飛鳥への旅

飛鳥万葉を軸に、
古代から近代へと時空を越えた旅をします。
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万葉アルバム(関東):茨城、つくばテクノパーク大穂 岩もとどろに・・・

2012年06月25日 | 万葉アルバム(関東)

筑波嶺の 岩もとどろに 落つる水
よにもたゆらに わが思はなくに
    =巻14-3392 作者未詳=


 筑波山から岩をとどろかして落ちてくる水のように、あなたを思う気持ちは絶えるなどとは思っていません。という意味。

「落つる水」、筑波嶺の女体山の西側に発する男女川か。
「よにも(世にも)」は、非常に・ことのほか、の意。「たゆら」は、揺れ動いて安定しないさまの意。

この万葉歌から影響を受けた歌として、小倉百人一首に採られた陽成院の名高い歌がある。
つくばねの 峰よりおつる みなの川
こひぞつもりて 淵となりける(後撰771)


筑波山を源流とする男女川

この万葉歌碑は茨城県つくば市のつくばテクノパーク大穂にある。
広い工業団地の中に万葉集20基、風土記の歌2基、古今和歌集3基、他に2基の、計27基の歌碑が点在している。
この歌碑はつくばテクノパーク大穂のセンター道路の工業団地脇に建てられている。

万葉アルバム(関東):埼玉県、行田市 前玉神社

2012年06月18日 | 万葉アルバム(関東)

埼玉(さきたま)の 津(つ)に居(を)る船の 風をいたみ
綱は絶ゆとも 言(こと)な絶えそね  
   =巻14-3380 作者未詳=

埼玉の 小埼の沼に 鴨そ翼(はね)霧(き)る
己(おの)が尾に 降りおける霜(しも)を 払(はら)ふとにあらし  
   =巻9-1744 高橋虫麻呂=


<歌の意味>
(社殿に向かって右側の石塔籠)
 埼玉の津に帆を降ろしている船が、風をいたみ、つまり激しい風のために綱が切れても、大切なあの人からの頼りが絶えないように。(巻14-3380)
(社殿に向かって左側の石塔籠)
 冷たく張りつめた早朝の小埼沼は、見渡す限り白い霜の世界に包まれていた。その中でかすかに羽を動かす鴨は、まるで自分の羽に降り積もった霜を払うような仕草に見える。(巻9-1744)

古代には、行田市大字埼玉あたりを表す地名として「さきたま」が用いられた。この付近に湖沼があちこちに散らばり、また利根川や荒川に臨む渡し場も随所にあったとされている。


前玉(さきたま)神社
 行田市のさきたま古墳群、その一角の古墳である浅間塚の上に鎮座しているのが前玉(さきたま)神社である。
塚の上の社殿の真下に急な石段がある。この石段の上り口に、高さ約2メートルの一対の石燈篭があり、竿の部分にこの地を詠んだ、「埼玉の津」と「小崎沼」の2首の万葉歌が刻まれている。
この石塔籠は今から300年程前の、江戸時代の元禄10年(1697年)10月15日に地元埼玉村(現在の行田市埼玉)の氏子たちが奉納したもので、万葉集に掲載された歌の歌碑としては、全国的にみても古いものの一つといえる。
巻9-1744の歌は、上の句が五・七・七、下の句も五・七・七の繰り返す形式で旋頭歌(せどうか)という。

江戸時代初期に万葉集を理解していた東国の住民たちが存在していたのである。ただ知らないと通り過ぎてしまう程、わかりにくい場所に万葉仮名で刻まれていた。
ちなみに、埼玉(さいたま)という地名は、この前玉(さきたま)から生まれたのだそうだ。

万葉歌碑マップ探訪:奈良 山辺の道(天理編) 万葉歌碑群

2012年06月13日 | 更新情報

(山辺の道(天理編)地図:クリックすると拡大表示します)

 山辺の道は、奈良から三輪へと通じる上古の道である。古代の上ツ道のさらに東にあって、三輪山から北へ連なる山裾を縫うように伸びる起伏の多い道が山辺の道である。
なかでも古代の面影をよく残し、万葉歌の息づかいを伝えているのが、天理市から桜井市までの約11km。
 今回、天理駅からスタートし桜井駅に至る山辺の道を訪ねてきた。(2010/12/23)
後日、天理市内の山辺の道周辺の歌碑を訪ねた。8~11(2012/5/27)
天理編と桜井編に分けて紹介しよう。

 山辺の道の天理地域は大国見山から竜王山の山裾を縫って続いている。


1.川原城町 天理駅前
  石上 布留の高橋 高々に
  妹が待つらむ 夜ぞ更けにける 巻12-2997 作者不詳
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2.川原城町 天理市役所
  我妹子や 我を忘らすな 石上
  袖布留川の 絶えむと思へや 巻12-3013 作者不詳
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3.杣之内町 石上神宮外苑公園
  石上 布留の神杉 神びにし
  我れやさらさら 恋にあひにける 巻10-1927 作者不詳
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4.布留 石上神宮
  未通女らが 袖布留山の 瑞垣の
  久しき時ゆ 思ひき我れは 巻4-501 柿本人麻呂
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5.萱生町 萱生(かよう)集落北入り口近く
  あしひきの 山川の瀬の 鳴るなへに
  弓月が岳に 雲立ちわたる 巻7-1088 柿本人麻呂
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6.中山町 長岳寺北 衾道(ふすまじ)
  衾ぢを 引手の山に 妹を置きて
  山道を行けば 生けりともなし 巻2-212 柿本人麻呂
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7.柳本町 崇神天皇陵近く
  玉かぎる 夕さり来れば さつ人の
  弓月が岳に 霞たなびく 巻10-1816 柿本人麻呂歌集
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8.杉本町 前栽公民館
  石上 布留の早稲田を 秀でずとも
  縄だに延へよ 守りつつ居らむ 巻7-1353 作者不詳
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9.長柄町 長柄運動公園
  飛ぶ鳥 明日香の里を 置きて去なば
  君があたりは 見えずかもあらむ 巻1-78 元明天皇
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10.西井戸堂町 山辺御県坐神社
  飛ぶ鳥の 明日香の里を 置きて去なば
  君があたりは 見えずかもあらむ 巻1-78 元明天皇
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11.櫟本町 和爾下神社
  さし鍋に 湯沸かせ子ども 櫟津の
  檜橋より来む 狐に浴むさむ 巻16-3824 長忌寸意吉麻呂
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万葉アルバム(奈良):天理、和爾下神社

2012年06月11日 | 万葉アルバム(奈良)

さし鍋に 湯沸かせ子ども 櫟津(いちひつ)の
檜橋(ひばし)より来(こ)む 狐に浴(あ)むさむ 
   =巻16-3824 長忌寸意吉麻呂=


 さし鍋に、湯を沸かせ、若い衆よ。『櫟津』の『桧橋』から『来ん』、キツネに(湯を)『浴び』せようじゃないか、という意味。

長忌寸意吉麻呂は、柿本人麻呂と同時代の歌人で、生没年は未詳。左注には、「言い伝えによれば、ある時多くの人たちが集まり宴を催した。時刻も夜半となり、狐の声が聞こえた。そこで一同が興麻呂(おきまろ)を誘って、この饌具(せんぐ)、雑器(ぞうき)、狐の声、川橋などの物にひっかけて、すぐに歌を作ってみろと言ったところ、即座にこの歌を作ったという」とある。

長忌寸意吉麻呂が、宴席で詠んだ即興歌で、物名歌(詩歌に物の名前を詠み込む)といわれ、ユーモアのある歌だ。
「さし鍋」はつぎ口と柄の付いた鍋で、左注にある「饌具(飲食のための器具)」に当たる。「檪津(いちひつ)」は地名で、奈良県の大和郡山市か天理市。その名の一部の「ひつ」が左注の「雑器」に当たる。「檜橋(ひばし)」は檜(ひのき)で作った橋。「来む」は狐のコンコンというのに掛けている。

天理市櫟本(いちのもと)町にある和爾下(わにした)神社は、古道竜田道(横田道)と上ツ道の交差地に鎮座する。延喜式に載る和爾下神社二座のうちの一座でもある。この鎮座地は東大寺領櫟荘で、上の歌の詠われた「櫟津」はこの辺りだという。

この神社境内は東大寺山古墳群のひとつ和爾下神社古墳の後円部にあたり、この古墳群は古代豪族和爾氏に関係があり、和爾氏一族に柿本氏・櫟井氏がいてその拠地がこの辺りと推定される。柿本人麻呂の一族、柿本氏がこの辺りに住んでいたということである。境内には柿本寺跡がある。和爾下神社の神宮寺で、寺跡からは奈良時代の古瓦も出土している。

この長忌寸意吉麻呂の歌碑は和爾下神社境内入ってすぐ脇の鳥居そばに立っている。


柿本人麻呂・歌塚
神社の境内に柿本氏の氏寺だった柿本寺跡があり、後世ここに人麻呂を偲んで歌塚と像を建てた。
歌塚は任地である石見の国で死んだ柿本人麻呂の遺髪を後の妻依羅娘女(よさみのおとめ)が生地に持ち帰って葬った墓所とされ、現在の碑は享保17年(1732)に建てられた。

万葉アルバム 花、すもも

2012年06月06日 | 更新情報

わが園の 李(すもも)の花か 庭に降る
はだれのいまだ 残りたるかも
    =巻19-4140 大友家持=


うちの庭が白く見えるのは、スモモの花が散っているからか、それとも、雪が残っているのだろうか。という意味。

花の白さを庭の残雪にたとえたものと思われる。

「はだれ」は、ハラハラと降る雪のこと。

大友家持が高岡の地で詠んだ歌。前年に,都に帰り,妻を伴って高岡に戻った頃の歌である。

「すもも」は、中国原産の落葉高木で、古くから日本へ渡ってきたバラ科の植物。現在は,広く果樹として栽培されている。春に白色の花が咲き、秋に果実は赤紫色または黄色に熟し酸味はあるが食用にできる。スモモの名は、「すっぱいモモ」から付けられた。



こちらの万葉歌碑は、奈良県橿原市にある万葉の森に置かれているもの(2011/11/14写す)。

万葉アルバム(関東):千葉県、木更津市馬来田 小さな路の駅

2012年06月04日 | 万葉アルバム(関東)

旅衣 八重着重ねて 寝ぬれども
なほ肌寒し 妹にしあらねば  
   =巻20-4351 防人の歌=


 旅に出て、旅の衣を幾重にも重ね着して寝るけれども、やはり、肌寒い。妻のようなぬくもりがないのだから。という意味。

天平勝賓7年(755年)2月に、筑紫の国に遣わされた防人の歌で、望陀郡の上丁玉造部国忍の歌とある。
望陀郡(まくだのこおり・もうだぐん)は上総国の小櫃川流域を中心とする地域に存在していた郡で、現在の木更津市馬来田周辺とされている。

古代に望陀郡は調として望陀布を納めていた。この望陀布は上質の麻布で、天皇の皇位継承の儀式や唐への貢物、大嘗祭などに使われていたという。防人の旅の衣は、とても望陀布のようなものではなく、ありったけの粗末な布を重ね着したが、それでも寒さがきつかったのだろう。

この万葉歌碑は木更津市馬来田の「うまくたの路」の「小さな路の駅」に置かれている。
「小さな路の駅」は散策路途中にある休憩処で、花壇の中で歌碑が花に囲まれている。