誠茅庵という名の小さな小さな美術館

絵や写真、そして雑感日記。。
六十の手習い(水彩画、スケッチ等)帖。

27展ー(9) 特別企画 洋画家・高橋 亮 遺留作品展ー(序の1)

2015年08月22日 | Weblog

 

         「 陸軍落下傘部隊」降下の図

        暁教育図書刊  昭和日本史 6  「帝国陸海軍」より

   ≪ 特別展のご挨拶とご説明 ≫

  今回展示の作者,高橋 亮は実は私の父親なのです。

  72才の生涯を41年前に終えましたが、その一生は絵画一筋のもの

  でありました。まさしく純粋にただ絵のみを唯一の天職とし、正真正銘の

  プロの絵描きに徹しきったものでありました。

  現在の多くの絵描きさんのそのライフスタイルとは隔世の感があります。

  名声にも金銭にも縁はありませんでしたが、あくまでも絵を愛し、自然を好み

  酒を愛しながら、絵と共に生きた人生は本人に取っては幸せなものであったろう

  と信じています。

 

    


27展ー(9) 特別企画 洋画家・高橋 亮 遺留作品展ー(序の2)

2015年08月22日 | Weblog

 

             「アトリエで制作中」 

            いかにも大正か昭和の初期の絵描きのポーズといった姿です。

 

      ≪まずは高橋 亮の簡単な経歴を紹介してみます≫

       (某雑誌社及び公的機関に前に提出した写しのまま)

           

           ≪ 洋画家 高橋 亮 概略経歴 ≫

        明治35年  福島県安積郡湖南村福良に生まれる、

        会津中学、日本美術学校を経てロンドン市立セント

        マーテンス美術学校卒業

       (画 歴)

        日本美術学校講師

        海軍報道班員として、セレベス、ジャワ、バリ島方面の戦争画多数

        長年、第一美術協会の委員を務める

        昭和43年、同展出品作で文部大臣賞を受賞

        東京銀座で何十年に亘り個展を開催

        故郷会津の風景画を多数描く

        習志野航空自衛隊所蔵 「落下傘降下の図」

        国会参議院に、松平参議院議長肖像画を納める

        上野精養軒 「会津の風景」 その他。

        昭和49年 神奈川県茅ヶ崎市にて没す   以上


27展ー(9) 特別企画 洋画家・高橋 亮 遺留作品展ー(序の3)

2015年08月22日 | Weblog

 

                 『巡洋艦撃沈』  

                        毎日新聞社刊 Ⅰ億人の昭和史 「日本海軍の軌跡」より

 

      

     ≪戦争中の絵描きさん達は≫

   美術系の古い本や資料を見ると、パリとロンドンで長く修業のあと帰国し、新進作家と

   して活躍をしていたようです。しかしやがて日本は戦争に突入し南洋と中国大陸とに

   侵攻しました。国を挙げての戦争一辺倒で、その頃には多くの絵描きが生活の手段と

   して、そして絵を描ける機会として捉え、その信条思想哲学には関係なく、多くが従軍

   画家として戦地へ行ったのです。

   本人も海軍報道班員となって支那と南洋諸島に従軍し、従軍画家として戦地から内地

   への報道や絵を描いて兵士達の慰問をしながら、各地を周り多くの戦争画やスケッチ

   画を残しました。

   戦後になって、たまたま戦争遺族の方から「戦死した父が息子が戦地から送ってきた

   最後の便り」ですと見せて貰ったのが、父の戦地での軍用絵はがきだったことが度々

   ありました。


27展ー(9) 特別企画 洋画家・高橋 亮 遺留作品展ー(序の4)

2015年08月22日 | Weblog

 

           「東京の家のアトリエで、家族4人」

            母に抱かれているのが私です。

 

       ≪ 戦後の苦難の頃 ≫

  戦後は家族が疎開している会津若松に住まい

  故郷の風景を描いて生活しながらも、中央画壇とは長い間遠ざかっていたようです。

  この中央画壇と疎遠だったこの長い期間は、画家としてはさぞ精神的には苦渋、苦難、

  苦痛の日々だったのだろうと、今になって想像しています。


27展ー(9) 特別企画 洋画家・高橋 亮 遺留作品展ー(序の5)

2015年08月22日 | Weblog

 

 

           「英国人少年と若き日の父」

         英国での修行中に、ロンドン郊外のスケッチで知り合った少年で、絵が

         好きでとてもなついて来て可愛がったそうです。

         部屋にも遊びに来るようになり、その後も長い間、交流が続いたそうです

  

      ≪ 東京で画業に専念、幸せの頃 ≫

   さて、戦後の混乱もやっと復興しつつあった頃、幸い空襲を免れた東京の自宅に

   戻ることが出来ました。目黒区平町の広いアトリエで再び画業に専念の生活が

   始まりました。

   絵と酒をこよなく愛し、良き妻と素直な子供達?に囲まれて、私の贔屓目では

   ありますが、制作に没頭しそれなりの評価を受け,その将来の躍進への期待と

   可能性とに満ちた時代で、画家として人間としても最も充実した一番幸せな時

   だったのではと思います。

   第一美術協会という美術団体でも中心人物で理事委員とし長年貢献したようです。


27展ー(9) 特別企画 洋画家・高橋 亮 遺留作品展ー(序の6)

2015年08月22日 | Weblog

 

          まだ疎開をする前に東京の家で。父、兄、私です。

 

    ≪ 茅ヶ崎へ移る ≫

 その後今にして思えば、父が60才頃だったでしょうか脳溢血になり、いささか手足が

 不自由になると同時に急激に気力、意欲、体力が衰えました。

 そこで気分転換と、若い頃スケッチに行った湘南の地ならば、散歩も出来、スケッチも

 する気になるだろうという本人の希望で、神奈川県茅ヶ崎の海に近いこの地へ転地の

 ように移り住みました。

 しかし庭から一歩も出ることもなく、そこへ大腸がんの手術などもあり、結局は茅ヶ崎の

 10年間で我が家の庭と、今では家がびっしりと建っている家の前の空き地にあった

 黒松の林を描いた2~3枚だけで終わってしまいました。

 、


27展ー(9) 特別企画 洋画家・高橋 亮 遺留作品展ー(序の7)

2015年08月22日 | Weblog

 

      南洋でのスケッチブックよりー1  「オランダ人捕虜の食事風景」

 

    ≪ 絵の寄贈のこと ≫

 さてところでこの展示を思いついたのは、この度或る所からその作品の何点かの寄贈を

 打診されたのが切っ掛けでした。

 その要望に応えるべく、果たして我が家にちゃんとした作品が未だ残っているだろうかと

 探してみたのです。

 平成15年だったか、埼玉県平和資料館からやはり依頼されて、同館へ戦争画、戦地

 風景、南洋の生活風景等を数点を寄贈したことがありましたが、それ以来のことで、

 果たして寄贈できるような痛んでいない作品があるだろうかと心配で、久し振りに家中を

 改めて探す機会に恵まれたのです。


27展ー(9) 特別企画 洋画家・高橋 亮 遺留作品展ー(8)

2015年08月22日 | Weblog

 

       南洋の風景スケッチよりー2  「 マカッサル郊外にて 」

  

     ≪ 30点の絵が30年ぶりに日の目を見る ≫

  こうして探した結果は、物置や私の書斎の一番奥で本と一緒に無造作に積んで

  あったとか、納戸の隅に埋もれていたといった有様でした。

  それでも物置のいささか朽ちた100号以上の大きな何点かは別にして、

  キャンバスに描かれた4~50号のものが約30点、スケッチブックが数冊という

  成果でありました。現在居間などに掛けている4~5枚を加えると35点位に

  なったのです。

  何十年ぶりに見るもの、記憶にあまりないもの、全く初めて見る作品等に接し、

  時の流れを思い、懐かしさと共に深い感慨に打たれました。


27展ー(9) 特別企画 洋画家・高橋 亮 遺留作品展ー(9)

2015年08月22日 | Weblog

 

       南洋の風景スケッチー3 「マカッサルの村落}

 

    ≪ 40年放置された絵は…≫

 所が私はまことに不肖の息子でありまして、その親の絵描きとしての実績や業績、

 そして作品の保管とか維持に関して全く何もしないままに40年が経ってしまいました。

 名は忘れられ、美術年鑑からも消え去り(多分ですが、それすらも確認もしてませんが)

 残っている絵は汚れ,剥離、折れ目、破れなどがあるという惨憺たる状態でした。

 こんな親不孝も私の絵に対する関心や愛情が薄かったからでしょう。

 絵を愛する、描くというDNAは残念ながら一寸も伝わっていないようです。

 しかしその分、酒の好きなDNAだけはこれは紛れもなく十分伝わっていると胸を張って

 言うことが出来ます。


27展ー(9) 特別企画 洋画家・高橋 亮 遺留作品展ー(10)

2015年08月22日 | Weblog

 

        従軍スケッチブックよりー1 「メナドの村の通り」

 

  

   ≪ 自責の念と、絵が好きだけは遺伝したのかもという感慨 ≫

 

 こうした親の絵に対して何もしてやれなかった、大事にもしなかったという自責と悔恨

 の念にかられ、その絵の無惨な姿を見るに付けて慚愧の気持ちを禁じられません。

 そんな私でも、年をとり定年になって、お定まりの趣味作りのための教室で、たまたま

 初めて筆をとり、、絵に接することとなりいささか絵というものに目覚めました。

 己が描くのは駄目ですが、絵を見るのはこんなにも好きだったのかと驚きました。

 人並み或いはそれ以上に絵の好きな自分を意識したものです。

 これはやはり目に見えぬ、子供の頃から育った家庭環境や或いは一種の遺伝の勢でも

 あるのかなと近頃では思っているのです。