飛鳥への旅

飛鳥万葉を軸に、
古代から近代へと時空を越えた旅をします。
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万葉アルバム~花、やまぶき

2012年08月30日 | 万葉アルバム(自然編)

山吹は 日に日に咲きぬ うるはしと
我が思ふ君は しくしく思ほゆ  
   =巻17-3974 大伴池主=


 山吹の花は、日ごとに美しく咲いてゆきます。そのように美しくお見受けする貴方のことが、しきりと恋しく思われます。という意味。

大伴池主は大伴氏の同族であり、家持にとって家持にとっては従兄弟にあたるようだ。
大伴家持が越中国の国守として赴任した時、大伴池主は同国の掾(じょう)の職にあった。一族で旧知の池主がいたことで心強かったと思われ、家持はたびたび池主を宴に招いている。この歌は天平十九年(747)三月、病床にあった大伴家持に書簡として贈った歌である。

山吹はバラ科の落葉低木。低い山地や水辺に生え、一重山吹、八重山吹、菊咲き山吹などがある。3月から5月にかけて、鮮やかな黄色の花がきれいに咲く。
『万葉集』に詠まれた「やまぶき」は十八首ある。

この万葉歌碑は、千葉県袖ケ浦市袖ヶ浦公園にある万葉植物園に建てられている。


万葉アルバム(中部):長野県、坂城町 会地早雄神社

2012年08月27日 | 万葉アルバム(中部)

ちはやふる 神(かみ)の御坂(みさか)に 幣(ぬさ)奉(まつ)り
斎(いは)ふ命(いのち)は 母父(おもちち)がため
   =巻20-4402 神人部子忍男=


 荒ぶる神が居られる峠道に幣をささげてわが命の無事を祈るのは、国にいる母と父のためだ。 という意味。

作者は主帳(しゆちやう)埴科(はにしな)の郡(こほり)の神人部子忍男(かむとべのおしを) 。
歌を詠んだのは信濃の郡役人であるが、この峠は信濃から美濃への御坂峠と考えられている。
防人として九州に出向く信濃国の埴科郡(坂城町付近)の若者が、神坂峠を越えていくときに歌ったもの。峠を越えて西国に行くことは、当時としては決死の覚悟であった。

会地早雄神社(おうちはやお)は長野県埴科郡(はにしなぐん)坂城町(さかきまち)南条31の北側にある。
上田市から車の往来の激しい北国街道を走り、次の坂城町に入った街道に面して石鳥居が見えてくる。
神社の入り口付近の雨よけの屋根の下に天保年間に建立された万葉仮名の歌碑と芭蕉付句塚のふたつが建っている。
万葉歌碑は鼠宿に生まれた滝沢公庵により文政8年(1825)に建立されたという古いものである。


芭蕉付句塚(明治24年、建立)
膝行(いざり)ふ便や姨捨の月 翁
散花に垣根を穿つ鼠宿 嵐雪


神社の裏手には山がせり出し大きな奇石が社殿に接している。


近くの鼠橋からの千曲川
このあたりは千曲川とせり出した山に挟まれた地で鼠宿(ねずみじゅく)と呼ばれる北国街道の宿場の南端だった。

万葉アルバム(奈良):山の辺、引手の山

2012年08月24日 | 更新情報

衾道(ふすまぢ)を引手(ひきで)の山に妹を置きて
山道(やまぢ)を行けば生けりともなし
   =巻2-212 柿本人麻呂=


衾道(ふすまぢ)の引手の山に、妻を置き去りにして山道を行くと、自分が生きているとは思われない、という意味。

柿本人麻呂が妻が亡くなったのを悲しんで詠んだ晩歌が長歌3首・短歌7首連続して巻2に収録されている。前書きに「泣血哀慟(きょうけつあいどう)して作る歌」とある。妻が死んでも日常は繰り返され、それがいっそう妻への思いを深めてしまうと、切々と詠っている。

衾道(ふすまぢ)の引手の山は、山辺の道ぞいにそびえる龍王山のことで、
その山麓に亡き妻が葬られている。
天理市中山町から東北の丘陵地一帯を古代から衾田(ふすまだ)と呼び、古代王族の埋葬地であった。通る道を衾道(ふすまじ)と呼んだ。衾とは古代、神事などで使われた白い布のことで、貴族はこの衾で棺を覆い、引手の山(龍王山)へ向かったのであろう。

 <クリックで拡大>
現在は山辺の道のハイキングコースになっており、万葉時代の道とは明暗の格差が大きく、当時の雰囲気を掴むのは難しいが、そこに建っている歌碑が、いにしえの風を感じさせるようだ。


万葉アルバム(奈良):山の辺、石上神宮

2012年08月22日 | 更新情報
     (写真文書を追加しました)


未通女(をとめ)らが袖(そで)布留(ふる)山の瑞垣(みづかき)の
久しき時ゆ思ひき我(われ)は
   =巻4-501 柿本人麻呂=


少女たちが袖を振る布留の石上(いそのかみ)神宮の垣、その古い垣のように昔から変わらず、ずっとあなたを思っていた、という意味。

自分を思う妻への感謝の気持ちを込めた歌。娘子らが袖を振る、布留の山とかけている。「布留」はいまの奈良県天理市布留町で、石上神宮の周辺をさす。
瑞垣(みづかき)は、神社の垣根のことだが、この歌では神代からの遠い昔からをたとえている。

未通女(をとめ)は万葉仮名らしい表現で、万葉時代に少女のことを「おとめ」と呼んでいた証しであり、それを万葉仮名として当て字で表現したのが「未通女」であり、それが後の代に「乙女」となった。
万葉時代は文字は未文化で、圧倒的に話し言葉であり、語り伝えた歌が多い。
万葉の語源は、万(よろず)の言(こと)の葉からきているというが、まさにその通りと思う。


石上神宮 拝殿
鎌倉時代初期の建立とされ、拝殿としては現存する最古のもので国宝に指定されている。(写真は2010/12 以下同様)


参道のたもとにみえる万葉歌碑
この万葉歌碑は石上神宮の参道向かって左手に建っている。


万葉歌碑
昭和43年4月の建立で、石材は旧内山永久寺の北門跡にあった敷石が用いられているとのこと。高さ2.3メートル、横巾は1.4メートル。刻まれる文字は、『元暦校本万葉集』から採られている。

万葉アルバム(中部):長野県、上田市 上塩尻神社

2012年08月20日 | 万葉アルバム(中部)

唐衣(からころむ) 裾(すそ)に取り付き 泣く子らを
置(お)きてぞ来(き)のや 母(おも)なしにして
   =巻20-4401 他田舎人大島=


 衣の裾に取り付いて泣く子を置いて来てしまった。その子の母もいないのに。という意味。


作者は、国造(くにのみやつこ)小県(ちひさがた)の郡(こほり)の他田舎人大島(をさだのとねりおほしま)。
いわゆる防人である。防人は大陸からの攻撃を憂慮して、おもに東国の農村から徴兵された、九州沿岸の防衛のため設置された辺境防備の兵。

「小県(ちひさがた)の郡(こほり)」は長野県上田市の周辺をさす。
「唐衣」は大陸風の衣服で、当時の外行きの衣服。

男やもめの防人が、子供らを、おそらく祖父母に預けて辺境の地に赴く、けがや病気で帰れない、ましてや帰るお金も持っていかない死出の旅であったのだ。とても悲しい歌なのである。


この万葉歌碑は上田市上塩尻にある上塩尻神社に建っている。


上塩尻は養蚕が盛んだったようで、立派な土塀に囲まれた家々が狭い道沿いに立ち並んでいる。
土塀の間の脇道が神社の方角か地元の人に訪ねたら、”この狭い道を登って行くと神社がありますよ。時々歌碑を訪ねる人がお見えになりますね。道が狭く雑草が茂っているので気を付けて”と声をかけられた。山の方向に登って行くと、とたんに雑草が生い茂り石段が崩れかかった参道に出る。
これを一気に登り詰めると上塩尻神社が現れる。
神社社殿左手に小さな摂社があり、そのわきの祠の中に古びた歌碑があった。

<写真クリック拡大します>
江戸時代の建立で、今にも崩れそうな感じだが、万葉仮名の小さな文字で刻まれているのがかすかに見えた。


歌の作者はこのあたり(上田近辺)の防人だとみられる。

万葉アルバム(関東):千葉県、鴨川市大幡 真福寺

2012年08月17日 | 万葉アルバム(関東)

立ち鴨の 立ちの騒きに 相見てし
妹が心は 忘れせぬかも
   =巻20-4354 防人の歌=


鴨の群れが立ち騒ぐそのあわただしいさまのように、出立のあわただしさの中で添い寝した妻の心が忘れられない。という意味。

「立ち鴨」は、「立つ鴨」の訛り、「立ち」:防人として出で立つこと。
この歌は長狭(ながさの)郡(こほり)の丁丈部(はせべの)与呂(よろ)麻呂が防人として西国へ出立する際に妻を愛しんで歌った歌。
「長狭(ながさの)郡」は現在の千葉県鴨川市、安房郡の東北部をさす。


この万葉歌碑は鴨川市大幡の真福寺に建っている。
万葉歌碑の隣に『たちこもの抄』の碑があり、以下が記されていた。
「このさきもりの歌は天平勝宝七年二月九日(755年)朝廷に奉り、万葉集巻第二十に取戴されたもので、妹(いも。妻。いとしい人)との別離の哀愁を詠んだものです。長狭郡(ながさのこおり)は鴨川市とその周辺の呼称です。
上丁(かみつよほろ)は兵士の階級です。丈部(はせつかべ)は馳せ使いの部民のことで、郷の名です。当地大幡と隣接の旧大山村の地域といわれ、この地、大幡小字作掛は古く作壁と書き、地元では夙に、さっかべと言い慣れて、はせつかべの転訛したもの、と伝承されています。
防人(さきもり)はこの地より遠く難波を経、瀬戸海を筑紫に赴いて、三年の間北九州防衛の任に当たったのです。
その苦労を偲んで、古代の人の心に触れたいものです。」

この真福寺の境内に立つと、長狭郡の山並みが見える。この山向こう遙か西方に防人が必死の思いで旅立ったのであろうか。


万葉アルバム(中部):長野県、上田市 蚕養国神社

2012年08月13日 | 万葉アルバム(中部)

たらちねの 母がその業(な)る 桑すらに
願へば衣(きぬ)に 着すとふものを 
   =巻7-1357 作者未詳=


  母が仕事で扱っている桑(くわ)でさえ、心から願えば、着物として着ることができるというのに。(かなわぬ恋も願えば実る。)という意味。

脇の説明版には、「”為せば成る 為さねば成らぬ何事も”のこころで積極的に生きたい」と添えられていた。

蚕(かいこ)は、桑の葉を食べて美しい絹を作り出すことから、古代人は蚕を神秘的な存在と考えていたようだ。
たらちねのは母の枕詞。


大星神社(上田市中央北3-2478-2)

 上信越自動車道・上田菅平ICを降りて上田市内に向かうとほどなく大星神社が見えてくる。

 この万葉歌碑は大星神社の摂社として佇んでいる蚕養国神社(こがいのくに)境内に建てられている。
上田地方は養蚕業がさかんで繊維産業に係わる人も多く、蚕糸業界の尊祟神として蚕養国神社(こがいのくに)を昭和16年に建立をした。養蚕・生糸から始まった上田市産業文化の発展を願い、平成19年に神社脇に万葉歌碑が建立された。
小さな古びた摂社に比べて万葉歌碑は大きく堂々としているような雰囲気を感じさせる。
昭和初期には盛んな養蚕業で上田市もかなり活気づいたようだ。現在は所々にそのなごりが感じられる。

 長野県歌「信濃の国」の3番後半部分には、蚕都上田の養蚕業が日本経済の命運を左右する程重要であることが歌いこまれている。
 「しかのみならず 桑とりて 蚕飼い(こがい)の業(わざ)の 打ちひらけ 細きよすがも 軽(かろ)からぬ 国の命を 繋ぐなり」

万葉アルバム(中部):長野県、千曲市 千曲川万葉公園 信濃なる・・ 佐々木信綱

2012年08月10日 | 万葉アルバム(中部)

信濃(しなの)なる 千曲(ちぐま)の川(かは)の 細石(さざれし)も
君し踏みてば 玉と拾(ひろ)はむ
   =巻14-3400 作者未詳=


 信濃の千曲川の小石でも、貴方が踏んだ石ならば玉として拾いましょう。という意味。


地元の上山田温泉に「恋しの湯伝説」がある。
昔むかし、当地の姫様の旦那さんが戦争へ行かされて、なかなか戻ってこなくて、姫様は神様にお祈りをしたら「千曲川で赤い石100個を拾ったら、恋人が戻ってくる」と。
万葉橋となりの大正橋の歩道には伝説をモチーフに99個の赤い石がはめ込まれている。100個目を見つければ恋が成就するとか…。

 この万葉歌碑は千曲市上山田温泉の千曲川堤にある千曲川万葉公園(万葉橋北側)に建っている。
この碑の揮毫者は国文学者の佐々木信綱さんで、1950年(昭和25年)に建立された、この万葉公園では最も古いもの。
佐々木信綱さんは『校本万葉集』(1924~25)等の編著で、昭和12年(1937)第1回文化勲章を受賞している。


歌碑は万葉仮名で書かれている
”信濃なる ちく万の川の ささ礼志も きミ之不みて者 玉と比ろ者舞”


万葉アルバム(中部):長野県、千曲市 千曲川万葉公園 信濃なる・・ 犬養孝 

2012年08月08日 | 万葉アルバム(中部)

信濃(しなの)なる 千曲(ちぐま)の川(かは)の 細石(さざれし)も
君し踏みてば 玉と拾(ひろ)はむ
   =巻14-3400 作者未詳=


 信濃の千曲川の小石でも、貴方が踏んだ石ならば玉として拾いましょう。という意味。

 万葉学者犬養先生の文章に、印象に残る次の名文がある。
「東歌の千曲川の歌はこの付近の庶民の間で謡われた歌でもあろう。恋人の踏んだ小石には、恋しい人の魂がついている。
この歌は恋する千曲乙女の純情の心で、彼氏の踏んだ小石を拾いあげ抱きかかえて、「玉だわ」といっているのだ。
一つの小石も彼女にとっては、なによりの珠玉でさえあるのだ。石を玉にする人間の心の厚みも深さも思われるではないか。
それは朝の曙光に輝く月見草の朝露にも増した綺麗な人間の心だ。・・・」

犬養先生はこの歌が大好きだったようで、本や講演でたびたび解説されている。
印象に残っているのは、広大な信濃から千曲川をズームインし、さらに河原の小石にズームインするといった生き生きとした映像描写を見るような歌だというようなことを言われたのを思い出す。


 万葉橋のたもとに立つと、はるか古代万葉の姿が彷彿と蘇ってくるようだ。しばし川風を感じながら川面を見入っていると、河原で円陣を組んで体操している元気な若者グループに気が付いた。万葉は遥か遠くに想うのみか。

 この万葉歌碑は千曲市上山田温泉の千曲川堤にある千曲川万葉公園(万葉橋北側)に建っている。
この碑の揮毫者は万葉学者の犬養孝さん。


歌碑は万葉仮名で書かれている
”信濃奈流 知具麻能河泊能 左射禮思母 伎弥之布美弖婆 多麻等比呂波牟 孝書”

この碑の裏面に、「佐久屋万葉歌碑の記」として以下の事が記されている。
「昭和六十年四月上山田温泉の新名所千曲川万葉公園竣工式が行われた。その折来賓として来町された大阪大学名誉教授文学博士犬養孝先生が当佐久屋に宿泊されこの碑の万葉歌の書をしたためられた。佐久屋ではこの書を石に刻み当温泉を訪れる文人墨客の旅情を慰めようと計画し犬養先生をお迎えしてこの碑を建立したものである。 昭和六十一年九月二十八日 上山田町長山崎尚夫書 (株)佐久屋旅館 小林茂一」

上山田温泉の佐久屋旅館の前庭に1986年(昭和61年)に建てられ、2010年にこの場所に移設されたという。
その犬養孝さんゆかりの佐久屋旅館は平成21年10月末に90年の幕を閉じ閉店したとのことである。




万葉歌碑マップ探訪:長野県千曲市 千曲川万葉公園

2012年08月06日 | 万葉歌碑マップ 探訪

  (千曲川万葉公園マップ:図をクリックすると拡大します)

 
 万葉公園は、千曲市の上山田温泉にある万葉橋のたもと、千曲川の西岸堤防沿いに広がる細長い公園で昭和60年4月に建設された。
長野県を流れる千曲川は新潟県に入ると信濃川となる日本一長い河川である。
万葉集東歌に「信濃なる千曲の川の細石も君し踏みてば玉と拾はむ」と詠まれ、小石がロマンチックな川の象徴として古代の人々の憧れだった。その影響で古く万葉の時代から現代に至るまでに千曲を訪れ歌った歌人が多い。
万葉公園には、その千曲を歌いあげた27の歌碑が、所狭しと建っている。
万葉橋北側に6基・南側に21基あり、その中に万葉歌碑は北側2基・南側6基の計8基建っている。
万葉以外には一茶や虚子をはじめとした代表的な歌人の直筆の刻まれた歌碑・五木ひろしの「千曲川」の歌碑などがある。
(2012/7/25訪問)


千曲川のながれ


千曲川万葉公園(万葉橋北側)全景


千曲川万葉公園(万葉橋南側)全景


<千曲川万葉公園、万葉歌碑一覧>
(番号は千曲川万葉公園マップ内の歌碑番号を指す)


27.信濃(しなの)なる 千曲(ちぐま)の川(かは)の 細石(さざれし)も
  君し踏みてば 玉と拾(ひろ)はむ (巻14-3400) 
  →万葉アルバムへ


1.信濃(しなの)なる 千曲(ちぐま)の川(かは)の 細石(さざれし)も
  君し踏みてば 玉と拾(ひろ)はむ (巻14-3400)
  →万葉アルバムへ


5.信濃道(しなのぢ)は 今の墾道(はりみち) 刈(か)りばねに 
  足踏(ふ)ましなむ 沓(くつ)はけわが背(せ) (巻14-3399)
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3.4.瓜(うり)食(は)めば 子ども思(おも)ほゆ 栗食めば まして偲(しの)はゆ
  何処(いづく)より 来(きた)りしものぞ  眼交(まなかひ)に もとな懸(かか)りて 
  安眠(やすい)し寝(な)さぬ (巻5-802)

  銀(しろかね)も 金(くがね)も玉も 何せむに
  勝(まさ)れる宝 子に及(し)かめやも (巻5-803)
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6.韓衣(からころむ) 裾(すそ)に取り付き 泣く子らを 
  置(お)きてぞ来(き)のや 母(おも)なしにして (巻20-4401)
  →万葉アルバムへ


7.み薦(こも)刈(か)る 信濃(しなの)の真弓(まゆみ) わが引かば
  貴人(うまひと)さびて いなと言はむかも (巻2-96) 

  み薦刈る 信濃の真弓(まゆみ) 引かずして
  強(し)ひざるわざを 知ると言はなくに (巻2-97) 
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2.中麻奈(なかまな)に 浮き居(を)る舟の 漕(こ)ぎ去(な)ば
  逢(あ)ふことかたし 今日(けふ)にしあらずは (巻14-3401)
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8.石(いは)ばしる 垂水(たるみ)の上の さ蕨(わらび)の
  萌え出(い)づる春に なりにけるかも (巻8-1418) 
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万葉アルバム(関東):埼玉県、行田市 八幡山古墳

2012年08月03日 | 万葉アルバム(関東)

足柄の み坂に立して 袖振らば
家なる妹は さやに見もかも
   =巻20-4423 藤原部等母磨=
色深く 背なが衣は 染めましを
み坂給らば まさやかに見む  
   =巻20-4424 物部刀自売=


<歌の意味>
(巻20-4423) 夫から、
足柄の御坂に立って袖を振ったなら、家に居る妻ははっきりと見るだろうか。
普通なら見えるはずはないのだが、足柄の御坂は特別の場所だから家に居る妻が見えるかもしれない、と神だのみしているのだろう。
(巻20-4424) 妻から、
もっと色を濃く夫の衣を染めればよかった、それなら、足柄のみ坂を通ったら、はっきり見えるであろうに。

埼玉(さきたま)郡(今の埼玉県の熊谷・行田・羽生周辺)の藤原部等母麻呂(ふじわらべのともまろ)という人が、防人(さきもり)として任じられ、旅立つ前に郡衙に夫婦で招待された宴席で詠まれたとある。夫婦の素晴らしい唱和歌である。

この万葉歌碑は埼玉県行田市藤原町の富士見工業団地の中にある八幡山古墳わきに立っている。
八幡山古墳の名称は、江戸時代から石室内に八幡社を祀ってきたことに由来する。
この古墳は、以前は封土で覆われ、周濠に囲われた円墳だった。大化の改新のころ築造された古墳としては、最大級の墳墓である。その古墳が現在の姿になったのは、昭和10年(1935)に近くの小針沼を埋め立てるため封土を取り去った結果だという。大和飛鳥の石舞台に匹敵し、関東の石舞台とも評されている。

万葉アルバム~樹木、やまたづ(ニワトコ)

2012年08月01日 | 万葉アルバム(自然編)

君が行き 日長くなりぬ 山たづの
迎へを行かむ 待つには待たじ
   =巻2-90 衣通王=


 あなたがいらっしゃってから、ずいぶんと日が過ぎてしまいました。(冬の最中に最も早く新芽を出す)山たづのように、あなたを迎えに行きましょう、待ってなんかいられないわ。という意味。

「衣通王」(そとほしのおほきみ)は軽太郎女(かるのおおいらつめ)ともいい、允恭天皇の皇女。母は忍坂大中姫。軽太子(かるのひつぎのみこ)の同母妹。
題詞に、「古事記によると、軽太子は軽太郎女と関係を結んだので、太子は伊豫(いよ)の湯に流された。この時に、衣通王(そとほしのおほきみ:軽太郎女の別名)は恋しさに堪えかねてあとを追っていき、その時に詠んだ歌である。」とある。

この歌の異伝歌として、次の歌がある。
君が行き 日長くなりぬ 山尋ね
迎へか行かむ 待ちにか待たむ =巻2-85 磐姫皇后=

伊豫(いよ)の湯は道後温泉のこと。「山たづ」は、「迎へ」の枕詞。

「山たづ」は、現在の「にわとこ」。にわとこを神迎えの霊木として用いたことによるという。
スイカズラ科の落葉低木で、まだ寒さ厳しい2月、多くの木々が冬籠りをしている最中に緑も鮮やかな新芽を出し、「もうそろそろ春だよ」と告げてくれる目出度い木。本州、四国、九州の山野に自生し、早春、暖かくなると淡いクリーム色の五弁の小花を房状に咲かせ、夏から秋にかけて美しい赤色の球形の実をつける。新芽は天ぷらにするとおいしい。

この万葉歌碑は、千葉県袖ケ浦市袖ヶ浦公園にある万葉植物園に建てられている。