筆者は何度も言うように沖縄移住者だが、ここにこうしてヤマトゥ的な存在性で住んでいること、ああいうヤマトゥ的日本人(安倍晋三以下自民党と多くの知らぬふりの日本国民)と同じであることが実に恥ずかしい、と言いつつ、のうのうとここに住み着いて離れない。何もかも捨てて此処に来てしまって、もうどこにも行く当てがないからここにいる。何故ここに来たのか、その運命の意味するところは何だったのか、と考える。そう考える動機は、ここが本土とは違う扱いを日本政府、日本という国、その国民の未必の故意によって受けている現実を否と言うほど目の当たりにしているからだ。
その初めは2007年(移住の翌年)9月に開催された高校教科書検定意見撤回に関する県民大集会だった。筆者はその折りには当時住んでいた名護の野菜市場で、親しくなった農家の人たちとユンタクしていたが、その中の同年配の友達に「集会には行かないのかね」と聞いたときの、「もう、いくらやっても甲斐がないのであきらめた」という彼の答えに何となく黙るしかなかった。
しかしこのとき集会はかつてない11万の県民を宜野湾海浜公園に結集させていた。勿論ヤマトゥ本土では到底考えられない大規模な住民集会であり、筆者の何気ない常識のうちでは、当然に県民の意思は文科省を動かし、検定意見は撤回されるものとその時は思った。因みにその時の首相が安倍晋三だ。「集団自決」に関して並行する大江岩波訴訟は2005年8月に始まり2011年4月最高裁で上告棄却により大江岩波側が勝利した。
当時の(つまり第1次内閣の)安倍晋三は間違いなく今の日本会議系軍国主義、自衛隊国軍化等右傾化を標榜するまぎれもない国家主義者だったが、彼はやがて病変し不様に内閣を投げ出した。筆者は福島瑞穂氏と同じようにこの宰相の脆弱な坊ちゃん気質を慨嘆せずにいなかった。その後「集団自決」の教科書記述は「軍の関与」は認めたが「強制性」を明示するに至らなかった。つまり「沖縄戦」や「集団自決の」実質上の当事者であった沖縄県民乃至その係累、あるいは子孫が、11万の大規模抗議集会をぶち上げてさえこの国は言語学的曖昧さの中に卑怯にも逃げ込んだだけだった。当然そこに蟠る県民感情は内面深く沈潜していく。
単純に、「構造的差別」という文言で括られた日琉の関係性は、差別する側について「後ろめたさ」「罪悪感」「申し訳なさ」「お詫びする心」「土下座してお願いする筋合いにあると思うこと」など、倫理的人道的なバックボーンがあると想定されぬ限り、恐らくは何の意味もない。筆者の見るところ、ヤマトゥの政府官僚又はヤマトゥ的存在性にあっては、公平性を絶対的基準とする為政者倫理や、欺瞞を素直に嫌忌し憎悪する正義感、などの決定的な欠如を指摘しなければ済まないだろうと思われる。極論すると、ヤマトゥ的存在は人間的価値(倫理的なもの)に関する天与の素質を持たない稀な人種だ、ということになる。
残念ながらこの筆者も又彼ら同様モラルバックボーンを持たない人種であるらしい。
そういう連中に「差別するな」「いじめるな」「馬鹿にするな」といくら叫んでも甲斐はない。政府の人間が「やるといったらやる」といったのは、敢えて人殺しも辞さない(むしろ沖縄人を抹殺して工事をすると宣言したことに等しい)ということだし、山城氏があそこで退いたのは賢明だった(高江のこと)。殺されるよりましということ。(つづく)