沖縄を考える

ブログを使用しての種々の論考

詩 297

2011年03月16日 11時04分57秒 | 政治論
 テレビの画面に映し出される被災地の惨状はさながら敗戦の焼け跡のようでびっくりさせられる。天災が神の業(わざ)ならば神はまさしく「最も弱い部分に完全に」現れたということなのか。この絶望的境涯にあって人はただ本来の人たるべくあるしかないのだろうか。被災者と非被災者の心情的生活感情的ギャップはまたしても日本人の精神の奥底を試している。沖縄は本土の非被災者と共に被災者をただただ傍観するのみなのか。基地被害の当事者たる沖縄県民はこの悲惨な現実を「対岸の火事」視してはならない。同じ精神の無際限な利己主義スパイラルにおちてはならない。辺野古に展開しているこの国とアメリカの強行突破の悪魔的殺人ゲームを憎悪と憤怒のまなざしで眺めるなら、同じように強行突破した原発の殺人的危険性の横行を激しく非難しなければならない。世界は恐らく現代文明の使用方法をある一点において誤ったのだろう。それが人間の人民の大衆の真に救命になるのかどうかを思考し試行したのかどうかだ。巨大地震と大津波が人間の尊厳を試している。こういう惨状を目の当たりにしてなお戦争準備基地を辺野古に展開しようというのか。どう考えてもこの国の政府とアメリカは間違っている。こいつらはどうみても人殺し集団だ。どの道このブロガーは混乱している。彼の身内も東北関東に当事者として生活しているが故に。(中断)


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