飛鳥への旅

飛鳥万葉を軸に、
古代から近代へと時空を越えた旅をします。
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万葉アルバム~花、ねこやなぎ

2012年11月15日 | 万葉アルバム(自然編)

浅緑 染め懸けたりと 見るまでに
春の柳は 萌えにけるかも  
   =巻10-1847 作者未詳=


 浅緑に布を染め上げて枝に懸けたと見間違えるほどに春の柳は萌え出ていることですよ。という意味。

「染め懸け」は「布を染めて、かけて干す」の意。
芽吹いたばかりの薄い黄緑色の柳がしなやかに揺れている様子を素直に詠んだ歌。
ネコヤナギの花穂の毛は春の日差しを浴びると、薄緑に染めた糸でできたように輝いてみえることから、
私はこの歌はネコヤナギを詠ったのではないかと思う。
万葉集には「かわやなぎ」を詠った歌が2首あり、これが今日のネコヤナギではないかとも言われている。

ネコヤナギは北海道から九州に分布する落葉の低木。山間渓流や中流の流れが急な場所などに生育する。雌雄異株であり、春に葉の展開に先立って花序を出す。若い雄花序は葯(やく)が紅色なので、全体が紅色に見えるがやがて葯が黒色になって長くなる。雌花序は絹毛が目立つのでふさふさとした感触であり、これをネコの尻尾にみたてて、ネコヤナギの和名が付いた。渓流の春を知らせる植物である。

この万葉歌碑は千葉県袖ケ浦市の袖ヶ浦公園内の万葉公園に建っている。

万葉アルバム~樹木、まつ

2012年09月20日 | 万葉アルバム(自然編)

岩代の 浜松が枝を 引き結び
ま幸くあらば また帰り見む
   =巻2-141 有間皇子=


 磐代の浜松の枝を結んで無事を祈るが、もし万が一生きて還れたらもう一度この松を見よう。という意味。

有間皇子(640-58)が謀反のかどで捕らえられ天皇のもとに護送される途中、紀の湯を眼前に望む和歌山県みなべ町岩代の地で松の枝を結び自分の命の平安無事を祈って歌を詠んだ歌2首のうちの一首である。

もう一首は、『家にあらば 笱に盛る飯を 草枕 旅にしあらば 椎の葉に盛る』(巻2-141)

有間皇子は孝徳天皇の子。孝徳天皇は宮中の実権を握った中大兄皇子に批判的だった。孝徳天皇死後、658年(斎明4年)有間皇子は斎明天皇と中大兄皇子の一行がムロ温泉に逗留中、蘇我赤兄の陰謀により、斉明天皇と中大兄皇子に謀反をくわだてているとのうわさをたてられ、中大兄皇子のもとに護送する。
有間皇子は「天知る赤兄知る、我はもはや知らず」と無実を訴えたが、結局護送中に藤白坂(現和歌山県海南市)で絞首刑に処された。これは中大兄皇子の策略であると云われている。

「まつ」は、最も身近な植物の一つで、日本の美しい自然を形づくる主な樹木でもある。クロマツ(海岸部に自生)とアカマツ(内陸部に自生)が身近に見られる。 
万葉集には77首のマツの歌がある。ただ「松」と表現されるもののほか、浜松・山松・島松など生えている場所にちなんだものや、若松・小松・老松・千代松などのように樹齢を表す場合があり、生活に欠かせない植物といえよう。

この万葉歌碑は、千葉県袖ケ浦市袖ヶ浦公園にある万葉植物園に建てられているものである。

万葉アルバム~花、やまぶき

2012年08月30日 | 万葉アルバム(自然編)

山吹は 日に日に咲きぬ うるはしと
我が思ふ君は しくしく思ほゆ  
   =巻17-3974 大伴池主=


 山吹の花は、日ごとに美しく咲いてゆきます。そのように美しくお見受けする貴方のことが、しきりと恋しく思われます。という意味。

大伴池主は大伴氏の同族であり、家持にとって家持にとっては従兄弟にあたるようだ。
大伴家持が越中国の国守として赴任した時、大伴池主は同国の掾(じょう)の職にあった。一族で旧知の池主がいたことで心強かったと思われ、家持はたびたび池主を宴に招いている。この歌は天平十九年(747)三月、病床にあった大伴家持に書簡として贈った歌である。

山吹はバラ科の落葉低木。低い山地や水辺に生え、一重山吹、八重山吹、菊咲き山吹などがある。3月から5月にかけて、鮮やかな黄色の花がきれいに咲く。
『万葉集』に詠まれた「やまぶき」は十八首ある。

この万葉歌碑は、千葉県袖ケ浦市袖ヶ浦公園にある万葉植物園に建てられている。


万葉アルバム~樹木、やまたづ(ニワトコ)

2012年08月01日 | 万葉アルバム(自然編)

君が行き 日長くなりぬ 山たづの
迎へを行かむ 待つには待たじ
   =巻2-90 衣通王=


 あなたがいらっしゃってから、ずいぶんと日が過ぎてしまいました。(冬の最中に最も早く新芽を出す)山たづのように、あなたを迎えに行きましょう、待ってなんかいられないわ。という意味。

「衣通王」(そとほしのおほきみ)は軽太郎女(かるのおおいらつめ)ともいい、允恭天皇の皇女。母は忍坂大中姫。軽太子(かるのひつぎのみこ)の同母妹。
題詞に、「古事記によると、軽太子は軽太郎女と関係を結んだので、太子は伊豫(いよ)の湯に流された。この時に、衣通王(そとほしのおほきみ:軽太郎女の別名)は恋しさに堪えかねてあとを追っていき、その時に詠んだ歌である。」とある。

この歌の異伝歌として、次の歌がある。
君が行き 日長くなりぬ 山尋ね
迎へか行かむ 待ちにか待たむ =巻2-85 磐姫皇后=

伊豫(いよ)の湯は道後温泉のこと。「山たづ」は、「迎へ」の枕詞。

「山たづ」は、現在の「にわとこ」。にわとこを神迎えの霊木として用いたことによるという。
スイカズラ科の落葉低木で、まだ寒さ厳しい2月、多くの木々が冬籠りをしている最中に緑も鮮やかな新芽を出し、「もうそろそろ春だよ」と告げてくれる目出度い木。本州、四国、九州の山野に自生し、早春、暖かくなると淡いクリーム色の五弁の小花を房状に咲かせ、夏から秋にかけて美しい赤色の球形の実をつける。新芽は天ぷらにするとおいしい。

この万葉歌碑は、千葉県袖ケ浦市袖ヶ浦公園にある万葉植物園に建てられている。

万葉アルバム~樹木、ほほがし(朴=ホオ)

2012年07月11日 | 万葉アルバム(自然編)

我が背子が 捧げて持てる ほほがしは
あたかも似るか 青き蓋(きぬがさ)  
   =巻19-4204 僧恵行=


 あなたが捧げて持っておられるほおの木の葉は、まことにそっくりですね、青いきぬがさに。という意味。

蓋(きぬがさ)は高貴な人の後ろからさしかける傘を意味する。
天平勝宝二年(750)四月、越中守大伴家持と宴に同席した際の作。「我が背子」は家持を指すとみられる。家持がホホガシワの葉を盃にして持ったのが、衣笠を貴人に差しかける様を連想させ詠った。

僧恵行は、左注によればこの時「講師を務めていた。当時の「講師」は、おもに東大寺関係の僧侶で、華厳経など特定の経典の講義のため任命された僧官のことをいう。

「ほほがし」は朴(ほお)の古名。モクレン科モクレン属の落葉高木の「朴(ほお)の木」で、山に生え、大きいものでは20メートルを超える。5~6月頃に大きな白い花を咲かせる。
昔から、この葉を食べ物を包むのに使ってきており、万葉集では花ではなく、「ほほがしは」として葉を詠んでいる。枝のてっぺんに、丸く密につく大きな葉を傘に例えたのだという。

この万葉歌碑は千葉県袖ヶ浦市の袖ヶ浦公園万葉植物園に建っているものである。

万葉アルバム~樹木、むろのき(ネズ)

2012年05月07日 | 万葉アルバム(自然編)

鞆の浦(とものうら)の 磯のむろの木 見むごとに
相見し妹は 忘れえめやも  
   =巻3-447 大伴旅人=


 鞆の浦の磯のむろの木を見るたびに、この木を見た妻のことを忘れられないのです。という意味。

天平二年(西暦730年)十二月、大伴旅人が大宰府から都に向かう途中に通った鞆の浦で、亡くなった妻のことを想って詠んだ歌。そこには霊木とされる「むろ」の巨木があり、二人は旅の安全と長寿を願って敬虔な祈りを捧げた。旅人は60歳を越えて、若い妻を伴って大宰府に赴任させられたが、そこで長旅がたたったのか妻が逝ってしまったのである。

この句の前句では、
我妹子が 見し鞆の浦の むろの木は 常世にあれど 見し人そなき(巻3-446)
妻といっしょに見た鞆の浦の磯のむろの木は変わらないが、これを見る妻はもういない、とも歌っている。

鞆の浦は広島県福山市の海岸。
「むろの木は」、ヒノキ科ビャクシン属の針葉樹で現在のネズといわれている。「実が多くつく」すなわち「実群(みむろ)」の意からその名があるといわれている。葉は硬質。鋭く尖っており触ると痛いので、昔の人は鼠の通り穴に置いてその出没を防いだことから「ネズミサシ」、「ネズ」の別名があり、漢方ではその実を杜松子(としょうじつ)といい利尿、リュウマチに薬効があるそうだ。
「むろの木は」を詠める歌は万葉集に7首ある。

この万葉歌碑は、千葉県袖ケ浦市袖ヶ浦公園にある万葉植物園に建てられている。





万葉アルバム 花、はぎ

2012年01月23日 | 万葉アルバム(自然編)

高円(たかまと)の 野辺(のべ)の秋萩 いたづらに
咲きか散るらむ 見る人無しに
   =巻2-231 笠金村=


 高円山の野のほとりの秋萩は、空しく咲いて散っているらしい。もう見る人もいないのに、という意味。

「梓弓(あづさゆみ) 手に取り持ちて・・」と葬列のたいまつの送り火を切々と歌う野辺送りの長歌(巻2-232)につづく反歌で、万葉集を代表する晩歌のひとつである。
霊亀(れいき)元年(715)に志貴皇子が亡くなったのを悲しんで詠んだ歌の一つ。

ハギ(萩)は、マメ科ハギ属の総称。落葉低木。秋の七草のひとつで、花期は7月から10月。分布は種類にもよるが、日本のほぼ全域。古くから日本人に親しまれ、万葉集の中によまれた植物の中で萩は141首あり、花としては最も多い植物である。万葉集に詠まれている萩は「ヤマハギ(山萩)」のことだそうだ。
万葉で2.3位のうめ・さくらに比べて、地味なはぎが万葉人に愛されたのは現代の我々からみると不思議に思われる。
当時は山野にヤマハギが多く見られ、地味ではかない花々が万葉人の心をとらえたのであろうか。

こちらの万葉歌碑は、奈良県橿原市にある万葉の森に置かれているもの(2011/11/14写す)。

万葉アルバム 樹木、つるばみ(クヌギ)

2012年01月12日 | 万葉アルバム(自然編)

紅(くれない)は うつろふものぞ 橡(つるばみ)の
なれにし衣に なほしかめやも
   =巻18-4109 大伴家持=


紅(くれない)で染めた衣はきれいでしょうが、色があせやすいものです。橡(つるばみ)で染めた衣は地味でも慣れ親しんでいるので、やはり良いものですよ。という意味。

大伴家持が妻がいるのに若い女に心変わりした部下をさとして歌った。

橡(つるばみ)は現代名クヌギでブナ科の落葉高木。
山地に自生し、初夏、黄色の花が咲き、成熟してドングリとなる。実は椀に似たかさの中に入っている。かさを煮た汁は、濃い鼠色の染料となる。
 橡(つるばみ)色
つるばみを詠める歌は万葉集に6首ある。

こちらの万葉歌碑は、奈良県橿原市にある万葉の森に置かれているもの(2011/11/14写す)。


万葉アルバム:樹木、まゆみ

2012年01月02日 | 万葉アルバム(自然編)

南淵の 細川山に 立つ檀(まゆみ)
弓束(ゆづか)巻くまで 人に知らえじ 
   =巻7-1330 作者不詳=


南淵の細川山に立っている檀の木よ。お前を立派な弓に仕上げて弓束を巻くまでその所在を人に知られたくないものだ。という意味。

南淵は奈良県明日香村稲淵の上流、細川山は明日香東南方細川に臨む山。
「弓束巻く」とは左手で弓を握りしめる部分に桜の樹皮や革を巻きつけて握りやすくすることで、弓の仕上げの作業のことをいう。
 
檀(まゆみ)は、山林や野原などに生えている秋には赤い可愛い実をつけるニシキギ科の落葉低木。葉はその年に伸びた緑色の枝から生え,大きさは5~15cmで表面はつるつるしている。初夏に枝の前の年にできた部分から伸びた小枝に咲く。昔,この木から弓を作ったことから真弓(マユミ)という。しなやかで強い幹を弓の材にしたことによる名。

この万葉歌碑は千葉県袖ケ浦市の袖ヶ浦公園内の万葉公園に建っている。

万葉アルバム 穀物、いね

2011年12月23日 | 万葉アルバム(自然編)

稲搗(つ)けば 皹(かが)る我(あ)が手を 今夜(こよひ)もか
殿の若子(わくご)が取りて嘆かむ
    =巻14-3459 作者未詳=


稲を搗いてひび割れた手、この私の手を今夜もまたお屋敷の若様が手にとって撫でながら、可愛そうに 可愛そうにとおっしゃって下さることでしょうか、という意味。

「稲搗けば」当時は臼に籾を入れて杵で搗いて精米をしていた。「皹(かが)る」とは手足が「ひび割れ」すること。「殿」とは、大きなお屋敷のことで、「殿の若子」は大きなお屋敷の若様のこと。

自分のひび割れた手を恥らいながら、お屋敷の若様との逢瀬を想いみる乙女心という、ロマンティックな場面を想像することができるが、稲搗きの辛さをまぎらわせる集団の作業歌ともいわれている。それが民謡として歌い継がれ、東歌として万葉集に取り入れられたのであろう。

万葉時代のイネは赤米であるといわれている。
日本の国に稲作農耕文化が上陸したのは縄文時代の晩期で、赤米は米のルーツであり、赤飯の起源といわれている。神様へのお供え物、お祝い事として使用されていた。
赤米のほとんどが粳米(うるちまい)で、野生の稲の多くが赤米であったといわれている。

万葉集にはイネの歌は26首もある。



万葉アルバム 樹木、かしわ

2011年11月28日 | 万葉アルバム(自然編)

印南野(いなみの)の 赤ら柏は 時あれど
君を吾が思ふ ときは実(さね)なし                
    =巻20-4301 安宿王=


印南野の赤ら柏が色ずくのは時期が決まっているが、私が君を思うことは時の区別など全くありません、という意味。

印南野は現在の兵庫県加古川市、加古郡、明石市一体を指す。「赤ら柏」は、ぶな科の落葉高木の柏の葉を乾燥して赤褐色になったもの。古くはこれに果物や雑肴を盛り、また飯を包むのにも用いたという。

この歌は天皇に対する忠誠心を歌ったものである。
天平勝宝六年正月七日(754)、天皇(孝謙)・太上天皇(聖武)・皇太后(光明)が、東の常の宮の南大殿にお出ましになって宴を催された時、播磨国の守の安宿王(あすかべのおおきみ)が詠んだ歌。「君」は孝謙天皇をさし(安宿王は天皇のいとこ)、『萬葉集釈注』によれば、「安宿王が、その領内から献上する特産品にこと寄せて、忠節の心の変わらないことを奏上したもの」とある。

カシワは、日本各地の山野に自生し,居住地でも栽培される高木。葉の大きさは10~25cmで,昔の人はこの葉のうえに食べ物をのせていたことから炊葉(カシワ)という。

万葉集に「柏」の歌は3首あり。


万葉アルバム 樹木、くわ

2011年11月17日 | 万葉アルバム(自然編)

筑波嶺の 新桑(にひぐは)繭(まよ)の 衣(きぬ)はあれど
君が御衣(みけし)し あやに着欲しも                
    =巻14-3350 東歌=


筑波嶺一帯の、新桑を食べさせて育てた繭の着物は、それはそれで素晴らしいけれど、やっぱりあなたのお召し物が無性に着たい。という意味。

桑の新芽をつみながら、いとしい人を想って歌った娘さんの恋の歌という見方もあるが、実際はそうではなく、新しい着物がどんなによくても、あなたの着物と交換したい、すなわち身を任せて共寝をしたいという恋の歌なのだ。
古代の人々は、親しい男女間で別れの際に下着を交換するという習慣があったようだ。

筑波嶺(つくはね)」は筑波山。「新桑(にひぐは)」は、桑(くは)の新芽のこと。新桑(にひぐは)で育てた蚕で作られた絹の衣は高級品だった。繭(まよ)は、蚕(かいこ)のまゆのこと。

クワ(桑)はクワ科クワ属の総称。カイコの餌として古来重要な作物であり、また果樹としても利用され、成熟した果実はそのままでも甘酸っぱくて美味。果実酒やジャムにも利用されている。

万葉集に「くわ」の歌は2首あり。

この万葉歌碑は筑波のテクノパーク大穂に建っている。


万葉アルバム 草木、くず

2011年10月31日 | 万葉アルバム(自然編)

ま葛(くず)延(は)ふ 夏野の繁く かく恋ひば
まこと我が命 常ならめやも                
    =巻10-1985 作者未詳=


夏の野に葛(くず)が這い繁っているように、こんなにも恋していたら、本当に私の命は長くはないことでしょう。という意味。

葛が這い繁るという長くつらい片思いの歌だろうか。。古代人の恋への激しさと耐え忍ぶ強さは現代にはないものを感じる。

クズは、マメ科クズ属。山野のいたるところに見られる大形のつる状草本で、茎の基部は木質となる。
秋の七草の一つとされているが、夏は数十メートルにも蔓が延びて生茂るものもあるほど、生命力が強いもの。
根は太く大きく、多量のでんぷんを含んでおり、葛粉が取れる。花は紅紫色で、花期は7~9月。和名は大和の国栖(くず)が葛粉の産地であったことに由来する。
根が食用(葛切り)や薬用(葛根湯(カッコントウ)や葛湯)になる。古代でも、『延喜式』には、都へ貢進するべき品物として葛根・葛花があげられている。

『万葉集』に詠まれた「くず」は十八首もある。

万葉アルバム 樹木、ひさぎ(アカメガシワ)

2011年10月10日 | 万葉アルバム(自然編)

ぬばたまの 夜の更けゆけば 久木(ひさぎ)生ふる
清き川原に 千鳥しば鳴く
   =巻6-925 山部赤人=


夜が更け果てると、久木の生える清らかな川原に、千鳥がしきりに鳴くことよ。という意味。

ぬばたまは夜にかかる枕詞。

この歌は725年聖武天皇が吉野離宮へ行幸された折に詠われたもので、長短歌3首で構成されており、自然の叙景を前面に打ち出した山部赤人の傑作とされている。
  み吉野の 象山(きさやま)の際(ま)の 木末(こぬれ)には
  ここだも騒ぐ 鳥の声かも  
   =巻6-924 山部赤人=  →万葉アルバム
の歌に続く短歌であり、924が昼間の現実の情景に対し、925は夜更けに昼間の情景を思い起こした静かな歌である。川は吉野の渓流である象(きさ)の小川。

万葉の”ひさぎ”は現在のアカメガシワ。落葉高木で山地に自生。夏、淡い黄色の花が咲く。葉は大きく、昔は食物を盛るのに利用した。新芽が赤く色づくことからアカメガシワといわれている。



こちらの万葉歌碑は、奈良県橿原市にある万葉の森に置かれているもの(2011/11/14写す)。

万葉アルバム 草木、あさ

2011年09月15日 | 万葉アルバム(自然編)

庭に立つ 麻手(あさて)刈り干し 布(ぬの)さらす
東女(あづまをみな)を 忘れたまふな
   =巻04-0521 常陸娘子=


庭に生えている麻を刈り取って干しては 織った布を日に曝す(そんなつましい暮らしの中にいる)この東女をお忘れにならないでください。という意味。

この歌は、藤原宇合(ウマカイ)が若い頃、その任地である常陸の国から都へと戻るときに、その土地の女から贈られた歌である。
当時は都のある西国に比べて東国は遠い田舎に過ぎなかった。しかし東女という言葉に遠い都へのたくましい自己主張が感じられる。

宇合は719年常陸守に赴任し、2年後の721年に都に帰ったとみられる。その後トントン拍子で出世する藤原家の御曹司・あの藤原不比等の三男である。

常陸娘子については詳しくはわからないが、おそらく宇合の赴任中に一時期を共に過ごした地方豪族の娘あたりであろうと思われる。

「麻手」はアサ(麻)のこと。
麻は、今は麻薬の原料ということで栽培が厳しくなり、さらには化学繊維に押されてあまり利用されなくなったが、かつては日本人の生活にはなくてならぬもので神事・冠婚葬祭から日常生活までいろいろと利用された。江戸時代に木綿が普及するまでは布といえば麻布を指した。
麻は古代衣服の重要な原料であり、麻の刈り取りから布作りまで娘たちの仕事だったようだ。麻は紅花・藍とともに三草と呼ばれ、古くから全国で栽培されていた。特に開放的な夏に忍びよる魔を祓うのに使われたのが生命力みなぎる麻の葉であったという。

アサに関する万葉歌は26首と多くみられる。

 常陸国府跡
この万葉歌碑は茨城県石岡市常陸国府に建っているものである。
常陸の国は、古くは高、久自、仲、新治、筑波、茨城の六国が独立していたが、大化の改新の際、六国が統合されて誕生した。国府は石岡に置かれ、また国分寺、国分尼寺なども建てられた。石岡小学校の敷地内に上の常陸国府跡の碑がある。
石岡小学校の一角に石岡市の民俗資料館があり、万葉歌碑がある。