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犀川の河川整備を考える会

犀川の辰巳ダム建設を契機に河川整備を考え、公共土木事業のあり方について問題提起をするブログ。

【能登半島地震】能登半島地震災害で受けた支援を振り返る(その4)

2024年09月07日 | 能登半島地震
 金沢への避難は、1,2月の2カ月とすることにした。
 電気と水道、生活道路の仮復旧が、2カ月もすればある程度回復するだろうと想定したため。
 少なくとも、電気・水道が回復しないと再建のための活動ができかねる。
 元の住まいから遠距離の地に避難していたのでは、居住家屋の片付け、立ち直りが一歩も進まない。
 一日も早く戻らないと(-_-;)

 3月の初めに戻った。 
 近所への挨拶、近況などの情報を入手。
①生活道路、家屋の現状の確認など。
 生活道路➡道路状況は、アスファルトの亀裂、段差、凹凸が多数あり。車は通れるが、下水道管が損傷しているらしく、あちこちで路面が陥没。
  生活道路の途中では、山の斜面が大きく崩壊して道路を塞いだ後があったが、車が通れるように片側一車線の土砂は排除してあった。
  まだ、時折、積雪があり、移動が難しい。
 家屋の現状➡柱・梁などの構造は比較的健在、だが全体の歪みがあるので多くの戸が外れたり、動かず。玄関の戸は歪み、ガラスが脱落。家具等は室内に散乱。
  気温も低いので、片付け作業に意欲がわきにくい状態。
 水道➡水道はまだ不通(宅地内で漏水があるため、開栓できず)。
  山の水の水道は通じているが、建物と外部との境界で管が破断しているので、水圧が弱く、水洗、洗濯機は使用できず。
 電気➡電気系統は、一部、蛍光灯の脱落はあったが、使用できそう。
  電力会社へ通電開始を依頼し、通電後、漏電の有無を確認しながら、ブレーカーを入り。
  照明は回復。
 通信➡パソコン通信は、ADSLを利用していたが、アナログ電話の廃止にともない、3月末で終了した。
  その代わりとして、金沢でホームルーターを入手して、設置したので、パソコン通信が回復、スマホもWiFi接続。
 炊事と暖房➡熱源は、薪ストーブ、煙突は無事。。
 洗濯➡水道管の一部が破断しているので水道管の圧力がかからず、洗濯機が使えない。
  稼働している、遠方のコインランドリー通い。
 風呂➡お風呂は、近くの広場に自衛隊風呂が設置されたので自衛隊風呂通い。
 トイレ➡糞尿は、幸いと言うか、山の中の一軒家!でもあるので、毎日が雉打ち、お花摘み、、。
 
②片付けと補修。
 片付け➡家の中に散乱しているものを片付け、災害ゴミとして搬出。
  村の運動場近くに災害ゴミ集積場が設置されていたので、毎日、車(パジェロミニ)の後部にゴミを載せて40回弱の搬出、一カ月半ほどかかった。
  それでも、畳や布団などやや大型の災害ゴミがあるので、ボランティアセンターに依頼し、軽トラに5台分、搬出した。

 宅内水道管の修理➡水が不自由なのは困る。
  宅地内水道管の修理を村内の設備業者に頼んだが依頼件数が多すぎるのか、無しのつぶて。
  娘の紹介で、水道の配管の補修専門のボランティアに頼んだ。
  1カ所は、1日もかからず、修復できたが、もう1カ所は、下調べを含めて、4回ほど来てもらってやっと直った。
  ボランティアの方々は、関東や名古屋などの遠方から、週末を利用してやっているとのこと、依頼してから、2カ月ほど要した。
  なお、支援の人達に尋ねたところ、 
  →阪神大震災、東日本大震災、新潟地震、熊本地震などの災害が多発したことで、助け合いのための活動が盛んとなり、NPO法人などを通じて支援の人達が全国から支援にきているとのことだった。ありがたや(^^)/

 ボイラーの修理➡宅内の水道管は直ったが、今度は、温水ボイラーが動かないということがわかった。
  ボイラーを納入した業者の方に点検してもらったところ、鉄管の錆がボイラーのフィルターに詰まっていたことが判明、錆を除去したら回復。
  風呂の蛇口の漏れは、ホームセンターで購入した“シャワー付き混合水洗”を取り付け。
  これで、水回りは回復、めでたしめでたし(^^)/

 合併浄化槽➡外観の損傷はなし。ブロワーも稼働。浄化槽までの配管も支障は無いよう。
(つづく)

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【能登半島地震】能登半島地震災害で受けた支援を振り返る(その3)

2024年09月06日 | 能登半島地震
 災害が発生すると他所からやってくる不届きな奴もいる。
 わが村では一時避難場所から自宅へ戻ったところ、見知らぬ男が家から出てきて逃げて行ったとか、
 親戚の相撲部の青年が、各家を出入りしている見知らぬ男を見つけて警察に突き出したとか、災害現場で窃盗をはたらく者の噂を多数、耳にした。
 そのうち、パトカーの巡回が頻繁に行われるようになっていやなニュースは、ほとんど聞かなくなった。
 石川県警はもとより、警視庁だ、神奈川県警だ、埼玉県警などと表示した、全国から応援のパトカーが走り回っていた、今も走り回っているが(^^;)
 他所からやってくる不届きな者には天敵だろう。
 
 金沢に避難直後は、新聞やテレビ、ウェブで情報を収集して状況把握。
 まずは住処、避難場所の宿泊施設も好意の提供で、契約しているわけではなく、一時的に1月末まで、その後は未定。
 そのため、2月以降の避難場所の確保のため、家屋の下見や手続き。
 そして、遠隔地からもできる、被災家屋にかかわる諸々の手続き。
 まずは、罹災証明書の申し出(罹災の証明、支援・義援金の受け取り、税金の減免、仮設住宅への入居のため等々)、
 電気、水道などの一時停止届の申し出などなど。
 被災した家屋については、交通が渋滞している上に、被災家屋周辺の道路も寸断されて危険という状態で確認のために戻ることを断念。
 日頃、親しくし、現地で頑張っている人に連絡を取ってできる応急措置を依頼。

 方々から、お見舞いや被害確認の連絡が入る。
 幸いに、家内ともども怪我などの被害はなかったので元気な様子を伝える。
 また、金沢の親戚を訪ねて近況報告。 
 ただ、家内が老齢と心労の所為もあるのだろう、初めての腰痛が出て接骨院通い(-_-;)
 
 遠隔地からでもやるべきことは多々あったが、それでも10日もすれば、余裕ができる。
 近くに最近開館した人気の大図書館を利用、能楽堂の観能、美術館での工芸品鑑賞、加えて知り合いとの交流などなど(^^;)

 その間、多くの方々から支援を受けた。
 被災者支援団体からの食料、衣料提供。
 身内や知り合いからのお見舞い金と食料品の受領。
 公的な支援金(家屋の損壊程度による、当方の場合、一部損壊)を受けた。※

※ 災害義援金:居住家屋の損壊程度によって異なるが、当方は一部損壊で以下の通り。
 能登町災害義援金・町民一人3万円
 能登町被災者応援給付金・町民一人3万円
 石川県災害義援金・町民一人5万円
 石川県災害義援金(第二次配分)・町民一人3万円
 合計 一人あたり14万円

※ちなみに、「義援金」と「支援金」の違い
 被災地支援の募金には、大きく分けて「義援金」と「支援金」がある。
 義援金は全額が直接被災者の手元に分配され、生活の再建などに役立てられるもの。
 支援金は寄付する人が応援したい団体などを自分で選ぶことができ、使い道もその団体の判断で柔軟に活用できる違いがある。


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【能登半島地震】能登半島地震災害で受けた支援を振り返る(その2)

2024年09月05日 | 能登半島地震
 奥能登の柳田は震源から20kmほど、震度7~6強。
 金沢は、震源から直線距離で120km強。
 震度は、5強だった。
 6強と5強では、被害の程度の段違い。
 奥能登では、木造住宅の骨組みが損傷して全壊、半壊家屋が多数発生。
 金沢では、家財の被害はあったが、住宅が損傷する被害は少なかった。
 最も大きな違いは、公共インフラ(電気、通信、上下水道、道路など)の被害である。
 金沢での被害はほとんど無いが、 
 奥能登では、電気、水道がほぼ全体が復旧するには、数カ月も要した。
 下水道、生活道路の復旧は、数年かかりそうだ。

 我が家は、家内と二人。
 家が潰れなかったので避難するつもりはなかったが、娘夫婦の助言で金沢へ避難。
 金沢ではすでに、様々の形で被災者への支援が始まっていた。
 支援団体の事務所で、避難者のための一軒家の提供を受け、
 当面の食料(米、野菜、缶詰、レトルトカレー、調味料など)、衣料品(防寒のための衣類など)などの受け取った。
 避難した家屋は、もともと旅行者が短期間滞在するための施設で宿泊のための寝具をはじめ、調理やお風呂など生活するためのものがすべて整っていたので快適な避難生活だった。
 仮設みなし住宅扱いで、光熱費を含め、すべて無料。
 、、、、

 8カ月ほど経過し、振り返ってみるにとんでもなく多くの人に支援を受けていることに気づく。
 避難した2カ月ほどは、なにげなく支援に甘んじていたが、受けた恩恵はどんどん、忘れて、支援が足りないなどと不満がでてこないように、
 思い出して、心の整理をしているところだ(^^;)

 何となく考えてみるに、縄文の昔から、日本列島では自然災害が多く、そのたびに助け合ってきたのだろう。
 いざとなると、わが民族が団結する国民性は助け合いの積み重ねの上に醸成されてきたからに違いない。
 (つづく)


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【能登半島地震】能登半島地震災害で受けた支援を振り返る(その1)

2024年09月04日 | 能登半島地震
 能登半島地震発生から8カ月。
 テレビ、新聞などの報道では、復旧が遅々としていることが報じられていることが多い。
 そして、「国は何もしてくれない、」などと不満を述べる被災者の声が大きく載せられている。
 マスコミは、批判することが役割と認識しているらしく、どうしても結論が「社会が悪い、国が悪い、○○が悪い、、、」となりがちのようだ。
 当方の経験から、これまでの経緯の一端を振り返ってみることにした。

 令和六年元旦の午後4時過ぎ。
 能登半島の先端、珠洲市を震源とする地震が発生。
 それから、1年の3分の2が過ぎた。
 いろいろな方々から支援を受けた。

 七十有余年の人生でいまだかって経験したことのない揺れにおそわれた(震度6強)。
 揺れは一分ほども続いたろうか。
 それまで、地震の揺れは無数に経験していたが、大体は数秒のことだ。
 グラグラときて、何事だと驚く間もなく収まる。
 ところが、今度は揺れが続き、棚のものはガサガサ落ちる、何なんだと驚くばかり、そのうちおさまった。
 二人でお茶を飲みくつろいでいた時で幸い、家内もケガはなかったが、周りは散乱したもので足の踏み場もない状態、茫然自失。

 幸い、建屋は壊れず、一部損壊あるいは準半壊といったところだった。
 だが、電気も途絶え、通信も不通(デジタル電話は不通、わが家のアナログ電話は生きていた!)で一週間ほどは原始生活。
 正月用に用意していたので食料はあった、炊事は薪ストーブ、山の水が水源の水道、下水道は使えなかったが、山野の一軒家なので野糞。
 地震直後は、道路も寸断、状況もわからず、安易に動くのは危険と、とにかく身の回りの片付けだけ、冬で日が短いので片付けも進まない。

 そのうち、金沢の娘夫婦が心配して、金沢で避難場所を見つけてくれたので、被災地の社会インフラ(電気、インターネット通信、生活道路など)が仮復旧するまで避難することにした。
 被災後の1週間後の1月6日、平生は、2時間程度でたどり着くところを4時間半ほどかかって、無償で提供された住宅(仮設みなし住宅か)へ移動。
 約2カ月間、金沢で避難生活を送った。(つづく)

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