Be joyful always
(1 Thessalonians 5:16)
今日、12月19日は、エレナ·ポーターの誕生日。
小説「少女パレアナ」をして、「パレアナイズム」旋風を巻き起こした作家だ。
日曜劇場「ポリアンナ」というアニメなら、覚えている人がいるかもしれない。その原作を書いた人だ。
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イエス・キリストの誕生のそのとき。
夜番をしていた羊飼いたちに、御使い(天使)は、
「今、私はこの民全体のための
すばらしい喜びを知らせに来た」(ルカ伝)
と言った。
キリスト(救い主)の誕生は、私たちにとって、喜ばしい出来事、なのだ。
羊飼いたちは喜んだ。
今も、時期はともかく、「クリスマス」(キリストの誕生)はお祝いごととなっている。
嬉しいことが起こったときに、嬉しいと感じる。喜ぶ。これはフツウかもしれない。
だが、嬉しくないことが起こったら?
…そんなときでも、どんなことも喜ぶ。
これが、パレアナがお父さんとやっていた
『何でも喜ぶゲーム』
だった。
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これは、やってみるとなかなか難しい。
(一体全体、自分の思い通りに行くなんて、この人生で、何割あるだろうか?)
パレアナが、最初に『なんでも喜ぶゲーム』を牧師のお父さんと行ったのは、
「お人形が欲しかったのに、出てきたのは松葉杖」
という時だった。
貧しい牧師のお父さんの元、パレアナに来たプレゼントは、希望していたお人形ではなく、使い道のない松葉杖、だった。
(パレアナは、このときから、このゲームをした。あなたなら、この松葉杖に何を見出すだろう?)
その後、叔母のもとに身を寄せたパレアナは、病気で寝たきりのおばあさんのところにお食事を差し入れすることに。
そのおばあさん、スープを持っていけば、お肉のゼリー寄せを食べたかったといい、
ゼリー寄せを持っていくと、スープを食べたい気分だったと、不平が多かったが、パレアナどの出会いをきっかけに、少しずつ変わっていった。
パレアナの言動は、小説の中に留まらず、全米にパレアナイズム旋風を起こしたらしい。
その100年後。
幼い頃の私が泣くと、よく、母方の祖母に「パレアナだったら、どうすると思う?」と聞かれたものだった(苦笑)
(その風は、東の果てまで届いていたようだ。)
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だが、実は、これ、ある意味、元々聖書にも記されていることだったりする。
すなわち、
「常(つね)に喜(よろこ)べ」
(新約聖書·テサロニケ人への手紙第一 5章16節)
と。
…ならば、この『何でも喜ぶゲーム』、
思い出したときだけでも、やってみましょっか。
つまり、出来事やモノへの見方に、
別の視点を導入して、
喜べることがないか考えるということを。
「実は…だったのか!」的な新鮮さと心地よさを感じることを。
少なくとも、これは気分転換のみならず、
私達の身体の免疫力upにもなることは間違いない。
人生の好転となるかもしれない。
それでも、「自分の人生、何も楽しいことがない」と感じるならば、
先ずは試しに、
私たちを作ってくださった御方を知ろうとしてみよう。
その御業に思いを巡らそう。
…何か、変わるかも、しれない。