沖縄を考える

ブログを使用しての種々の論考

詩356 雑感3

2012年06月21日 16時51分22秒 | 政治論
 機械的非人間的、功利的能率主義的、事務的簡略的手法こそ霞ヶ関官僚の真骨頂なわけで、現在この国は、民主政権の当座のマニフェストが一切骨抜きにされている状況で、「官僚主導」の、至極当たり前な傾向を示しているというに過ぎないことは、子供にでもわかることだ。
 歯止めのきかない堕落する政権の、速やかな撤退を望むのは当然のことだが、さてその先に何が待っているのか想像すらできないという、こうしたにっちもさっちもいかない袋小路を体験しているのが、今の人民の精神的様態(時代閉塞の現状か)で、消費増税も原発再稼働も、ある意味この国の頂上作戦そのものだということだ。
 この政治的格差(代議制の重大な欠陥 民意からの異常な乖離)というものは、どちらかと言えば、この国が従来からもち来っている「無責任体質」から発した(一国家首長が、引き続き蔓延する放射能脅威の責任を、今更どうとるというのかい)のだが、さてこの「無責任性」というものが、歴史的には「天皇制」乃至「天皇温存」の国策、乃至国体観念基礎となっている、古来からの、自己批判されたことのない宗教的心情雰囲気から生じたのだとはいえ、この不合理性にあって、近代日本がいかに国家的個人的にこれを論理的に消化処理したかといえば、少なくとも大戦の敗戦によって自然消滅的に、個人のうちでは「宗教的心情雰囲気」からの脱皮を成就した、と思われるいくつかの断面を垣間見ることができる。
 にもかかわらず、戦後直ちに、とりわけ極東裁判での「天皇不訴追」に関する政治的解決の末に、新憲法にあっては「象徴天皇」がまことしやかにでっちあげられた。この瞬間この国は、戦後日本の歩みにあって熟議を尽くさずに見切りで発進するという端緒を、半ば仕方なく(GHQ主導なので)つけてしまったということになる。
 東條以下7名の絞首刑処決によって、大日本帝国の維新以来の功罪は極めて単純な、連合国的「復讐裁判情緒」により粗っぽく結論付られ決着させられ、「戦争責任」の真の意味の検証はこの国の根幹から消えてなくなった。
 今次あってはならない原発事故の責任追及が一切なされてないのは、こうした戦後日本の「無責任体質」を形成した、日本人自身による真剣な「戦争責任追及」がなされずに終わったあの端緒から発している。
 しかも日本史上、いくつかの局面で立ち現れた多くの為政者にみられる「無責任体質」は、どうやらこの国の伝統的本質とでもいうべき様相を呈している。
 朝鮮半島帰化人に端を発するらしい天皇氏族のヤマト凌駕?は、さながらこの国が古来外国人によって支配される実質を有していたことを証明するかのようだ。
 日本人が唯一天皇氏族を斥けた(陽尊陰卑)江戸幕府でさえ「征夷大将軍」のことはもとより、幕末開国期に際しては、京都の朝廷にお伺いを立てなければならなかったのだ。
 「王政復古」がこの国の近代化の夜明けにまさに発せられた。こんな近代化が世界史にあるのだろうか。さながら「フクシマ」が今まさに危機真っ只中にあるのに「原発再稼働」を断行しようというに似ている。その奇妙な自家撞着は狂気じみて目がくらむ。(中断)