明らかに言えることは、米国が世界的理念性に基づいた展望において琉球沖縄弧状を、アジアのなかの一独立国の一地方自治体として認定する正しい見識にないことは全く不問に附され、その国家安全保障政策構想に基づいて、日米政府間の片務的同盟観を言い訳に、日本国敗戦後の軍事的世界支配構想を東西対立、防共思想、あるいは世界警察的主導性確保、自由主義陣営の人道的役割といったファクターを主軸として確立し、今日に至るまで殆どその基本方針を変更することなく来た、ということだが、一方、世界は欧米列強支配の19、20世紀体制から戦後次々と大小国家群が独立を遂げ、資本主義経済における市場拡大植民地主義、乃至帝国主義的支配の構造を民族自決的に打破していく流れが生まれ、事実上、あらゆる世界制覇的な覇権国家の存在を否定する傾向を醸し出し、言ってみれば、戦後の「コミュニズム対カソリズム」から現代の「市民対国家」、「民主制対ナショナリズム」、という対立軸移行が起こっているというのが真相である。
今、日本政府は、日米同盟という憲法違背軍事同盟を基軸に、これを日米間外交関係の総本山と決め付け、更に敗戦国処遇にある古色蒼然たる戦後体制をどこまでも維持し続けることに全力を挙げている。この極めて不健全な国家体制が生み出す国家主義が、現在琉球沖縄弧状に襲い掛かってきて、あらゆる地球環境理念や人道的見解、あるいは地方自治権守護などに関して顧慮することなく、米国の言うなりに一大軍事基地を辺野古に建設しようと企んでいるし、現在高江では実際に亜熱帯原生林破壊と住民追い出しのヘリパッド建設が堂々と進捗している。
罪とは何か。ラスコリニコフは、罪を犯すことに耐えられないという人間性はどこまでも付いてくるし、果てのない劫罰としてひとを意識の上で打ちのめし続ける、という自然性を見る。それは史上英雄と呼ばれるナポレオンやアレキサンダー大王と凡人を比較する根本的な要素ではないのかもしれない。もし罪の意識が万人共通のものならば何故国家はこれを総体としてもち得ないのだろう。国家が人間性の集合体ならば一個人の思いはそこに反映されるが、それが機械的な組織構造によって運営されるときには最終的にどんな犯罪でもやり遂げるという一例をヒトラーナチスに、またアイヒマンに我々は見た。とりわけハンナ・アーレントが指摘したように、殺人の実行者は平凡にして勤勉几帳面な一職業人にすぎなかった。
国家犯罪は必ず歯止めの利かない組織的犯罪に陥るのであり、これを瀬戸際で食い止めるには「自己判断」と「自己責任性」への、不断のギブアップしない自己検証を各自が怠らないことに尽きる。(つづく)