沖縄を考える

ブログを使用しての種々の論考

詩349 沖縄と日本 30の2

2012年01月06日 23時45分36秒 | 政治論
 C・ダグラス・ラミス氏(要石:沖縄と憲法9条)によれば、普天間問題が問題化している現在、そこにいくつかの断層が現れるのだが、その諸層を闡明すると次の事実が分化する。其の一、純粋絶対平和主義(従ってこの世から戦争を絶滅しうるとする立場だ)においては普天間はじめ沖縄にある全ての米軍基地、自衛隊駐屯地の撤去(勿論無条件に)、が要求される。其の二、普天間無条件返還(従って移設先はどこにもない)。其の三、辺野古新基地拒否(従って県外国外移設)。この諸層のそれぞれが意味するところは多々あるが、いずれにしても答えは「ノー」にしかならない。この「ノー」は、日本政府乃至アメリカ政府に対する、辺野古に始まる地域住民、即ち沖縄県民大半の答えであり、この問題が究極的に有する日米安保という核について日本人70%が容認する一方で沖縄では7%しかこれを支持してないし、この数字に表れている「乖離現象」こそ、当事者(7割の基地を抱える沖縄)と、安保の受容者なのに当事者でないもの(本土の大半)との不健全な関係性を如実に示しているというわけだ。彼ら本土政府が「負担軽減」と口にする以上、この事実が有する日本と沖縄の地位的「不平等性」を認めたことになり、その改善意思があるのなら普天間基地を同じ沖縄の辺野古に移す本質的矛盾はどう転んでも(精神異常者でもない限り)あり得ないと思うのが自然だ。ということは、彼ら政府は「普天間返還」の理念的意思を「沖縄の負担軽減」においてはいない、又は置いているように見せかけている、つまり理由はほかにあるということになる。ここにあるのは、沖縄の実質的不法占領者アメリカが、従来から擁していた、沖縄基地構想の一環として見ていた辺野古総合基地計画(基地機能の集約的集中)を、普天間返還の条件として巧妙に「ただ同然」で実現してしまおうという、まことに狡猾なしかも見え透いた魂胆なのだが、「地政学」「抑止力」「中国北朝鮮有事、台湾有事」と出てくるわ出てくるわ、まことしやかなでっちあげの理屈を付して沖縄を騙し、日本人を誑かし、官憲同様「冤罪を被った無辜の民」並みに恫喝恐喝する。情報化社会にあってこうした筋違いの理由をいくらまくしたてても沖縄県民は最早完全に「ノー」以外の答えを捨て去っているので一切の懐柔策は無駄であろう。つまり、沖縄が向き合っているひとつの重大な軋轢、「沖縄と日本」、という差別性、からすれば金輪際「不平等な押し付け」には応じないという意思になる。更に、沖縄戦という貴重な特殊な体験に基づく確固たる「非戦意志」からすれば、基地が有する戦争当事者意識(ベトナム、イラク、アフガン、リビア戦争等々)は拭いがたく継続しているのであり到底この境遇には堪えられず、いっさいの軍事行為が忌避されるのであり、従って普天間移設は県内県外国外いずれにも許されないということになる。純粋絶対平和主義も含め、沖縄の新基地「ノー」はあらゆる断面において同じ答えとなっているわけだ。(中断)

詩349 沖縄と日本 30

2012年01月06日 09時57分50秒 | 政治論
 辺野古に新基地を造らせない、という運動は、三里塚の愛土心(愛郷心)に似通っているが、この愛土心には、激越な沖縄戦体験が深く関わりつつ、15年の時間経過と事情錯綜が敷衍するところの沖縄原風景、環境への愛惜、はたまた住民蹂躙植民思潮が県土を軍事要塞化し、また、しつつあることへの警戒感、不信、嫌忌、拒絶反応がもたらす、本土政府並びアメリカ政府及び本土の日本人一般に対する反発抗議と、不条理な対応への絶え間ない怒り、不平等な待遇に置き去りにして顧みない、不人情への嘆きと侮蔑、繰り返される裏切りと欺瞞に対するあきらめに似た倦怠感、薩摩侵攻以来脈々と受け継がれた、本土の差別精神への嫌悪、侮蔑、が沸々と煮え滾っている。
 動物的忠誠心と称された皇民化教育成果としての「集団強制死」頻発は、いわば沖縄県民琉球民族絶滅計画に同じい。愚劣きわまりない「本土防衛の捨石」作戦の残虐にしてでたらめな戦略性を、軍隊論理の一般住民応用という国家犯罪とみなすなら、まさしくこの戦争が大陸・南方戦線で暴虐の限りを尽くした、日本軍の本質である「軍隊、軍事基地、およそあらゆる軍国思潮、軍拡行為が一般人民を守ることは絶対にあり得ない」真実をまざまざと見せ付けたのである。
 従って、少なくとも現代戦争理論上からも、軍事基地近辺の危険性は必然的に考慮されるべき事柄だ。今更いうまでもなく日米安全保障協約は憲法9条に違背する。従って法論理的に、軍事基地に他ならない米軍基地は日本国憲法における憲法違反施設である。これを講和条約の付帯条件として受け入れたにしろ、既にその違法性は明白な以上、66年経過したこの時点でこれを解消すべき実質は確実だ。
 そしてまた、不幸な体験として、とうとう起こってしまった原発事故が、図らずも証明した「経済的特別待遇」としての、誘致のための交付税やら振興策が、「死の危険性」と背腹の間柄にあるということだ。
 だから最早、政府官僚が画策する「あめとむち」や「札びら切る」政治には絶対に加担すべきではない、と、沖縄県民も知っている。しかも振興策の公共事業の大半は本土のゼネコンが掻っ攫っていくことも既に熟知されている。つまり何一つ地域住民のためにはならないし、益々危険度を増すだけの米軍基地を、何が悲しくて受け入れなければならないのか。死んでもいやだ。と、辺野古の「おじいおばあ」は思っているはずだ。朝から夜10時まで海岸端にテントを構え「座り込み」をしているあの年老いた、弱弱しい人たちを君たちは平気に見られるかい?(中断)