飛鳥への旅

飛鳥万葉を軸に、
古代から近代へと時空を越えた旅をします。
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万葉アルバム(明日香):高松塚古墳 花祭り

2012年03月26日 | 更新情報
    (写真文書追加更新しました)



立ちて思ひ居てもぞ思ふ紅(くれない)の
赤裳裾引き去(い)にし姿を
   =巻11-2550 作者未詳=


立っては思い、坐っても思う、紅の赤い裳の裾を引いて去ってしまった姿を、という意味。

訪れた9月に明日香彼岸花祭りが開催されていた。
劇団員が古代衣装をつけて板蓋宮伝承地から石舞台まで時代行列。
赤い裳の裾を引いて歩く姿は、まさに歌そのままだった。
明日香の高松塚古墳で発見された壁画も、この赤い裳の女性が描かれている。

古代の明日香で、赤い裳の女性が行き来していたと想像するだけでも、楽しくなる。


この万葉歌碑は飛鳥歴史公園・高松塚前小丘に建っている。
写真は高松塚前小丘から高松塚古墳(右端)を望む。(2011/11/14写す)
近年周辺が歴史公園として整備されてきており、古墳発掘当時の自然な面影が薄れてきているのは寂しい。

万葉アルバム(関東):東京、文京区小日向 鷺坂

2012年03月19日 | 万葉アルバム(関東)

山城 (やましろ)の 久世(くせ)の鷺坂(さぎさか) 神代(かみよ)より
春ははりつつ 秋は散りけり
    =巻9-1707 作者未詳=


山城の久世の鷺坂では、神代の昔から、このように春には木々が芽ぶき、秋になると木の葉が散って、時がめぐってきたのだ。という意味。

「山城の久世の鷺坂」は京都府城陽市の久世神社の東の坂で、大和から近江へ通じる街道に当たっていた。
街道で絶えず往還する鷺坂から眺める景色がいつの年も規則正しく季節に応じて変化している、ということに感動して歌った歌だ。
「はりつつ」の「はる」は、「萌る」で、春に草木の芽や蕾がふくらむこと。 

 歌碑の説明に、
”江戸幕府の老中・久世大和守の屋敷があったため、ここは久世山と呼ばれていた。昭和になって、この辺りに住んだ文人が、山城国の久世の鷺坂と結びつけ、ここを鷺坂と呼んだのが地元住人に受け入れられ定着した。この歌碑は久世山会が建てた。”とある。

何故、京都にある坂の歌の歌碑がここ文京区小日向(こひなた)にあるのかが、上記歌碑の説明でわかった。
山城国の久世の鷺坂と結びつけて称したくらい、ここ小日向の久世の鷺坂は、
明治時代は坂下には旧江戸川(現神田川)が流れ、見晴らしもよく桜の名所であったようだ。

 この歌碑は昭和7年7月に建てられたもので、地下鉄有楽町線江戸川橋駅から北へ200m程のところの、
東京都文京区小日向2丁目19と21の間にある鷺坂の曲がり角に立っている。




万葉アルバム(明日香):羽易(はがひ)の山

2012年03月12日 | 更新情報
    (写真更新しました)


うつせみと 思ひし時に 取り持ちて わが二人見し
走出の 堤に立てる 槻(つき)の木の こちごちの枝の
春の葉の 茂きがごとく 思へりし 妹にはあれど
頼めりし 子らにはあれど 世間(よのなか)を 背(そむ)きしえねば
かぎるひの 燃ゆる荒野(あらの)に 白栲の 天領巾隠り(あまひれがくり)
鳥じもの 朝立ちいまして 入日なす 隠りにしかば
我妹子が 形見に置ける みどり子の 乞(こ)ひ泣くごとに
取り与ふ 物しなければ 男じもの 脇ばさみ持ち
我妹子と 二人わが寝し 枕付く 妻屋のうちに
昼はも うらさび暮らし 夜はも 息づき明かし
嘆けども 為(せ)むすべ知らに 恋ふれども 逢ふよしをなみ
大鳥の 羽がひの山に 我が恋ふる 妹はいますと
人の言へば 岩根さくみて なづみ来し よけくもぞなき
うつせみと 思ひし妹が 玉かぎる ほのかにだにも
見えなく思へば
   =巻2-210 柿本人麻呂=


(大意) この世の人であった時に、手に手を取り合って私たち二人が見た、走り出るとすぐの堤に立っている槻の木の、あちこちの枝に春の葉が繁っているように思いを寄せた妹ではあるが、たのみにしていた子供たちではあるが、世の中の道理にそむくことは出来ないから、かぎろいのもえる荒野に、白い美しい領巾(ひれ)に身をかくして、鳥のように朝立って行かれて、入日のように隠れてしまったので、吾妹子の形見に置いて行ったみどり児が、何か欲しがって泣くごとに、取って与える物もないから、男だのに子供を脇にかかえて、吾妹子と二人で寝た嬬屋の中で、昼は昼で心さびしく暮らし、夜は夜でため息をついて明かし、嘆くのだが、何としてよいか分らず、恋しく思っても逢う手だても無いので、羽易の山に恋しい妹はおられると人の言うままに、岩を踏み分けて難渋してやって来たが、よいこともない。
この世の人だと思っていた妹が、ほのかにさえも見えないから。

柿本人麻呂が妻を亡くして号泣して創ったという長歌である。

反歌の中に、有名な次の歌もある。
「衾道を 引手の山に 妹を置きて 山道を行けば 生けりともなし」(巻2-212)

この歌碑は明日香村橘川原バス停南に建ち、そこから龍王山(引手の山)、三輪山、巻向山が羽を広げているように見える。この様を柿本人麻呂は歌の中で「大鳥の羽易(はがひ)の山」と詠んでいる。

万葉アルバム(明日香):橘寺東門東・飛鳥川沿い

2012年03月05日 | 更新情報
      (写真更新しました)


明日香川 瀬々の玉藻の うち靡(なび)き
心は妹(いも)に 寄りにけるかも
   =巻13-3267 作者未詳=


明日香川の瀬に生えている藻が流れに揺れ動くように、私の心はあなたになびいています。という意味。

瀬は、川の浅いところ(浅瀬)や川の流れが急なところを指す。

飛鳥川は竜門、高取の山塊を源流にし、石舞台の近くで多武峰からきた冬野川と合流、飛鳥の中心部から藤原京を斜めに通って、やがて大和川にそそぎ込む。
古代人にとって飛鳥川は暮らしの動脈であり、心のよりどころとなった母なる川である。
万葉集中、もっとも多く詠まれている川がこの飛鳥川。今は川幅はせまく水量も多くはないが、祝戸(いわいど)から上流は瀬音高く「水脈(みを)早み」の清流になっている。

この万葉歌碑は明日香の橘寺東門東・飛鳥川沿いに建っている。