沖縄を考える

ブログを使用しての種々の論考

詩353 沖縄から見た日本という国 8

2012年06月04日 14時23分00秒 | 政治論
 原発再稼動もそうだが、世界一危険な基地(とアメリカ自身が言っている)故に多くの米軍基地の中から真っ先に撤去しようという普天間飛行場に、最も問題視され、予測不能の墜落危険性を帯びたオスプレイを配備しようというアメリカとこの国は、まことに国家エゴにとりつかれた恐るべき人民殺戮予定国家というべきであろう。
 しかも、「県民の理解」という偽善的言辞によって、空疎な理念的アリバイをでっちあげ、どこまでも人民を脅迫的に攻撃してやまないのだから、これに対するテロは誰が見ても正当防衛だということがわかろうというものだ。
 ブッシュの9.11がアメリカの軍産複合の国家エゴ(テロ報復戦争)に発したことは今や明白になっているが、にもかかわらずアメリカの一極集権世界帝国主義は(その財政難にかかわらず)未だに頗る健在というわけで、人民は自己防衛の手段として体を張った「座り込み」はじめ人民抗議集会、デモ、など専ら「非暴力不服従」行動を通してしかこれ(自己防衛)を可能にはできないが、こうした、アメリカと追随者の所業を目の当たりにすると、国家対人民の対立軸においてテロへの誘惑はいや増しに増大するものと見なければなるまい。
 現今米中対決状況と米ソの冷戦を比較すると、そこに明白な歴史的質的相違が見て取れようが、軍事的には西太平洋の制海権が争われるという、大国同士の牽制駆け引き軍拡といった一種の緊張状態にあること自体にはなんの変更もないということになろう。
 しかも迷惑するのはどうみてもこいつらの周辺国であり、その人民にほかならない。負け犬が尻尾を振った実質の戦後日米関係が、いかに功利的基準を喧伝しても、所詮追随傀儡的国家政府の「日米同盟堅持」姿勢が人民生活に齎す深甚な屈辱的現状に対し、到底許容できない精神状況にあることは沖縄の実情にあって端的に現れているし、沖縄の人民闘争が「日本人」として当然の、正当な「抗議」であることは「本土の日本人」にあって忘れてならない真実である。
 安保体制の沖縄偏重、普天間撤去の理念的喪失状況、「日米地位協定」の治外法権的不平等性、自国基準の普遍的応用を実施しない米軍展開(基地公害の蔓延)、など、講和条約以降の戦後日米関係の中で、段階的に解消すべき人民的問題に60年間なんらの道筋も具体的進展も示さない日米政府に対し、沖縄人民が、卑劣な国家ぐるみ「差別」の態度を見るのは当然である。
 「本土の日本人」はこの事実をまじめに考慮しなければならない。何故彼ら「本土の日本人」は沖縄に対し冷淡であるか。蓋し、この無関心さは、戦災からの復興と高度な経済成長に成功したものの、日本人自身の精神的成長とはどこか通じない低劣にして下等な獣的な質において充足せんとする傾向、(まさにエコノミックアニマルといわれた内容の)他者を排した利己主義、に裏打ちされたものと思われる。
 昨今のいわゆる「孤立死」や「孤独死」、あるいは「集団いじめ」、またたらい回しにされて手遅れになる救急医療実態、企業倫理を欠いた意図的商品劣化、産地偽装、利潤第一主義、などには、現象としていつも、これまでにない人間的下劣さを連想させるものがあった。
 人間の営為が、途轍もない化け物じみた気配に襲われることは今更驚くにあたらない事なのだろうが、こうした事態について為政者が、あるいは文民が、なんらの異常性をも感じないで通過するということは、彼ら自身が異常だというしかないということになろう。一億総鈍感時代。(中断)