『家は凡(すべ)て 之(これ)を造(つく)る者あり、
萬(よろづ)の物を 造(つく)り給(たま)ひし者は 神なり。』
(新約聖書・ヘブル人への手紙3章3節、文語訳)
家が建てられるとき、
まず測られ、材料が運ばれ、建てられる。
むろん、そこには設計者がいて、大工さんもいる。
(専門ではないから、こまかいことはワカリマセン)
もし、このとき、大工さんもおらず、材料もなく、何もないのに、急に次の日家が建っていたら、かなり可笑しい。
(『靴屋の小人』じゃあるまいし)
ド素人だって、それはわかる。
もちろん、あなただって「ありえない」と笑うだろう。
が、それ以上に、難しいこの世界の成り立ちにいたっては、
逆に、設計者もなく、造る人もいないと考えるのは、どうしてなんだろう。
もちろん、人にはできないさ。
この、時間も、空間も、木も緑も、水も空も大地も、この肉体も。
造るなんざ、とうていできない。
人は、その方を全能なる神と言い、創造主、造り主(ぬし)とも呼ぶ。
(最近、なんだかよくわからないカタカナ語も言われていたっけ。クリスチャンでない方々から。科学者のだれさんだったっけ・・・もちろん、その方々は、聖書に示されている“神”が、本当に、この宇宙を創った存在であるとは信じていないが、何かがこの世界を創ったんだろうとしか考えられないと、言っていたっけ ←ごめん、今思い出せない)
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そうそう、また、人が家を建てるということと、この世界を創るということを同列に扱えるか、といっていたが、
そもそも、人には、理解できる範疇と、範疇外がある。
そして、人に理解できないことを、神様は示されないと、私は思う。
(もし、理解できないことであるならば、私達に責任はない。)
だから、家を建てるということになぞらえて、この世界を創ったお方がいるのだ、と示されてもいると思う。
だから、もし、そうである(=ほんと~~~~~~~~~~~~に、神様がいらっしゃる)ならば、その警告は無視しないほうがいいんじゃないか、と
思う(というか、無視しないでほしいと思うんだ)。
むろん、すべては、死んでから、もしくは、イエス・キリストが再臨するときでなければ・・・わからない(いや~~~、そもそも、ありえないっしょ)と考えているかもしれないけれど。
私たちは、神様の御手のわざの、
太陽や月や星々を眺めている。