絡された。知事のポリシーというのはこの場合、「おまえさんが5年内運用停止に努力するといったから、埋め立てを承認したんだよ、でなければ誰が好き好んで公印を押すか」といって抗議し、承認撤回までいくものじゃないのかな。一方、米国の日本政府便乗といえる負担軽減施策?理解発言には、この国の資質が理念的退廃、精神的怠慢に陥っている現実を垣間見せている。

 日本国、日本人、日本政府が、沖縄県に対し同胞意識を失念している正体を、様々な局面で恥知らずに露呈していることはいちいちここに例証するまでもない。この数百年解決不能な情念上の論難をいくら繰り返しても、この国は変わらないらしいのだ。米国によるこの国の傀儡性も到底国柄から抜き去ることはできない。二世議員が多すぎることも原因している。二世三世の世代交代は残念ながら単なる世襲的後継を連続させているだけだ。北朝鮮と変わらない。問題は世襲後継地盤引継ぎが何を措いても楽チンだということであり、この旧態温存体質は、こうした連中とは別にこの国の高級官僚にあって益々顕著な特徴を成している。

 普天間固定化という便利な表現法は、「辺野古移設が進まなければそうなる」という彼らの論理に基づく恫喝にもかかわらず、沖縄県にとって、どちらに転んでも彼ら日米が沖縄から出て行かない限り沖縄の為になど金輪際なりはしないということだけがはっきりしている。県民にとっては、普天間だろうが辺野古だろうが、米軍基地のある限り彼らの地位協定に基づく治外法権的隷属侵略関係は同様に引き続いていくことでしかない。だから、日米政府を沖縄干渉ともいうべき国内植民地政策のくび木諸共追放するのが沖縄の真の願いである。その余の論議は子供だましの暇つぶしでしかない。(つづく)


詩506 文民の怒り 13 裏切りの構図

2014年02月08日 07時46分40秒 | 政治論

 仲井真沖縄県知事などに如実に見られる「日和見」政治傾向(近来、女性知識人に特徴的に顕現する、奇妙な好戦性がどこから来るのかはわからない)は、彼らの自己保身術に過ぎないと言えば話は簡単だが、事態はもう少し危険性を帯びた本質を表出しているので、看過できない、むしろもっとジャーナルな捉え方をしないと、信じがたい軍靴の不気味な忍び寄りを易々と許す結果となろう。島尻安伊子のような「密告」型の政治家は極めて一般的な女性的傾向を予感させる。ナチスゲシュタポ密告者は圧倒的に女性が多かったというデータがある。彼女は本土出身の県人だが、それとは別におのれの行為の功罪に無頓着な、言いっ放し、無責任、事大主義が勝った典型的な日本型公人と言える。そして彼女の特徴は「男社会」に対し女権を発露する自由性よりもむしろこれに追随することを選ぶ、前時代的「男尊女卑」的環境を好む保守停滞主義者なのだ。この傾向は安倍政権はじめこの国の与党系政治家に歴史的に確定した本質だが、所謂「官尊民卑」思潮など、とりわけ琉球沖縄差別の根幹に巣食う「悪の総本山」を意味し、我々が敵視し攻撃しなければ済まない、国家権力的な「銃剣とブルドーザー」として生活の場に浸潤するのである。(つづく)


詩506 文民の怒り 12 三度び天皇 1

2014年02月07日 19時39分59秒 | 政治論

 天皇制論議の変遷史に興味はないが、年代世代によって、あるいは戦争体験や個人的体験の度合いによって様々な意見が交々流布するところ、現代日本において天皇問題の本質は何か、と言えば、その理念的な、あるいはイデオロギー的の、乃至有識者知識人における、一種の禁忌性への挑戦的アプローチの意味合いと、なし崩しに左翼的対処で括られてしまう決定論的なものと、更には右翼的な固定論、信仰、印象論的なもの、など、むしろ大衆的、民衆的、根本的な民俗学的なアプローチを欠いているということが最大の問題ではないかと思われる。例えば、というより天皇制に対してほぼ敵対的にしか対処できない琉球沖縄のような存在にあっては、どう転んでも「象徴天皇」ですら容易には受容しかねるものがあるということだ。これは同時に、日本人が故知らず持っている曖昧な妥協的心性、従って西洋風論理性の溶解に通じる右翼的な傾向、からくる無神論的汎神論の漠然とした横行が、戦後日本の国体観に微妙に作用して醸しだされた「曰く謂いがたい」存在性を「象徴」と名づけただけの、国語学的な成り立ちを想像させる。天皇機関説的な立場が現行憲法のありようではあるが、勿論「機関」といって機能的効率的な意味合いは皆無に近い。昭和天皇自身に、あるいは皇室に対し、戦後の国民が多くの問題性に関し「そっとしといた」わけである。

 当然ながら上記の天皇処遇は、GHQ乃至連合国の政治的配慮からきたのだったし、極東裁判の司法的厳正を度外視した「戦争責任」の不訴追方針が基本的には戦後日本の天皇制を決定付けたと言える。三島由紀夫がいう軍事的な栄誉大権付与というのは、天皇機関説の具体論めいているが、「人間宣言」した天皇への「現人神」時代からの変わらぬ「衷心」を表現するという、国民的メッセージだといえばなんとなく彼の、あるいは彼が属したであろう戦中派的考え方が見えてくる。しかし、吉本隆明の自由主義的な見解からすると、三島の天皇論には彼独特の個別的な雰囲気があり、彼が聴いた「英霊の声」は、英霊、つまり無数の、散華した殉国精神と言うべき美的呼称に括られた戦争犠牲者の声というよりも、彼自身の審美観によって顕現する、「余りに文学的な」抽象性を付与した虚構そのものという印象を免れない。勿論これは言うとおり印象に過ぎない。但し彼自身現存中の昭和天皇に偏愛を覚えるものでないことを告白している(理想に近いのは南朝の後醍醐天皇だそうだ)。(つづく)

 

 


詩506 文民の怒り 11の5 敵はそこにいる 2

2014年02月05日 23時29分20秒 | 政治論

 2012年(衆議院、自民294議席単独過半数、公明31議席、480議席中)、2013年(参議院、自民115議席、公明20議席連立で過半数、242議席中)の衆参両議院選挙結果は、概括的に言って米国傀儡政権争奪戦に過ぎず、これをもってこの国の民主制政治が正常にかつ正当に、かつ過誤を糺し、文民的統制力をバランス配分する、通常の理念的保証に裏付けられた近代的な国政を実施させることなど、全く望めないということだけは言い切れる。とりわけて民主制の基本である民意の尊重はこの安倍政権によって無残に踏みにじられる運命を用意してしまった(多数決原理による安定多数の55年体制再現)。元財界人で通産官僚出の沖縄県仲井真知事が「待ってました」とばかりこの政権を無条件で歓迎し(表面上は巧妙にオブラートをかけていたが)、この1年ほどで急速に普天間問題終息へ向け拍車をかけた事実は疑いようもない。

 高名なチョムスキー氏は世界有識者声明にも名を連ねているが、氏がアナキストである事実は、この沖縄県が置かれている国内植民地状態に鑑みるとき不思議な因縁めいたものを感じさせる。沖縄独立論に意味があるかといえば恐らくアナキズム的には否定されるであろう。というより功利主義的にさえこれが琉球沖縄のアイデンティティにとって無益な消耗にすぎないことは予想できる。所謂祖国復帰闘争時、瀬長亀次郎氏は日本復帰を唱えて独立論を一蹴した。彼が人民主義に立った稀有な政治家である以上、当然の判断であろう。彼の深奥はうかがい知れないが、現代琉球沖縄の状況においても独立論は当たってないのだ。もしかするとそれは百年先にも論外のことかもしれない。米国の日本国対処法は「生かさず殺さず」であり、表面上独立性を保証しながらその国家安全保障方針のもと完全に実質的な内政干渉を隠然と続けているが、傀儡的であることを恥じない(あるいはこれに気づかない)日本人はこの事実に「自閉的に」眼を瞑り(思い出したくもない敗戦による必然的屈従関係として)時の政権は例外なく「日米同盟堅持」を積極的な旗印としてきた(社会党でさえ日米安保も自衛隊も是認した)。琉球沖縄は一体どこから独立するのか、ここに生じる論理矛盾に気が付かないものはおるまい。琉球沖縄が独立するのは無用のことであり、ただ、その在籍する国家とその政府の存在を否定すれば済むことだ、それで沖縄の独立は成る。これを無政府主義という。(つづく)

 


詩506 文民の怒り 11の4 敵はそこにいる

2014年02月04日 19時25分40秒 | 政治論

 現今、安倍政権のとりわけ安倍晋三という政治家は、児戯に等しいが痛切に危険な道を、急ぎ足で戦前的大日本帝国体制に逆戻りしようとしているのは間違いのない見方であり、その手のつけられない国体の全貌がはっきりと国民のまえに現れたときには、既に遅きに失した事態を招いてしまったことを実感しないわけにいかなくなるのだろう。アベノミクスの虚栄が化けの皮を剥がされるのは時間の問題だ(ヒトラーも経済政策で国民的人気を得ようとした)。

 第一次大戦敗戦後どん底の痛手を味わったドイツはナチスヒトラーを自ら引き寄せるべく情念的感性的な雰囲気を醸成し、捲土重来、失地回復、汚名返上、名誉挽回の古典的報復状況に立ち至っていたし、ヨーロッパでは古代以来の精神的課題となっていた「ユダヤ人問題」について、轟然と反ユダヤ主義に立ってその問題解決手段を「最終的解決」に凝結せしめ人類史上かつてない全面的ホロコースト(一民族の絶滅)という重大かつ深刻な国家犯罪に「アーリア人絶対優越主義」の血塗られた証しを得ようとしたのだった。

 安倍晋三はアドルフ・ヒトラーほどの確信的な悪の行使者たる度胸はない。しかし沖縄では、県知事が県民を裏切ることに躊躇しないほどに彼の部下たちがアイヒマン的辣腕を振るって自党代議員の封じ込めに成功したし、この宰相は粋がりの典型のように、口からでまかせの「担保」をひけらかしてもともと県内移設容認派だった知事を易々と口説き落としたのだった。そして、その直後の名護市長選で移設絶対反対の稲嶺進氏が、県民、市民、地元住民の圧倒的な県知事承認反対、移設反対の意思表示を証明して当選してさえ、その2日後には防衛局事務方の移設業務実施に踏み切らせた。

 上記事実は、少なくとも安倍政権の施策が異常な質にあることを示しているし、これを何事もなく黙認し目送するということは近代市民的常識からして明らかな精神的堕落である。精神的堕落、つまり憲法上の基本的人権蹂躙行為に対し、なんらの怒りも有しないばかりか、これを本来の権利行使根幹に正当に立ち戻らせる努力の放棄とみなされるのだ。そのことをオリバー・ストーン氏は述べている(沖縄タイムス記事)。我々はどう転んでも国家主義の犠牲者候補であり、予備軍にすぎない。従って、おのれを守り自由を保全するには闘うしかないし、どこの、いかなる海にも陸にも軍事的施設は決して作らせてならない。我々の敵は安倍政権であり、その便乗漁夫の利を得ている米国覇権主義の親玉バラク・オバマだ。(つづく)


詩506 文民の怒り 11の3 国際署名急募

2014年02月04日 07時50分22秒 | 政治論

 現在、change.org(変えたい人のためのプラットホーム)においてInternational Petition for Okinawa(沖縄のための国際的署名収集)署名活動が実施されている(ブログ「辺野古浜通信」内記述)。1万名署名目標だが、1/3程度には達している。内容は、先ごろオリバー・ストーン氏はじめとする100名以上の世界有識者声明に明らかにされた、琉球沖縄が置かれてきた歴史的な被支配占領蹂躙実態への憂慮、辺野古埋め立て承認が意味する知事の屈服と県民への裏切りに対する糾弾、安倍政権の強権的沖縄弾圧行為への抗議、バラクオバマへの抗議、名護市長選結果が持つ強固な住民意思表示、普天間無条件返還、辺野古回避要請、などである。かつてこの島嶼で展開した「島ぐるみ闘争」、「祖国復帰運動」、繰り返される10万人デモ集会、「オール沖縄」で建白行動した「オスプレイ配備反対」行動、など、日米政府合作で「無視」「捻じ曲げ」「弾圧」「差別」されてきた住民活動を支持し、協力し、盛り上げようと言う声が、世界中に沸き起こっているが、これらを突き動かしているのは地元で必死に「座り込み」抗議活動を続けている住民有志の驚くべき粘り強い「人権守護闘争」精神なのだ(高江の様子「海鳴りの島から」)。(つづく)


詩506 文民の怒り 11の2

2014年02月01日 09時27分20秒 | 政治論

 島ぐるみ闘争、乃至「オール沖縄」共闘が立ち向かっているのは、日米政府とこれを黙過するヤマトゥ(本土人乃至本土日本人的思考法乃至感興等)だが、現場で抵抗し抗議し説得工作する住民有志の相手は米兵であり工事業者とその従業員、更には現場を往来する一般人だ。その共闘内容はおのずから異なってくるし、活動のリアリティは当然比較にならない質と量を示している。(高江関連ブログ等)

 沖縄県行政機関、つまり県知事以下県庁担当者が確定的に実行しているのは、普天間飛行場返還を優先し、辺野古移設を返還条件として認め、埋め立て承認をもって条件整備は成った(以降は国の裁量に委ねられる)とし、普天間の5年内運用停止(他の条件はあいまいである)を県側の代替条件とした、ということになる。しかし米側はこの条件を現実的にクリア不能(辺野古移設完了をもって運用停止、その間10年は掛かるとする....当然そこに国家対人民の対決という重大なハードルがあると踏んでいるのだ)と見做している。県側が条件とした普天間の5年内運用停止は恐らく誰が見ても不可能だ。つまり埋め立て承認の有する県内情勢における重大性に照らしても、県側の判断には相当な甘さがあると言わざるを得ない。一方、首相の言質だが、相手がある外交上の案件に関する知事認識としてはまことに拙劣なものを感じないわけにはいかない。結局沖縄振興予算分捕りに成功したと思い込んだ知事の、不可解な辺野古切捨て断じることになる。

 上記県側意向については議論があろうが、採算のとれない結果となるのは目に見えている。少なくとも米側に、名護市長選の推進派敗北を候補の一本化の遅れと説明した公室長などからすれば、沖縄県民、名護市民、辺野古住民が有する世論というものに対する官憲的思考法しか思い浮かばないのは当然である。全体主義は勿論、機械的効率性の追求は必ず人民を不作為に淘汰し、選別し、イエスマン的な、権力に尻尾を振る奴隷的従属を甘受する民だけを残すことになるのは歴史が証明している。今この安倍政権がなさんとしている政策は、過去の過ちの事実上のリセット、戦前的復古主義であり、その基本姿勢は敗戦と戦後民主主義、とりわけ縛りとなって作用し続ける9条含む現行憲法が織り成す「戦後レジーム」なる状況をなきものとし、「誇りある」戦前的旧日本人族への回帰を図るということにほかならない。一見もっともらしい言い分ではあるが、一国の代議員の長が、ほぼなんの担保も保障もないこうした懐旧的情念に取り付かれているさまは、現今世界情勢からみても不思議な光景ではある。少数党にすぎなかったナチスが陰謀と画策で政権第一党になり、その後の世界の暗黒を用意したのはつい70年前の話だ。違憲状態の選挙と実質性に乏しい代議制のなか、この政権がいくらかでも民意を反映する存在であるとは到底思えず、したがって、ここ沖縄で進めようとしている国内植民地処遇は、日本国国家と米国の権力的圧力を主体とする暴力的横暴としか言い様がない。(つづく)