飛鳥への旅

飛鳥万葉を軸に、
古代から近代へと時空を越えた旅をします。
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万葉アルバム(関西):和歌山県、和歌山市 片男波公園・万葉の小路1 衣手の・・

2013年12月28日 | 万葉アルバム(関西)


衣手(ころもで)の 真若(まわか)の浦の 真砂子地(まなごつち)
間なく時なし 我が恋ふらくは
   =巻12-3168 作者未詳=


 (衣手の)ま和歌の浦の美しい真砂のように、絶え間がありません。私のあなたへの恋心は。という意味。

「真砂子地」は、隙間のない細かい砂のこと。
同音「ま」の繰り返しは、作者の胸に秘めるこの恋に対する思いの深さが表現されている。

この万葉歌碑は、和歌山県和歌山市の片男波公園・万葉の小路に建つ万葉歌碑5基の中の1番目の歌碑である。
片男波公園は和歌浦湾に注ぐ和歌川の河口部に沿うようにできた延長千数百メートルにも及ぶ狭長の砂州半島である。
片男波公園の日本庭園を抜けていくとその奥には、全長約280mの万葉の小路が広がっている。
この万葉の小路には、和歌浦や玉津島にゆかりのある5つの歌碑が建てられている。


入口にある案内版

万葉アルバム(関東):茨城県、下妻市 大宝八幡宮・若宮八幡宮 狛犬

2013年12月24日 | 万葉アルバム(関東)


筑波嶺の 新桑繭(にひぐはまよ)の 衣(きぬ)はあれど
君が御衣(みけし)し あやに着欲(きほ)しも
   =巻14-3350 東歌=


筑波嶺の新しい桑の葉で飼った蚕の繭の着物はあるけれど、あなたの着物が無性にきたいものよ。という意味。

「新桑(にひぐは)」は、桑(くは)の新芽のこと。新桑(にひぐは)で育てた蚕で作られた絹の衣は高級品だったようだ。繭(まよ)は、蚕(かいこ)のまゆのこと。


<クリックで拡大>
 この万葉歌碑は茨城県下妻市の大宝八幡宮の境内、若宮八幡宮の狛犬の裏側には万葉歌が刻まれている。
正面向かって右(写真では左側になる)の狛犬台座に万葉仮名で、左の狛犬台座に現代語訳で。

碑文(正面向かって右の狛犬台座)
 筑波祢乃 尓比具波麻欲能 伎奴波安礼抒 伎美我美家思志 安夜尓伎保思母
            或本歌曰 多良知祢能 又云 安麻多伎保思母

 平成18年1月元旦の建立とある。

大宝八幡宮は大宝元年(701)に藤原時忠公が筑後の宇佐神宮を勧請創建したのがはじまり。平将門も戦勝祈願のためたびたび参拝し、源頼朝は奥州征伐平定の日に鎌倉の鶴岡八幡宮若宮を勧請し、摂社若宮八幡宮を創建したとされる。

万葉アルバム(関東):茨城県、下妻市 大宝八幡宮・若宮八幡宮入口

2013年12月23日 | 万葉アルバム(関東)


梅の花 今咲ける如(ごと) 散り過ぎず
わが家(へ)の園に ありこせぬかも
   =巻5-816 小野老=


梅の花よ、今咲いているように、散り過ぎることなく我が家の庭に咲き続けておくれ。という意味。

作者の小野老(おののおゆ)(?~737年)は天平2年(730年)ごろ九州で大宰少弐として大伴旅人の下におり、同9年に大宰大弐従四位下で没した。
この歌は大宰府の大宰府長官大伴旅人宅で開催された梅花の宴での梅花を詠んだもの。

 この万葉歌碑は茨城県下妻市の大宝八幡宮の境内、若宮八幡宮の入口脇に立っている。比較的新しいもののようだ。
裏面に建立日 平成二十五年四月三日 大木昇・百合子  下妻市 とあった。

奥に見える狛犬の裏側には万葉歌が刻まれている(これはこちらの万葉アルバムで)。

万葉アルバム(関東):群馬県、高崎市 高崎自然歩道 14地点:根小屋城址への分岐点手前

2013年12月14日 | 万葉アルバム(関東)


伊香保ろの やさかの堰手(ゐで)に 立つ虹(のじ)の
現(あら)はろまでも さ寝をさ寝てば
   =巻14-3414 作者未詳=


 伊香保の高い井堰の上に現れる虹がはっきりと見えるように、人目につくまで一緒に寝ていられたらなぁ。という意味。

かなり露骨でエロっぽい歌であるが、民謡的で素朴さが感じられる。

「伊香保(いかほ)ろ」は群馬県の榛名山周辺をさす。「夜左可(やさか)」は地名であろうが、所在不明。「井手(ゐで)」は水をせき止める設備。「虹(のじ)」はニジの上代東国方言。

 この万葉歌碑は群馬県高崎市の高崎自然歩道、マップ14地点:根小屋城址への分岐点手前に建っている。

万葉アルバム(関東):東京都、多摩市 多摩よこやまの道・新発見の碑!

2013年12月11日 | 万葉アルバム(関東)


赤駒を 山野(やまの)に放(はか)し 捕りかにて
多摩の横山 徒歩(かし)ゆか遣らむ
   =巻20-4417 宇遅部黒女=


 赤駒を山野に放牧して捕らえられず、夫に多摩の横山を歩かせてしまうのだろうか。という意味。

武蔵国の民、椋椅部荒虫(くらはしべのあらむし)が防人に召集され、国府(現在の府中)に集合する様命ぜられ、至急出発しなければならなくなった。妻の宇遅部 黒女(うちべのくろめ)は、遠く北九州へ向かう夫を気遣って大事な馬に乗って行っ て貰おうと思い立ち、出立前に馬を野原に放して、腹一杯の草を食べさせてい た。ところが運悪く馬に逃げられてしまって、やむなく夫を徒歩で多摩丘陵を 越えさせることになってしまった。そんな妻の嘆きを詠んだものである。

東国から遠く北九州で国防の兵役につく防人は、再び故郷の土を踏むことはまずありえなかったようだ。武蔵野を眺望できる横山の尾根道で故郷を振り返りながら、家族との別れを惜しんだ防人の姿が浮かぶようだ。「よこやまの道」はこの万葉集の「横山」から名づけられたのである。

この万葉歌碑は多摩市の多摩よこやまの道、国士舘大学のそばを通過したあたりの道脇の茂みに建っている。
案内マップや他の万葉歌碑サイトにも載っていない碑であり、偶然に見つけたもの。


ややこぶりの碑で、多摩よこやまの道を示す碑であろうが、万葉歌碑として記録した。
万葉歌と共に、歌にちなんだ赤駒の姿が描かれており、ユニークで愛らしい碑であった。

万葉アルバム(関西):和歌山県、和歌山市 玉津島神社 玉津島・・・

2013年12月07日 | 万葉アルバム(関西)


玉津島 見れども飽かず いかにして
包み持ち行かむ 見ぬ人のため
   =巻7-1222 藤原卿(ふぢはらのまへつきみ)=


 玉津島の美しいこと、いくら見ても見飽きない。どうやってこの島を包んで持ち帰ろうか、まだここを見ていない人のために。という意味。


「玉津島」は万葉時代にあった小島で、現在の和歌山市和歌の浦付近にあった。
現代の海岸線は万葉時代に比べるとかなり後退して、今は六つの小山のような丘陵が続いている。
万葉の頃はこの六つが独立した小山として点在していたようだ。


三断橋と妹背山(玉津島山のひとつとされる)
和歌山市南部の雑賀野(さいかの)に聖武天皇が造営した離宮から、この一帯の海上の小島が望見できた。天皇はこのあたりの美しい景色をことのほか愛したといわれている。

作者の「藤原卿」とは誰を指すのかについては、神亀元年(724年)10月の紀伊行幸の時、藤原房前(ふささき)か麻呂(まろ)が作った歌という説がある。ただ、「卿」は三位以上の者につけられる尊称であり、麻呂が従三位になったのは天平元年(729年)であるため、「藤原卿」は房前とするのが有力となっている。


この万葉歌碑は和歌山市、玉津島神社の鳥居左側に建っている。

玉津島神社
平安中期、高野山、熊野の参詣が次第に盛んになると、その帰りに和歌浦に来遊することが多くなった。中でも玉津島は歌枕の地として知られるようになり、玉津島神社は詠歌上達の神として知られるようになっている。また、若の浦から和歌浦に改められたのもこの頃であり、由来には歌枕に関わる和歌を捩ったともいわれる。
当時の玉津島は海上に浮かぶ小島であった。そして、潮の干満で陸と続いたり離れたりする景観を呈していたという。その神聖さから丹生より稚日女尊、息長足姫尊(神功皇后)らを勧請し、玉津島神社が設けられた。また、玉津島の西側に発達した砂嘴は、片男波も今よりずっと内側に入り込んでいたものと推測されており、赤人の句のとおり、葦などの水生植物が生い茂る湿地帯であった。

万葉アルバム(関東):群馬県、高崎市 高崎自然歩道 13地点

2013年12月04日 | 万葉アルバム(関東)


わが家(いは)ろに 行(ゆ)かも人もが 草枕
旅は苦しと 告(つ)げ遣(や)らまくも
   =巻20-4406 大伴部節麻呂(おほともべのふしまろ)=


我が家に行く人がいてくれるといいのだが。旅は辛いものだと伝えたいものだ。という意味。

大伴部節麻呂(おほともべのふしまろ)は上野国(かみつけののくに)の防人。
「家(いは)ろ」は家のことで、東歌に多い東国のなまり。
「行(ゆ)かも人もが」は、行クの未然形+推量ムの連体形の訛りのモ+ヒト+願望のモガ(係助詞モ+終助詞ガ)で、行ク人ガイルトイイノダガ。「遣(や)らまくも」は、ヤルの未然形+推量のムと接尾語クで作られ名詞化するマク+詠嘆のモ。

 この万葉歌碑は群馬県高崎市の高崎自然歩道、マップ13地点に建っている。
解説板には、「おれの家に行く人がいないものか、防人の旅はつらいと、言い伝えてやりたいものだ。」とある。