飛鳥への旅

飛鳥万葉を軸に、
古代から近代へと時空を越えた旅をします。
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中将姫説話コレクション8:現代のもの

2009年11月30日 | 中将姫伝説を訪ねて

「中将姫物語」、昭和53年初版、当麻寺住職編集。
「中将姫絵伝」四幅(当麻寺奥院蔵)をもとに、「中将姫行状記」(享保十五年版)等を参考にして編集したものである。
物語にあわせて「中将姫絵伝」の絵をひとつひとつ掲載している。
表紙絵は「中将姫絵伝」の一部である。


わかやま絵本の会 紀州寺社縁起絵本 No.2「中将姫物語」(1991年発行)
中将姫の一生を絵本にしたもの、後半に「中将姫伝説の原像を追って」(松原右樹)で、得生寺と糸我雲雀山の伝承を紹介している。

 その中に「橋本市恋野地方の手まり唄」が載っているので紹介しよう。

紀伊の川上大和の境 人も通わぬ深山の奥で
かくれ住いの中将姫さんは 母よ恋しと野に出てくれば
山の雲雀は天まで上り 何を知らすかチチクル雲雀
父の朝臣(あそん)は迎えにきたが 姫はかくごの当麻の寺で
髪をおとして比尼(びく)になる 比尼になる。


「当麻曼荼羅絵解き」、1987年初版発行 当麻寺住職川中光教編集。
当麻曼荼羅の詳細な内容を絵解きしたもの。
証空上人の「当麻曼荼羅註記」十巻を底本としてまとめたと記している。

万葉アルバム(奈良):山の辺、大神神社

2009年11月26日 | 万葉アルバム(奈良)

味酒(うまさけ)三輪(みわ)のはふりの山照らす
秋の黄葉(もみち)の散らまく惜しも
   =巻8-1517 長屋王=


  三輪(みわ)の神に仕える人が奉仕しているその山を照らしている秋の黄葉(もみち)が散ってしまうのが惜しいことよ。という意味。

 「味酒」は「三輪」にかかる枕詞。「はふり(祝)」は、神に仕える人(神職:しんしょく)を指す。

長屋王(ながやおう)が、まだ藤原京に住んでいた若いころに詠んだ歌といわれているが・・・。この歌には、なにかを託しているような気がする。
奈良そごうを建設するときに広大な敷地が出てきた。長屋王邸であった。
 歌の作者の長屋王は高市皇子(たけちのみこ)の子で、母は御名部(みなべ)皇女(天智天皇皇女)。妻は吉備内親王(きびないしんのう)(草壁皇子(くさかべおうじ)の娘)。王は藤原不比等没後の左大臣だった。しかし藤原氏の陰謀によって謀反を密告され、藤原宇合(ふじわらのうまかい)らの率いる軍勢が長屋王の邸宅を包囲して、即日死を賜り、妃の吉備皇女もあとを追い、二人の遺骸は生駒山に葬られた。

 この歌には別のうがった解釈がある、
黄葉(もみじ)は紅葉のことで、万葉集ではほとんどが黄葉を使っているが、長屋王に黄文王(きぶみのおう)という息子がいて「味酒 (うまざけ)」の「ウマ」は藤原宇合の「ウマ」にかけて黄文王を助けて欲しいと願ったのでは? 。
実際、黄文王は藤原不比等の外孫だった事もあって死を免れている。

 大神神社(おおみわ)は三輪山を神体とする最古の大社で、大神大物主神社、三輪明神ともいわれて大和一の宮としてあがめられ、酒、薬、方除けなどの神として信仰を集めている。酒屋さんの商標となる杉玉はここでつくられ配布されている。
写真の杉は「巳の神杉」として祭られている。
歌碑はもと山辺の道・狭井川近くにあったが、近年になって大神神社宝物殿の右側に移設された。

万葉アルバム~花、あせび

2009年11月23日 | 万葉アルバム(自然編)

磯の上に 生ふる馬酔木(あせび)を 手折らめど 
見すべき君が 在りと言はなくに  
   =巻2-166 大伯皇女=


 岩のほとりの馬酔木の花を手折ろうと思うけれども、それを見せたい弟がこの世にいるとは誰も言ってくれない。という意味。

 686年、天武天皇崩御後1ヶ月もたたないうちに、反逆を謀ったとして処刑された、大津皇子を葛城の二上山に葬った時に、姉の大迫皇女が作った歌。

アセビ(別名あしび)ツツジ科アセビ属。
やや乾燥した山地に生え、高さ2~9㍍になる。
3~5月、枝先に円錐形序をだし、スズランのようなつぼ形の花を房状にたくさん付け、満開時期は花穂が樹を覆うように咲き誇る。
花冠は長さ6~8㍉の壺形で先は浅く5裂する。有毒植物でもある。
漢字で「馬酔木(あせび)」と書くのはアセボトキシンという有毒成分をもち、馬が食べると神経が麻痺し酔ったような状態になるところに由来し、かつては葉を煮出して殺虫剤としても利用されていたようだ。
万葉集には馬酔木を詠んだ歌が10首ある。

「馬酔木はどこか犯し難い気品がある。それでいて手折ってみせたい、いじらしい風情の花」 (堀辰雄:大和路信濃路より) という記述が的確な表現であると思う。

 奈良公園にはアセビの古木がたくさんあって、万葉の花らしい風情を添えているが、名物の鹿もこのアセビを食べないし、母鹿は子鹿に食べないように教えるそうだ。

中将姫説話コレクション7:明治期以降

2009年11月19日 | 中将姫伝説を訪ねて

「中将姫」、明治43年6月発行、講談師田辺南麟の講談を速記したとある。
講談の語り口の雰囲気が感じられる記述である。
表紙は中将姫の雪責めのシーン。
明治時代には仏教の説教が講談に取り入れられる例が多かったのである。


「当麻寺中将姫蓮糸の栞」、明治29年発行、当麻寺住職が記したもの。
中将姫の一生を記したもので、現代に改編されて領布されている。

万葉アルバム(関東):茨城、鹿島神宮

2009年11月12日 | 万葉アルバム(関東)

あられ降り鹿島の神を祈りつつ
皇御軍(すめらみくさ)に吾(われ)は来にしを
   =巻20-4370 防人の歌=


 あられが降る鹿島神宮の神に祈願して、私は天皇の戦に加わってきたのだ。という意味。

「霰ふり」は鹿島に懸かる枕詞。「来(き)にしを」の「を」は感嘆を示す助辞であり、皇軍の一員として遥か故郷を後にして来た感慨を籠めた表現である。作者は防人の大舎人部千文(おおとねりべのちふみ)で常陸国那珂郡の人である。
いわゆる「鹿島立ち」の原型となった歌で、大東亜戦争中はことに愛誦された歌であった。

鹿島神宮の祭神は武甕槌神(タケミカヅチ)で、元々は鹿島の土着神で、海上交通の神として信仰されていた。
ヤマト王権の東国進出の際に鹿島が重要な地になってきたこと、さらに、祭祀を司る中臣氏が鹿島を含む常総地方の出で、古くから鹿島神ことタケミカヅチを信奉していたことから、タケミカヅチがヤマト王権にとって重要な神とされることになった。平城京に春日大社(奈良県奈良市)が作られると、中臣氏は鹿島神を勧請し、一族の氏神とした、

社伝に藤原氏の祖藤原鎌足は、この地鹿島誕生説が「大鏡」などで説かれているように、鹿島神宮を氏神として仰ぎ、藤原不比等は神護景雲二年(768)に分霊を春日社(現在の奈良・春日大社)としたとある。

鹿島神宮では、3月9日に祭頭祭がある。棒祭とも呼び、神領五十三ヶ村のうち祭頭に当たった二ヶ村の青年男子が定めの衣装で、八尺の樫棒を打合わせ、囃歌をうたって神宮に詣でる。東国から徴集された防人が鹿島に集められ長途の旅に立った。その旅立ちを祈ったのがこの祭頭祭で、「鹿島立ち」の神事といわれる。

 写真は鹿島神宮の秋祭りの模様で、万葉歌碑は神社鳥居横にある。

万葉アルバム~花、ぬばたま(ヒオウギ)

2009年11月09日 | 万葉アルバム(自然編)

居(ゐ)明かして君をば待たむぬばたまの
我が黒髪に霜は降るとも
   =巻2-89 磐姫皇后=


 このまま夜明けまで、あなたをお待ちします。私の黒髪にたとえ霜が降りようとも。という意味。

 磐姫(いわのひめ)皇后は仁徳天皇の皇后で、ひどく嫉妬深い女性として有名である。
 磐姫が旅行中に、天皇がかねてご執心の異母妹・八田皇女(やたのひめみこ)をこっそりと宮中に入れたのだ。それを知った磐姫は宮中に帰らず、山城国の帰化人の所に身を寄せてしまった。 
 慌てた天皇は再三磐姫を迎えに来たが、磐姫は天皇に会うこともなく、5年後にその地で生涯を終えたという。激しい気性だったが愛情も深かったようだ。

「ぬばたま」は、ヒオウギ(緋扇)の光沢のある黒色の種子のことを古代では言っていたようだ。
ヒオウギはアヤメ科ヒオウギ属。山地の草原に生える多年草。花は径4~6㌢で、黄赤色で内側に濃い暗紅点が多数ある。葉がひのきの薄板で作った扇状に展開するので桧扇とも呼ばれ、いけばなの花材に使われる。晩秋には光沢のある黒い実をつけ、これが「ぬばたま」とよばれていたのである。
このヒオウギの花そのものを詠った歌は一首もない。ぬばたまは枕詞として用いられ、夜・黒髪・黒馬などの黒を強調するための詞とされている。

万葉アルバム(奈良):桜井、安倍文殊院

2009年11月05日 | 万葉アルバム(奈良)

つのさはふ磐余(いはれ)も過ぎず泊瀬山(はつせやま)
いつかも越えむ夜は更けにつつ
   =巻3-282 春日老=


 まだ磐余をも過ぎていない、泊瀬山はいつ越えられるだろう、夜は更けていくばかりだ。という意味。

 飛鳥から磐余を過ぎ、泊瀬山を越える春日老(かすがのおゆ)の歌。「磐余」は古京があった地で、大津皇子が処刑された磐余池があった。「つのさはふ」は「いは」にかかる枕詞。
 当時の役人が藤原の宮都で勤務後、九キロメートル程もある初瀬地方にいる恋人のところへ通う心情を歌にしたと考えられる。簡単にして的確に描写しているなかに、いろいろな情景を連想させる。

この歌碑はノーベル賞を受賞された朝永振一郎先生のペン字書きを、原稿用紙の罫線そのままを拡大して碑にしたものだそうだ。安倍文殊院の特別史蹟西古墳東脇に建っている。
安倍文殊院は桜井市の磐余付近にあり日本三大文殊のひとつで、学業成就祈願が有名で受験生が多く訪れる。

中将姫説話コレクション6:「菱川師宣美人絵」(一部)

2009年11月02日 | 中将姫伝説を訪ねて
 天和3年(1683)の「菱川師宣美人絵」の一部。(大正3年摺りの複製)
 菱川師宣(ひしかわもろのぶ ?~1694)は江戸前期の浮世絵師。 
若いころに江戸にでて、隆盛期の江戸の出版界で版本の挿絵画家として活躍をはじめ、1672年(寛文12)、最初の署名本として「武家百人一首」を刊行。「浮世絵」という言葉がはじめて登場する80年前後に、その中心的な作家として、100種以上の絵本、挿絵本、50種以上の枕絵本をのこした。肉筆画には有名な「見返り美人図」がある。


(詞書:大和たへま山中将姫と申奉るはかくれ美女の宮にてましますが若き御時より仏法修行におもむかせ給ひつつ・・・)
中将姫が蓮糸で曼荼羅を織る場面。飛天や迦陵頻伽(かりょうびんが)が周りを飛んでいる。