(メモ)
昔、あるところで、こんな質問があった。
「貴方の中の『本当のクリスチャン』像と『偽物のクリスチャン』像について教えてください。
「あれはどうも偽物っぽい」「これこそ本物といえる」「それをするのはクリスチャンらしくないのではないか」と云った感じでもok 」
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すると、
A「100%本物のクリスチャンも100%偽者のクリスチャンも存在しないと僕は考えています」
B,C,A「他人がとやかく言う問題ではありません。」
E「私にいえるのは「洗礼受けてないのに自称する奴は詐称」ぐらいですかね。」<某教会の長老>
F「日ごろの行い、信仰のあり方がイエス様を冒涜している方がクリスチャンを名乗るのは失礼なのではないでしょうか。 」
<日頃の行いも悪いのに、都合の良い時だけ聖書を持ち出すクリスチャンの友人がいる方>
(←Eのツッコミ
「誰なら失礼でないわけ?」)
H「私の中の本物のキリスト者は「人として尊敬できるキリスト者」あるいは「ほのかにキリストの香る方」かな。
私の中の贋物のキリスト者は ご本人の意識とは無関係に私がその方の言動を見て なぜか「救われてないなと感じてしまう方」」
I「「自分の信仰は本物で、自分の中に偽物性は何もない」←もしこう思うなら、それこそ「偽物クリスチャン」じゃないかと…(自戒)」
などという反応があった。
その後、案の定(荒れてきているぞ…もうちょっと穏やかに…)・・・という展開もあったが、その中で、あるノンクリスチャン(Sさん)のこのような話があった。
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S「・・・ただ、もしクリスチャンが他の方へこのような接し方
(Sさん曰く「誰の目から見ても偽物」なのではないかと思うほど、暴力的で攻撃的な口調の発言のコト)をしたり、
あるいは露骨にノンクリスチャン達の価値観を受け入れきれていない排他的な姿勢(
もしくは彼らは劣っていると認識している姿勢)で接したりしているから、
クリスチャンに対する偏見が拭えていないのではないでしょうか? 」
S「・・・当人はクリスチャンとして暴言を吐くことが正しい事だと自覚しているにも関わらず・・・(中略)・・・いまだに首尾一貫性のある行動だとは思えません。
また、ノン・クリスチャンの私をはじめ、どの宗教にも属していない人達の世論からは、「クリスチャンとはこういう人達なんだ」・・・と反映されるのも仕方がないのではないでしょうか?
ただし一方で、真面目に世のため人のために身を挺して働いていらっしゃるマザーテレサのようなクリスチャンの存在も忘れてはいけません。そういう人達もたくさんいる事も知っています。
ですから、私の視点…にて 「本物」&「偽物」 があると観察させていただいております。
これは裏を返せば、クリスチャンの方達に対する期待も少なからず残っているという事です。
もし、クリスチャンは全員が●●と偏見を抱かれたら、どうなってしまうでしょうか?
つまり、「本物」&「偽物」 もなくなってしまうという事です。
全体を偏見でしか判断されてしまうと、完全に信頼を失ってしまいます。
信頼を失うと、クリスチャンにとって伝道活動はできなくなるでしょう。
不正を犯した企業の株が下がっていき、経営不振に陥っていく状況へと似ていきます。
現在でも私をはじめクリスチャンでない人達の世論としては、クリスチャンに対して偏見があります。 ・・・」
S「単純にクリスチャンというのは「キリスト教を信じている人」ですよね。
クリスチャンが、全く違う価値観や背景の人に対してどう接するか次第で、
クリスチャンに対する世論の評判が大幅に変わってきます。
暴言を吐いたり言論封鎖をしたり他者の価値観を見下しても、
「一部のクリスチャンで不完全だから」・・・という弁解は、普通の社会人としても認められません。
その人の言動が「クリスチャンの言動」だと自然に思わてしまうからです。
(※当然これはクリスチャンに限ったことではありません。)
まだクリスチャンが「本物」&「偽物」と仕分けされているだけ、「良い評価もされているんだ」という事をご認識ください。」
(話の流れや状況がわかりにくいと思われますが、個人情報を割愛するとともに話の一部のみ掲載のため、ご了承ください)
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そんなわけで、ある小さい者が、その後こんなことを書いた。
今後、同じようなことがあった場合のたたき台として、良いのではないかと思い、こちらにもメモとして残させていただく。
「
あまり参加するつもりはなかったのですが、ひょこっと顔を出させて頂きます。
一クリスチャンです。
さて、Sさんがおっしゃっている通りで、クリスチャン以外の方々からすると、そのような「本物」&「偽物」の(厳密な、ではなく、軽~い気持ち?)の定義付けは、今回のばあいは、
確かに、クリスチャン以外の方からのご好意とも言えるでしょう。
ただ、これがクリスチャン当事者としては、びみょ~~~~な問いかけ、少なくとも、軽々しく答えられない問いのひとつかもしれません。というのも、少し思い巡らすだけでも、ためらいが生じるからです。これを問われますと、まず、
1.キリスト者とは誰を指すのか
ということから始まります。
簡単に言うと、「イエス・キリストによって、罪を贖われた罪人」などとなるでしょう。これは、その人と神様との関係です。
人には見えませんし、実際のところ、神様だけがそれを決定できる(ただし、人はそれを受け取るか受け取らないかの自由はある)ことであるため、無限の、恵み深く全知全能なる神が他者についてどう決定しているのかを、有限である人が決めつけられるのかという問題が生じます。
次に、
2.キリスト者としてふさわしく歩んでいるか
という自分への問いも含まれます。「本物」「偽物」という問いかけは、後者に対して、「こんな人は、クリスチャンではない!」と言っているも同然です。
ですが、
自分は、他人をそうさばけるような、ご立派な信仰者だろうか。
いや、そもそも罪があるからこそ、救いが必要だったのだ。自分に人を裁けようか。・・・と、真面目に歩んでいる方は逡巡されるのではないでしょうか。
これは、本当に、周りにいる方々から、とても評判の良いクリスチャンであっても・・・かと存じます。
どれほど、言葉にも行いにも気を付けていらっしゃっても、神様の御許近く歩もうとすればするほど、自分の罪深さ、不完全さを思い知らされる(もちろん、私はなおのこと、まだまだです)。
黒いものと対比したらなかなか白く見えるものであっても、更に白いものと対比したら、やや薄黒く感じてしまうように。
地上にいる間、不完全なのです。それでも、なお自分をクリスチャンであると言えるのは、ただ神様の恵みの故です。
『私は、すでに得たのでもなく、すでに完全にされているのでもありません。
ただ捕らえようとして、追求しているのです。そして、それを得るようにと
キリスト・イエスが私を捕らえてくださったのです』(ピリピ3:12)
とあるように。
ただ、
3.神様がくださった約束の素晴らしさ
の故に、
時として、人は自分の(今の)状態を忘れたりすることがあります。
「高ぶらないように」と何度も何度も聖書には具体例でも実際の勧めとしても記されており、クリスチャンはそれをことばとして認識し、神様に対して、へりくだる気持ちはあるのですが、神様の恵みの豊かさの故に、つい、無意識に自分を他者より高くしてしまうことがあります。
無意識な方が多いのです。
そのため、他の方と衝突しやすくなってしまうのかもしれません。
こういう場合、
指摘されても理解できなくなっている状態のことが多く、逆に「なんて失礼な奴だ!!」とさえ心の底から怒り、自分を振り返ることができなくなっていると言えます。
ただ、こういう場合でも、ほめられると、「いえいえ、まだまだ至らない者です」と心の底からだろうと、形だけであろうと、謙遜はするのです。
ですが、
「そうですね、まだまだですね」などとそれを肯定しようものなら、すくなくとも、心の底でむかっとするくらいの自尊心が働くかもしれません(ある人は、「そういうのって、謙遜が形だけになっているよね」とそれを評していますが)。
ガラテヤ書6章にもあるように、自戒を込めて。
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まだ思い巡らしたら、色々と出てきそうですが、そういうわけで、クリスチャン以外の人からは、「こういう人を『本物』のクリスチャン、こんな人は『偽物』のクリスチャンっぽい」というコメントが出てくると思いますが、
たぶん、クリスチャンには、『理想のクリスチャン像』と『クリスチャンらしくない言動』くらいに留めないと、まともな方はお答えするのが難しいでしょう。
たぶん、それでさえ、自分はおこがましいことをしている、と感じてしまうかもしれません。
結局のところ、人から見える部分は一部分、どんなに××でも神様がその人をクリスチャンとお認めになっているのであればクリスチャンであり、どんなに××でも神様がそうではないとされていたら、その人はクリスチャンではないので…(-_-;)
-長文お許しください。」