ジェローム・コーン編著になるドイツ生まれのユダヤ人、ハンナ・アーレントの遺稿集がある。これには「責任と判断」と銘打ってあるが、日本でこれを翻訳出版したのが中山元訳で2007年である。遺稿といっても殆どが講演スピーチ、大学の講義、書簡と論説、書評などで、彼女の69年に及ぶ生涯にあっては主要な活動成果のほんの一部でしかないのであろう。この訳書の題名通り「責任」ということと、これにまつわる「判断」について、個人の一般的な活動、行為、から敷衍してジャーナリズム、学識者、文化人、政治まで、このことを問われないで済むような精神界はない。ということはどういうことかというと、底流は、基本的に人間は社会的動物であり、その社会が自己とそれ以外の他者で出来ているという、その事実によって、彼が望むまいが拒否しようが何時でも理念と正義と峻別の為の社会的な「判断」に功罪が委ねられる、ということであって、従って、ベトナム戦時の米帝国主義を裁こうとした国際軍事法廷は存在と行動の価値を有しているし、絶えず官憲と国家の強圧に晒されている(高江スラップ裁判をみよ)沖縄人民大衆行動は歴史的な意味を持つ。それは失望と絶望、挫折と無効性に対して果敢に挑戦するのであり、あらゆる威圧する権威や恫喝、不本意な妥協を強いるものへ、それが決してうまくいかないことを証明する。そしてそれは、各自が自身に問う「責任」において「判断」される行動の、必ず自主性において考慮された規範であり、更にその行動の実際のありように対してもう一度「責任」を問われる、そのとき今度は社会という法廷にいることになる。アイヒマンという、ナチス裁判にとっても最高度に重要な被告人に関するアーレントの、決して観念的概念的に単純化しない断罪のしかたは、この裁判が、人類史上かつて思考することすらありえなかった一人種の絶滅計画を実際に業務的に遂行した国家、人間群、機関が何故在り得たのかを問うものであって、裁判の終結と断罪と刑の執行をもって落着するものでない性質にあることを示唆する。
結局はあらゆる人為は個人に帰着する。仲井真沖縄県知事(未だ知事なのだねえ)の辺野古埋め立て承認(ケネデイ大使との対談にこれが話されなかったのは何故か?県では8割近く反対しているのに)は、彼個人の判断に対する責任を巡って論じられなければならない。原発事故はこれを危険と知りながら推進してきた、しているムラビトたちの判断に対する責任を追及しなければ、またぞろウソッパチの規制委員会なんぞに再稼動を許すことになっていく(大飯では活断層はないそうだ)。あらゆる党派、グループ、人群に隠れて責任を逃れている悪党どもをなんらかの場において裁かなければ、人類の名における精神的堕落は目を覆う惨状を呈することになろう。(つづく)