飛鳥への旅

飛鳥万葉を軸に、
古代から近代へと時空を越えた旅をします。
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万葉アルバム(奈良):橿原市、南浦町 膳夫古池

2011年12月29日 | 万葉アルバム(奈良)

草枕 旅の宿りに 誰(た)が夫(つま)か
国忘れたる 家待たまくに
    =巻3-426 柿本人麻呂=


 草を枕の旅の宿りに、あわれ誰の夫なのか、国を忘れて。 ・・・家族が待っているだろうに。という意味。

万葉集のこの歌の詞書きに、 人麻呂が、香具山の路傍の屍(かばね)を見て慟哭して詠んだと、ある。
当時の風習では、行き倒れた人が、そのまま放置されていたということもあったようだ。
巻3-415に、聖徳太子「家ならば妹が手まかむ草枕旅に臥やせるこの旅人あはれ」の歌があり、この歌に影響されて人麻呂が詠んだと思われる。
夫(つま)は「妻」だけの意味だけでなく「配偶、偶(つま)」の意味であり、妻から見た夫も指した。

膳夫(かしわで)古池は香久山の東尾根にあるため池。古代に天皇の食事を用意した専属料理人、膳夫(かしわで)氏の一族がこの一帯に住んでいたことで、膳夫古池ともいわれている。
万葉歌碑はこの池の畔に建っている。香久山は標高は152.4メートルの低い山。ここから眺める香久山は丘といったほうが良いくらいの低山を実感する。
万葉集では天の香久山と形容されて高山のイメージがあるが、神が宿る山としてあがめられたのであろう。 

万葉アルバム(関東):茨城、つくばテクノパーク大穂 をてもこのもに・・・

2011年12月26日 | 万葉アルバム(関東)

筑波嶺の をてもこのもに 守部(もりへ)据(す)ゑ
母い守(も)れども 魂(たま)ぞ合ひにける
    =巻14-3393 作者未詳=


筑波嶺の向う側にもこっち側にも番人を据えて山を守るように、母さんが見張っているけれど、何のその、二人の魂は通じあってしまったよ、という意味。

娘の母に対する抵抗の歌。夢などで魂が通じ合えば共寝が実現すると考えられていた。
「をてもこのも」は、彼面此面(をちおもこのおも)の約。「守部据ゑ」 上三句は序。「母い守る」を起す。「母い」 「い」は、上の体言を指示して強調する助詞。
(新潮日本古典集成より) 

この万葉歌碑は茨城県つくば市のつくばテクノパーク大穂にある。
広い工業団地の中に万葉集20基、風土記の歌2基、古今和歌集3基、他に2基の、計27基の歌碑が点在している。
この歌碑はつくばテクノパーク大穂のセンター道路の工業団地脇に建てられている。
参照:つくばテクノパーク大穂の歌碑群

万葉アルバム 穀物、いね

2011年12月23日 | 万葉アルバム(自然編)

稲搗(つ)けば 皹(かが)る我(あ)が手を 今夜(こよひ)もか
殿の若子(わくご)が取りて嘆かむ
    =巻14-3459 作者未詳=


稲を搗いてひび割れた手、この私の手を今夜もまたお屋敷の若様が手にとって撫でながら、可愛そうに 可愛そうにとおっしゃって下さることでしょうか、という意味。

「稲搗けば」当時は臼に籾を入れて杵で搗いて精米をしていた。「皹(かが)る」とは手足が「ひび割れ」すること。「殿」とは、大きなお屋敷のことで、「殿の若子」は大きなお屋敷の若様のこと。

自分のひび割れた手を恥らいながら、お屋敷の若様との逢瀬を想いみる乙女心という、ロマンティックな場面を想像することができるが、稲搗きの辛さをまぎらわせる集団の作業歌ともいわれている。それが民謡として歌い継がれ、東歌として万葉集に取り入れられたのであろう。

万葉時代のイネは赤米であるといわれている。
日本の国に稲作農耕文化が上陸したのは縄文時代の晩期で、赤米は米のルーツであり、赤飯の起源といわれている。神様へのお供え物、お祝い事として使用されていた。
赤米のほとんどが粳米(うるちまい)で、野生の稲の多くが赤米であったといわれている。

万葉集にはイネの歌は26首もある。



万葉アルバム 花、うめ

2011年12月19日 | 更新情報
(画像追加しました)



わが園に 梅の花散る ひさかたの
天(あめ)より雪の 流れ来るかも
   =巻5-822 大伴旅人=


 わが家の庭に梅の花が散る。天空の果てから、雪が流れてくるよ。という意味。
梅花の落ちるさまを「天より雪の流れ来る」と表現したのは、スケールのとても大きな、すぐれた歌だと思う。
梅の散る様子を雪に例えていることから庭には、白い梅が咲いていたことが伺える。

天平2年正月、九州の大宰府にて作者が催した宴で作った歌。
宴で作られた梅花の歌三十二首があり、その中の一首である。

万葉人は梅の花を愛賞し、花の下で宴を開き、散る花を惜しみたびたび歌った。
万葉集には120首ほどの梅の歌がある。
万葉ではないが、菅原道真が詠んだ「東風吹かば にほひおこせよ 梅の花 あるじなしとて 春な忘れそ」の歌も有名である。

 私の地元松戸にある戸定亭の庭に緑額梅が見事な花をつける。
白い花びらの中央が薄黄色で、この万葉歌にぴったりのような気がする。

この万葉歌碑は名古屋の東山植物園の万葉の散歩道にあるもの(2010/12/24写す)。


こちらの万葉歌碑は、奈良県橿原市にある万葉の森に置かれているもの(2011/11/14写す)。

万葉歌碑マップ探訪:橿原市 香久山、万葉の森 万葉歌碑群

2011年12月15日 | 万葉歌碑マップ 探訪

(万葉の森 位置図:クリックすると拡大表示します)

 香久山の入り口にある森林公園で、1981年第32回全国植樹祭記念事業の一環として整備された森。
天香具山の東側中腹から麓一帯にかけて広がっている。森林内には様々な植物の展示園があり、万葉集に詠まれた万葉植物が73種植栽されている。
散策路を歩くと、両脇に万葉歌碑が点在しており、全部で9基あり、大半の歌碑は白壁の土塀に囲まれて建っている。
万葉歌は樹木に関する歌で、歌碑のわきに歌に詠まれた樹木が植えられている。
藤原京跡からみると香久山の裏尾根にあたり道路も奥まったところにあるため、認知度が低く訪れる人は少ないようだ。
かなり広い場所で、今回は急ぎ足で回ったが、桜咲く頃や紅葉の頃にゆっくり散策したいところだ。(2011/11/14)


万葉の森 入口


散策路わきに万葉歌碑が点在している


1.つつじ
 水伝ふ 礒の浦廻の 岩つつじ
 茂く咲く道を またも見むかも (巻2-185)草壁皇子の舎人 →詳細は万葉アルバム


2.はぎ
 高円の 野辺の秋萩 いたづらに
 咲きか散るらむ 見る人なしに (巻2-231)笠金村 →詳細は万葉アルバム


3.つるばみ
 紅は うつろふものぞ 橡の 
 なれにし衣に なほしかめやも (巻18-4109)大伴家持 →詳細は万葉アルバム


4.うめ
 我が園に 梅の花散る ひさかたの
 天より雪の 流れ来るかも (巻5-822)大伴旅人 →詳細は万葉アルバム


5.ひさぎ
 ぬばたまの 夜の更けゆけば 久木生ふる
 清き川原に 千鳥しば鳴く (巻6-925)山部赤人 →詳細は万葉アルバム


6.うのはな
 ほととぎす 鳴く声聞くや 卯の花の
 咲き散る岡に 葛引く娘子 (巻10-1942)作者未詳 →詳細は万葉アルバム


7.あふち
 妹が見し 楝の花は 散りぬべし
 我が泣く涙 いまだ干なくに (巻5-798)山上憶良 →詳細は万葉アルバム


8.ひのき
 いにしへに ありけむ人も 我がごとか
 三輪の桧原に かざし折りけむ (巻7-1118)柿本人麻呂歌集 →詳細は万葉アルバム


9.すもも
 吾が園の 李の花か 庭に散る
 はだれのいまだ 残りたるかも (巻19-4140)大伴家持 →詳細は万葉アルバム

万葉アルバム(奈良):橿原市、別所池西南堤

2011年12月12日 | 万葉アルバム(奈良)

藤原の 古りにし里の 秋萩は
咲きて散りにき 君待ちかねて
   =巻10-2289 作者未詳=


 あなたを待ちかねて藤原の古い都の秋萩は、むなしく咲き、そして散ってしまった、という意味。

「藤原の古りにし里」は橿原市醍醐町・高殿町の一帯にかつて存在した帝都。藤原の都。持統天皇から天明天皇の平城遷都まで続いた。「にし」→助動詞・完了「ぬ」の連用形「に」+助動詞・過去「き」の連体形「し」=~てしまった。「散りにき」→ラ行四段活用動詞「散る」の連用形「散り」+助動詞・完了「ぬ」の連用形「に」+助動詞・過去「き」=散ってしまいました。「かねて」→ナ行下二段活用補助動詞動詞「かぬ」の連用形「かね」+接続助詞・単純接続「て」=~することができなくなって。

すでに散ってしまった萩の花を惜しみ、忘れられたかつての都を忍び、それでもまだあなたを待ち続けているのです、と「君待ちかねて」が余韻の表現になっている。

この万葉歌碑は藤原京を望む朱雀大路跡にある別所池西南堤に建っている。揮毫者・司馬遼太郎であるのが魅力でもある。
694年に飛鳥からほど近い藤原京に持統天皇が都を移した。しかしこの都は平城京へ遷都するまで、わずか16年間という短命に終わったのである。

万葉アルバム(関東):市川、真間の井

2011年12月08日 | 万葉アルバム(関東)

勝鹿(かつしか)の真間(まま)の井を見れば立ち平(なら)し
水汲ましけむ手児奈(てごな)し思ほゆ
   =巻9-1808 高橋虫麻呂=


勝鹿の真間の井戸を見ると、地面が平らになるほど何度も行き来して、
水を汲んでいただろう手児奈のことが思われる、という意味。

「勝鹿」は葛飾、埼玉県・東京都東部・千葉県西北部にわたる江戸川流域。
貧しい手児奈は粗末な衣服で労働に明け暮れていたが、絶世の美女だった。
そのため大勢の男性に求愛されたが、彼女は、それを拒んで自殺した、という伝説を歌ったもの。

市川に手児奈を祀る手児奈霊堂があり、近くの亀井院境内に真間の井がある。
万葉時代に既にあった伝説に出てくる娘を、その後、綿々と実際に祀ってきたという、伝説が生活風習に根付いているという確かな一例である。

この万葉歌碑は亀井院境内に建てられているものである。

万葉アルバム(奈良):橿原市、大窪寺 櫻兒伝説

2011年12月05日 | 万葉アルバム(奈良)

春さらば 挿頭(かざし)にせむと 我が思(も)ひし
桜の花は 散りにけるかも
    =巻16-3786 作者未詳=


 春になったら、挿頭の花にしようと(妻にしようと)私の思っていた桜の花は、散ってしまったことだなあ、という意味。

万葉集にある櫻兒伝説。櫻兒(さくらこ)という一人の娘を、二人の男が命がけで争い、それを嘆いた櫻兒は、「昔から、一人の女が二人の男に嫁ぐというのは見たことも聞いたこともない。私がいなければ争うこともないだろう。」と、林の中に入り、木で首を吊って死んでしまった。残された男二人が嘆いて詠んだ歌が、この「春さらば・・・」と、もう一首

妹が名に懸けたる櫻 花咲かば 常にや戀ひむ いや毎年(としのは)に (巻16‐3787) 作者不詳

いとしい人の名につけてあった桜、その花が咲いたら、永久に恋い慕うことだろうか。来る年も来る年も。

男二人が嘆き悲しんで作った歌である。

万葉集にはこの伝説と同じような伝説を歌った歌がいくつかある。
真間の手児奈の歌もそうである。

櫻兒の塚は、昔は娘子塚と呼ばれていたようだ。享保21年(1736)発行の『大和志』には、娘子塚は”大窪村にあり”と記されている。
大窪村は現在の橿原市大久保町である。
大久保町公民館の一角に大窪寺があり、かつて大寺だったと想像できる大きな礎石が置かれている。
万葉歌碑はここにある。


歌碑の向い側に祠があり、これが櫻兒の墓と伝えられる「娘子塚(をとめづか)」だそうだ。


万葉歌碑マップ探訪:橿原市 藤原古京 万葉歌碑群

2011年12月01日 | 万葉歌碑マップ 探訪

(藤原京地図:クリックすると拡大表示します)

 飛鳥時代に都があった藤原京跡地、大和三山に囲まれた一帯に多くの史跡が点在する。
天武天皇のあと,690年,飛鳥浄御原で持統天皇が即位する。694年,かねてより建設中だった藤原京に都を移した。
ここは畝傍山,耳成山,香具山(いわゆる大和三山)に囲まれた平野で,唐(中国の都)にならって,それまで見られない大きな都が造られた。
持統・文武・元明天皇の三代が平城京へ遷都するまで、この都はわずか16年間という短命に終わった。
万葉集では柿本人麻呂が多くの歌を詠んだ最も開花した時期でもあった。
万葉歌碑は周辺の神社や藤原京史跡などに多く建てられている。


藤原宮跡


 1.人丸神社(橿原市地黄町)
  秋山の 黄葉を茂み 惑ひぬる
  妹を求めむ 山道知らずも (巻2-208) 柿本人麻呂 →詳細は万葉アルバム


 2.大窪寺(橿原市大久保町)
  春さらば かざしにせむと 我が思ひし
  桜の花は 散りゆけるかも (巻16-3786) 作者未詳 →詳細は万葉アルバム


 3.橿原神宮前駅(橿原市久米町)
  春過ぎて 夏来るらし 白栲の
  衣干したり 天の香具山 (巻1-28) 持統天皇 →詳細は万葉アルバム


 4.春日神社(橿原市大軽町)
  天飛ぶや 軽の社の 斎ひ槻
  幾代まであらむ 隠り妻ぞも (巻11-2656) 作者未詳 →詳細は万葉アルバム


 5.剣池北堤(橿原市石川町)
  軽の池の 浦み行き廻る 鴨すらに
  玉藻の上に ひとり寝なくに (巻3-390) 紀皇女 →詳細は万葉アルバム


 6.畝傍山口神社鳥居前(橿原市大谷町)
  思ひあまり いたもすべなみ 玉たすき
  畝傍の山に 我れ標結ひつ (巻7-1335) 作者未詳 →詳細は万葉アルバム


 7.醍醐池東堤(橿原市醍醐町)
  春過ぎて 夏来るらし 白栲の
  衣干したり 天の香具山 (巻1-28) 持統天皇 →詳細は万葉アルバム


 8.鷺栖神社(橿原市四分町)
  ひさかたの 天知らしぬる 君故に
  日月も知らず 恋ひわたるかも (巻2-200) 柿本人麻呂 →詳細は万葉アルバム


 9.別所池西南堤(橿原市別所町)
  藤原の 古りにし里の 秋萩は
  咲きて散りにき 君待ちかねて (巻10-2289) 作者未詳 →詳細は万葉アルバム


10.畝傍都多本神社(橿原市木之本町)
  哭沢の 神社に御瓶据ゑ 祈れども
  我が大君は 高日知らしぬ (巻2-202) 檜隈王女 →詳細は万葉アルバム


11.天香具山神社(橿原市南浦町)
  ひさかたの 天の香具山 この夕
  霞たなびく 春立つらしも (巻10-1812) 柿本人麻呂歌集 →詳細は万葉アルバム
  春過ぎて 夏来るらし 白栲の
  衣干したり 天の香具山 (巻1-28) 持統天皇 →詳細は万葉アルバム


12.天香具山西麓(橿原市南浦町)
  大和には 群山あれど とりよろふ
  天の香具山 登り立ち・・・ (巻1-2) 舒明天皇 →詳細は万葉アルバム


13.橿原万葉の森(橿原市南浦町) →詳細は万葉の森万葉歌碑群
  水伝ふ 礒の浦廻の 岩つつじ
  茂く咲く道を またも見むかも (巻2-185)草壁皇子の舎人
  高円の 野辺の秋萩 いたづらに
  咲きか散るらむ 見る人なしに (巻2-231)笠金村
  紅は うつろふものぞ 橡の 
  なれにし衣に なほしかめやも (巻18-4109)大伴家持
  我が園に 梅の花散る ひさかたの
  天より雪の 流れ来るかも (巻5-822)大伴旅人
  ぬばたまの 夜の更けゆけば 久木生ふる
  清き川原に 千鳥しば鳴く (巻6-925)山部赤人
  ほととぎす 鳴く声聞くや 卯の花の
  咲き散る岡に 葛引く娘子 (巻10-1942)作者未詳
  妹が見し 楝の花は 散りぬべし
  我が泣く涙 いまだ干なくに (巻5-798)山上憶良
  いにしへに ありけむ人も 我がごとか
  三輪の桧原に かざし折りけむ (巻7-1118)柿本人麻呂歌集
  吾が園の 李の花か 庭に散る
  はだれのいまだ 残りたるかも (巻19-4140)大伴家持


14.古池(橿原市南浦町)
  草枕 旅の宿りに 誰が夫か
  国忘れたる 家待たまくに (巻3-426) 柿本人麻呂 →詳細は万葉アルバム


15.本薬師寺(橿原市城殿町)
  忘れ草 我が紐に付く 香具山の
  古りにし里を 忘れむがため (巻3-334) 大伴旅人 →詳細は万葉アルバム
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<未訪問歌碑>

16.磐余神社(橿原市中曽司町)
  ま菅よし 宗我の川原に 鳴く千鳥
  間なし我が背子 我が恋ふらくは (巻12-3087) 作者未詳


17.河俣神社(橿原市雲梯町)
  思はぬを 思ふと言はば 真鳥住む
  雲梯の杜の 神し知らさむ (巻12-3100) 作者未詳


18.今井まちなみ交流センター華甍(橿原市今井町)
  明日香川 しがらみ渡し 塞かませば
  流るる水も のどにかあらまし (巻2-197) 柿本人麻呂


19.沼山古墳(橿原市白橿町)
  香具山は 畝傍を愛しと 耳成と
  相争ひき 神代より・・・
  香具山と 耳成山と 闘ひし時 
  立ちて見に来し 印南国原 (巻1-13・14) 天智天皇


20.牟佐坐神社石段下左(橿原市見瀬町)
  ・・・我妹子が やまず出で見し 軽の市に
  我が立ち聞けば 玉たすき 畝傍の山に (巻2-207) 柿本人麻呂


21.竹田神社(橿原市東竹田町)
  うち渡す 竹田の原に 鳴く鶴の
  間なく時なし 我が恋ふらくは (巻4-760) 大伴坂上郎女


22.竹田の原橋欄干(橿原市東竹田町)
  うち渡す 竹田の原に 鳴く鶴の
  間なく時なし 我が恋ふらくは (巻4-760) 大伴坂上郎女


23.春日神社(橿原市常磐町)
  玉桙の 道は遠けど はしきやし
  妹を相見に 出でてぞ我が来し (巻9-1619) 大伴家持


24.耳成公園木原池(橿原市木原町)
  耳成の 池し恨めし 我妹子が
  来つつ潜かば 水は涸れなむ (巻16-3788) 作者未詳


25.御厨子観音(橿原市妙法寺町)
  百伝ふ 磐余の池に 鳴く鴨を
  今日のみ見てや 雲隠りなむ (巻3-416) 大津皇子