沖縄を考える

ブログを使用しての種々の論考

詩395 「人間の国」でない国にいる我々

2012年10月06日 15時17分13秒 | 政治論
 小田実が書いていたように、この国は「人間の国」ではない。このことを徐々に実感し始めたというのは既に遅きに失した話なのだが、しかしその内容については多くのルポ、論文、エセイ、あるいは識者の時代批評において開陳されていて今更ここに縷々並べ立てる必要はない。
 台風17号の接近で配備延期となり、ある意味、配備断念、または再考の雰囲気が出たかと正直思ったところもなかったわけではなく、こうも易易と普天間にその不気味な機体が出現するとは、実際「多少の」驚きと怒りに震えた瞬間が沖縄県民なら誰にでもあったであろうと推察する。
 「多少の」というのは勿論、県民の過去の経験から十分ありうる事態という予想が、とうにされていたという意味だ。近くは例の辺野古「環境アセス」許可書県提出事件でみせた沖縄防衛局の下司な行動や、宜野湾市長選での真部朗選挙介入越権行為だが、そんなことより17年動かない普天間飛行場問題そのことではある。
 事ほど左様に通常、真の責任者は殆ど罰せられることがない。例えば大東亜戦争における大元帥たる昭和天皇にあって、事実上国体護持容認という政治判断に基づくアメリカ側の意思決定は、8月15日より数日前に天皇の耳に入っていたことが既に暴露されていて、かの玉音の大時代的表現の中に吐露されたと思われた天皇の「切実なる」思いというのは、一片の真情もこれを有しないことが明らかになっている。
 つまりセレモニーであった。この天皇免訴にしても原爆投下命令最高責任者たるトルーマンにおける明白な「人道に対する罪」にしろ、決して裁かれることはなかったし、この度の大震災はもちろん原発爆発事件の責任者が誰で、どういう罪に問われるべきかについては一切何の追及もなされなかった。
 だから再稼働はおろか建設途中の原発工事再開さえヌケヌケと実行されることになる。このオスプレイは最高権力者大統領オバマの裁量にあるゆえにオバマの識見によってさえ十分に撤回可能な事案にほかならない。もしこのまま彼が何の裁量も下さないとすれば、アメリカ大統領の事故責任荷重は最大級のものになる。しかし彼はなんの責任も追及されないだろう。「正義の戦争」を肯定し、そこから発してあらゆる軍事的国家行為にお墨付きを与えた結果、西太平洋の戦略的恣意は縦横無尽に発揮され、その功罪はいずれにしてもあらゆる人民的事情に優先される。
 オバマはオスプレイが沖縄県民の頭上に飛び交うことを軍事優先思想に基づいて実行した最初の犯罪者にほかならないが、誰も彼を戦犯とは言うまい。彼は何一つ敗北してないのだから。しかし歴史は「人道上の罪」という汚名を彼に冠するであろう。墜ちても墜ちなくとも、だ。今彼に仲井真知事が直訴しても「ソッポを向かれる」だろう。かのオバマにとって今やオスプレイどころではない、彼の権力の座が裁かれようとしているとき多くは選挙対策としてしか発動しない。
 ではどうするか。ベストを尽くすという敗北の言い訳は予めのたまうものではない。彼らの順調な軍事行動を邪魔すること、彼らに発砲させること??、海兵隊をまとめてオルグること、等々。やることはたくさんあるようにも思える。(中断)


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