飛鳥への旅

飛鳥万葉を軸に、
古代から近代へと時空を越えた旅をします。
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万葉アルバム(中部):長野県、千曲市 千曲川万葉公園 中麻奈に・・・

2012年09月29日 | 万葉アルバム(中部)

中麻奈(なかまな)に 浮き居(を)る舟の 漕(こ)ぎ出なば
逢(あ)ふことかたし 今日(けふ)にしあらずは
   =巻14-3401 作者未詳=


 千曲川に浮かんでいる船が漕ぎ出して行ってしまうのと同じように、もし行ってしまったら、逢うことが難しい。今日という日でなければ。という意味。

「中麻奈」についてはいくつかの説がある。ここでは(1)を採用した。
(1)「中麻奈」=千曲な、「な」は川に親愛をこめていう接尾語か。
「中」は「チグ」と訓まれた「沖」と同音である。したがって「中麻」=千曲。
(2)「中麻奈」=川の中州


千曲川万葉公園(南側)全景

 この万葉歌碑は千曲市上山田温泉の千曲川堤にある千曲川万葉公園(万葉橋南側)に建っている。
この歌碑は万葉学者の犬養孝氏が揮毫した。
歌碑文は以下の万葉仮名が採用されている。
 「中麻奈尓 宇伎乎流布祢能 許藝弓奈婆 安布許等可多思 家布尓思安良受波」

万葉アルバム(関東):東京都、狛江市中和泉 玉川碑

2012年09月26日 | 万葉アルバム(関東)

多摩川に 曝(さら)す手作(てづくり) さらさらに
何(なに)そこの児の ここだ愛(かな)しき
   =巻14-3373 作者未詳=


 多摩川にさらさらと曝す(さらす)手作り(調布)のように、更に更にどうしてのこの娘達はこんなに可愛いのだろう。 という意味。

古代から多摩川流域では、麻や絹の生産が盛んで、奈良時代頃からは天皇に納める「調(みつぎ)の布」が生産されるようになった。


(調布:布多天神社の絵馬)
歌には、織った布を多摩川に晒す風景が詠まれている。当時から狛江の辺りは布織物が盛んで、作った布は、租庸調の調として中央政府に納められていた。それも、この地は、高麗からの渡来人が多く住み、植物繊維から布を織る技術を伝え広め、狛江付近には、調布、染地、布田、砧などの地名が散見される。当時この辺りの多摩川には、歌のとおり、布を晒す風景が日常的に見られたのであろう。


衣叩き(きぬたたき)
古代の技術で織られた布は、糸が太くごわごわと硬かったため、多摩川の清流に布をさらしながら、「砧(きぬた)」という木槌でたたく「衣叩き」という作業をして、つやを出し、柔らかくしたという。
記録によると江戸時代頃までは多摩川で布をさらし、衣叩きをしていたようで、多摩川にほど近い世田谷区砧の地名もここから来たものだと思われる。
(絵:諸国六玉川)

 碑表 <クリックで拡大>
 この万葉歌碑は狛江市中和泉4-14の歌碑公園(かつての玉翠園の前)に建てられている。
歌碑は万葉仮名で、刻されている。
”多麻河泊爾左良須弖豆久利左良左良爾奈仁曽許能児能己許太可奈之伎”

碑の説明版によると、
”文化2年(1805)に老中松平定信の揮毫で作られたが、文政12年(1829)多摩川の洪水により流され、大正11年(1922)に旧碑の拓本を模刻して再建された。”とある。

この歌碑の再建には数々の曲折がある。
この歌が刻まれている「万葉歌碑」は、文化2(1805)年、元土浦藩士の平井有三菫威(ひらいゆうぞうとうい)が建立しました。江戸幕府の老中を勤めていた松平定信(まつだいらさだのぶ)を初め、数々の文化人たちと交流があった平井は、「日本六玉川(むたまがわ)」の一つ、武州(武蔵国)玉川に名所がないのを嘆き、万葉集に詠まれた句を松平定信の揮毫により刻んだ。
「万葉歌碑」建立から24年後の文政12(1829)年、多摩川が大洪水にみまわれて堤防が決壊、歌碑も行方不明になってしまった。そのため残念ながら、当初建てられた歌碑の形や大きさ、建てられた正確な場所などは謎のままになった。
時は移り大正時代。
隠居後に「楽翁(らくおう)」と名を変えた松平定信を敬慕していた、三重県の羽場順承(はばじゅんしょう)は、楽翁の遺著や遺跡を追っていた。大正11(1922)年、羽場は旧(三重県)桑名藩士から、歌碑の拓本を手に入れた。
しかし玉川碑がすでに失われていることを知り、当時猪方村長をしていた石井扇吉、郷土史家の石井正義などに協力を仰いで、旧歌碑の発掘を行ったが、見つけることができなかった。
歌碑の再建を計画した平井は、やはり楽翁を敬慕していた実業家の渋沢栄一に協力を依頼した。
大正12(1923)年3月、渋沢は財界に募った2,150円に、自らの寄付金2,500円と、玉川史蹟猶興会費を加え、6,000円を超える資金を集めた。そして8月頃には、玉翠園前(現在地)に歌碑を再建、秋には除幕式を予定していたが、9月1日におきた関東大震災によって歌碑が倒れ、除幕式は延期になってしまう。しかし翌年、楽翁の命日にあたる4月13日には玉翠園で盛大な除幕式が行われた。


高さ2.7mの堂々たる歌碑の揮毫は、楽翁の拓本を復刻、碑陰記は旧碑のものに合わせ、後半には渋沢の撰文・書が刻まれている。

 碑裏 <クリックで拡大>
〔碑陰記・訳〕
日本で「玉川」と呼ばれる川は天下に全部で6つある。武蔵国にあるのはその1つである。しかし、水の道はしばしば変わってしまうので、現在訪ねてみても見つける事が出来ないのである。
平井菫威が「調布の玉川」旧跡を考証探索して何年か経つが、最近これを認定し、我が老公(松平定信)にお願いして、その古歌一首を書いてもらい、石碑に刻んで、これを多麻郡猪方村に建てた。これから後は、古跡に腰を下ろし、立派な石と共に世間に知られていくだろう。
微(わずか)な事でも大事なことは世に紹介し、幽(かすか)な事でも鮮明にしていく事が、孔子が著したものとも言われる「春秋」という歴史書の志である。菫威はきっとこれに学んだのであろう。
言うまでもなく老公の書は、この証拠を後世に残す事となった。

〔碑陰記後半・訳〕
武蔵玉川の地は、いにしえより苧麻蚕糸に富んでいて、里人はこれを織り、玉川にさらして朝廷に献納していた。これが万葉集に、玉川にさらす手作りの歌を残した由縁である。
文化年間(1804~1818年)の初めに松平楽翁公が、里人の願いによって万葉集の歌を書し碑を建てたが、文政12(1829)年の洪水で堤防が決壊して、この歌碑が流されてしまってから、今まさに百年におよぶ。
狛江の里人、石井扇吉、石井正義、羽場順承などがこれを惜しみ、何回か発掘を試みたけが遂に見つけることが出来なかった。よって「玉川史蹟猶興会」を興て旧碑の拓本を模刻し、それをもってこの地を明らかに表す。
余が楽翁公に私淑していて名勝保存の志があるので、援助を請いてこの碑を建て、その事由を碑陰に記す。
考えてみると玉川の地は万葉の時(7世紀後半~8世紀後半)には、東に一つ川沿いの村があるだけだったが、皇都の東京に決められてから首都に近いこの土地では、冠や帽子、裾や履き物と、常に美しい山水の景色が、相映ず。
今、また永遠に変わらない石の碑を建てて、名高い老中(楽翁)故人の立派な功績を伝へ、遠く奈良朝の昔の姿を懐かしむ。
これは、太平な時代の恩恵であろう。
この地でこの碑を見る者の心が動かされる事を願う。
大正11年12月27日
正三位勲一等子爵(しょうさんいくんいっとうししゃく) 渋沢栄一 撰ならびに書
石工 吉沢耕石(よしざわこうせき)刻


狛江付近の多摩川の流れ (2012/9)

万葉アルバム(中部):長野県、千曲市倉科 倉科公民館

2012年09月24日 | 万葉アルバム(中部)

人皆の 言(こと)は絶ゆとも 埴科(はにしな)の
石井(いしゐ)の手児(てご)が 言(こと)な絶えそね
   =巻14-3398 作者未詳=


 世の中の誰も声を掛けてくれなくなっても、埴科の石井の愛しいあの娘だけは言葉を絶えさずにいて欲しい。という意味。

手児は手児奈(てこな)で、万葉のころの美女。手児奈は、たくさんの男性に慕われるが全て断わるので、男達は手児奈を巡り相争ったため、誰かをとると他のものを不幸にしてしまうと、入り江に身を投げてしまうという、伝説の乙女。


この万葉歌碑は千曲市倉科1412(かつては更埴市倉科石井)にある倉科公民館の庭に建っている。

万葉歌碑の説明版を以下に記す。
”倉科区は古くから九条城興寺領倉科の庄「石井の里」と称されています。
 万葉集にある石井は区の中央に存在している倉科神社(旧石井神社)旧倉科小学校跡(現在の公民館)の地籍であるといわれています。
 また一説には石井の転化語(石井のことばの音がなまって石杭と変わった)となった現在の大日堂園地を中心とした石杭の地籍であると考えられています。いづれにしても埴科の石井は倉科地区全体をさしていったのではないかと思われます。
 比等未奈乃 許等波多由登毛 波尓思奈能
 伊思井乃手児我 許等奈多延曽称
(人皆の言は絶ゆとも 埴科の石井の手児が 言な絶えそね)
歌の意味は「世の人のすべての言葉の往き来は絶えようとも埴科の石井にいる美しく愛らしい乙女の言葉 言い伝えはどうか絶やさないでほしい」ということです。
 現在万葉歌碑が石杭の大日堂園地泉のほとりと倉科公民館前庭の一角に建立されています。石杭の歌碑は松代藩主真田幸弘お抱歌学者 大村光枝とその門人によって建てられたと思われます。公民館前の歌碑は平成二年三月当時の区役員や史跡保存会員らによって建立されました。”


倉科神社(旧石井神社)
倉科区の中央にあり、倉科公民館とは道路隔てて隣接している。
このあたりがかつての石井の里と考えられている。

万葉アルバム(関東):神奈川県、川崎市 等々力緑地

2012年09月22日 | 万葉アルバム(関東)

橘(たちばな)の 古婆(こば)の放髪(はなり)が 思(おも)ふなむ
心愛(うつく)し いで吾(あ)れは行かな
   =巻14-3496 作者未詳=


 橘の古婆にいるあのおさげ髪の子が私を思っているであろうその心がいとしい。さあ私は会いに行こう。という意味。

「橘」は「川崎市の古名でもあるという。川崎市の大部分が明治以前は武蔵国橘樹(たちばな)郡だった」。
「古婆(こば)」は古波乃里のこと。

この万葉歌碑は川崎市中原区等々力の市民ミュージアムの東隣にある等々力緑地ふるさとの森の入り口付近に建っている。昭和54年、地元ライオンズクラブ寄贈。
歌碑にある独特の丸い穴が銅鐸を模しているような気もするが、銅鐸とこの歌や万葉の時代が合わないし、丸い穴が何を意味しているのかわかりません。しかし樹木の中に溶け込んで存在感を醸し出しているのが印象に残った。(2012/9/17訪問)


歌碑は万葉仮名で刻されている。 <クリックで拡大>
”多知婆奈乃 古婆乃波奈里我 於毛布奈牟 己許呂宇都久思 伊弖安礼波伊可奈”


歌碑裏面に解説が刻されている。 <クリックで拡大>
(右裏面)  橘(たちばな)の古波(こば)の放髪(はなけ)が思ふなむ
       心(こころ)愛(うつく)し いで吾(われ)は行(い)かな
      橘(このあたり一帯の古名)の古波乃里で
      おかっぱ髪の乙女が、思い待ちしているだろう 
      その気持がかあいくてならない、さあでかけよう、あの娘のところへ、
(左裏面) このあたりにひろがる原始林や一面の荒野は、
      こういった素朴な若者たちおおぜいの手で、長い
      日数をかけて拓かれていった。
       この碑は近藤俊朗、榎本弘、安達原秀子、
       吉村良司の主唱により中根嘉市の献石を
       受け川崎北ライオンズクラブが建てた、
         一九七八年四月 吉村良司 誌

万葉アルバム~樹木、まつ

2012年09月20日 | 万葉アルバム(自然編)

岩代の 浜松が枝を 引き結び
ま幸くあらば また帰り見む
   =巻2-141 有間皇子=


 磐代の浜松の枝を結んで無事を祈るが、もし万が一生きて還れたらもう一度この松を見よう。という意味。

有間皇子(640-58)が謀反のかどで捕らえられ天皇のもとに護送される途中、紀の湯を眼前に望む和歌山県みなべ町岩代の地で松の枝を結び自分の命の平安無事を祈って歌を詠んだ歌2首のうちの一首である。

もう一首は、『家にあらば 笱に盛る飯を 草枕 旅にしあらば 椎の葉に盛る』(巻2-141)

有間皇子は孝徳天皇の子。孝徳天皇は宮中の実権を握った中大兄皇子に批判的だった。孝徳天皇死後、658年(斎明4年)有間皇子は斎明天皇と中大兄皇子の一行がムロ温泉に逗留中、蘇我赤兄の陰謀により、斉明天皇と中大兄皇子に謀反をくわだてているとのうわさをたてられ、中大兄皇子のもとに護送する。
有間皇子は「天知る赤兄知る、我はもはや知らず」と無実を訴えたが、結局護送中に藤白坂(現和歌山県海南市)で絞首刑に処された。これは中大兄皇子の策略であると云われている。

「まつ」は、最も身近な植物の一つで、日本の美しい自然を形づくる主な樹木でもある。クロマツ(海岸部に自生)とアカマツ(内陸部に自生)が身近に見られる。 
万葉集には77首のマツの歌がある。ただ「松」と表現されるもののほか、浜松・山松・島松など生えている場所にちなんだものや、若松・小松・老松・千代松などのように樹齢を表す場合があり、生活に欠かせない植物といえよう。

この万葉歌碑は、千葉県袖ケ浦市袖ヶ浦公園にある万葉植物園に建てられているものである。

万葉アルバム(中部):長野県、千曲市 千曲川万葉公園 みこも刈る・・・

2012年09月18日 | 万葉アルバム(中部)

みこも刈る 信濃の真弓 我が引かば
貴人(うまひと)さびて いなと言はむかも
   =巻2-96 久米禅師=

みこも刈る 信濃の真弓 引かずして
弦(お)はくるわざを 知ると言はなくに
   =巻2-97 石川郎女=


久米禅師が石川郎女にプロポーズし、郎女は弓を引きもしないでと返している。
(巻2-96)信濃の真弓を引くように私があなたの心を引いたならば、高貴な人らしくていやだとおっしゃるでしょうか。
(巻2-97)信濃の真弓を引きもしないで、弦をかけるすべを知っているとは言わないものですが。

本気になって女を誘ってみもしないで、女を従えることなどできるものですか、という意をこめた歌。
「みこも刈る」は信濃の枕詞。「真弓」は檀(まゆみ)製の弓、信濃は弓の産地として聞こえていた。
(新潮日本古典集成 万葉集による) 


千曲川万葉公園(南側)全景

 この万葉歌碑は千曲市上山田温泉の千曲川堤にある千曲川万葉公園(万葉橋南側)に建っている。

万葉アルバム(明日香):甘樫の丘

2012年09月12日 | 更新情報
     (写真追加しました)

采女の袖吹きかへす明日香風
都を遠みいたづらに吹く
    =巻1-51 志貴皇子=


采女の美しい袖を返していた明日香風も、都が遠くなって吹き返すべき采女の袖もないままに空しく吹いている。持統8年(694)飛鳥浄御原宮から藤原宮へ遷都された後、さびれた古都のさまを歌った皇子30歳頃の作。

甘樫の丘から耳成山を望むと、その手前に藤原宮跡が広がっている。


丘の上に立つと、万葉の頃と変わりないであろう、心地よい風が頬をなでる。(2006/9)


遠くに二上山が、近くに大和三山のひとつ畝傍山が激動の飛鳥・奈良時代がなかったのかのように、やさしくたたずんでいる。(2006/9)


甘樫の丘の中腹にこの歌碑が立っている。(2006/9)
万葉学者故犬養孝先生の筆になるもの。


万葉の大和路を歩く会で犬養孝先生とともに、
この地に来たのが今では懐かしい思い出である。(1986/6) 

万葉アルバム(中部):長野県、千曲市戸倉 戸倉支所前歩道 萩の花・・・

2012年09月10日 | 万葉アルバム(中部)

萩(はぎ)の花 咲きたる野辺(のへ)に ひぐらしの
鳴くなるなへに 秋の風吹く
   =巻10-2231 作者未詳=


 萩の花の咲いた野辺にひぐらしが鳴くとともに、秋の風が吹く。という意味。

夏の暑さが過ぎ、萩や蜩や秋のさわやかな風に、まっさきに秋の気配を感じるのは、古代も現代も同じようだ。
万葉の感性が現代にそのまま通じ、古代の人の気持ちと共有できる一体感を、この歌から感じとることができる。

「~なるなへに」は、「~しているのと同時に」という意味。
「蜩(ひぐらし)」は夜明けや日暮れに時を決めて、かな、かな、かな、と鳴く。

巻10の秋雑歌のなかの”風を詠む”3首のうちのひとつ。


写真は千曲市役所戸倉支所の中庭、写真左手が歩道になっている

 この万葉歌碑は千曲市戸倉の千曲市役所戸倉支所前の歩道に全部で4基置かれているうちのひとつ。

万葉アルバム(中部):長野県、千曲市 千曲川万葉公園 信濃道は・・・

2012年09月05日 | 万葉アルバム(中部)

信濃道(しなのぢ)は 今の墾道(はりみち) 刈(か)りばねに 
足踏(ふ)ましなむ 沓(くつ)はけわが背(せ)
   =巻14-3399 東歌=


 信濃路は新しく切り開らかれたばかりの道。切り株に足を踏んだりしませんように、沓をおはきなさい。という意味。

「背(せ)」とは、女の人が恋人や夫、兄や弟など、心から大事に思う男性を指す際に使う言葉。
逆の男性から女性を指す場合は「妹(いも)」を使う。

和銅6年(713)に信濃と美濃を結ぶ道が12年がかりで開通したと続日本紀に書かれている。また飛鳥時代の末期からは、信濃国における官道の開発がすすんでいた。
官道とはいえ切り株の多い道だから、奮発して沓を履いて行ってくださいと、夫を気遣っている。
沓(くつ)といっても、当時はわらじのことのようで、庶民は素足で往来していたのが一般的なのだった。
非常に素直な愛情表現で、言葉の独特の響きが魅力でもある。

 この万葉歌碑は千曲市上山田温泉の千曲川堤にある千曲川万葉公園(万葉橋南側)に建っている。



万葉アルバム(奈良):天理、長柄運動公園

2012年09月03日 | 万葉アルバム(奈良)

飛ぶ鳥の 明日香の里を 置きて去なば
君があたりは 見えずかもあらむ 
   =巻1-78 元明天皇=


 飛ぶ鳥の、明日香の古い京を後にして行ってしまったら、 あなたのあたりは見えなくなりはしないだろうか。という意味。

万葉集の題詞によると、和銅3年に藤原宮から奈良の都に遷都する時に、元明天皇が御輿(みこし)を長屋の原に停めて、古里を望んで詠んだ歌とされている。
君が辺りの「君」とはすなわち、亡き夫、草壁皇子。刃折れ、矢尽きて藤原京を出発せざるを得ない元明女帝の、愛する夫の墓陵がある明日香を振り返り、歌った。
長屋の原は藤原京と平城京の中ツ道の中間に当たる、現在の天理市西井戸堂(いどんど)あたりと考えられている。

この万葉歌碑は天理市西長柄(ながら)町の長柄運動公園内のテニスコート脇に立っている。長柄運動公園は中ツ道沿いの西井戸堂(いどんど)の南方にある。
中ツ道のこのあたりからは、大和青垣の山々と天理市街が一望できる。さらに南方に目をやると三輪山から飛鳥藤原あたりがはるかに望むこともできる。元明天皇も大和青垣の山々に目をやり振り返ったのであろうか。