飛鳥への旅

飛鳥万葉を軸に、
古代から近代へと時空を越えた旅をします。
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万葉アルバム(関東):千葉県、木更津市馬来田 馬来田駅前

2012年05月31日 | 万葉アルバム(関東)

馬来田(うまくた)の 嶺(ね)ろに隠り居 かくだにも
  国の遠かば 汝(な)が目欲(ほ)りせむ  
   =巻14-3383 作者未詳=


 馬来田の峰に隠れすんで、こんなにも遠いと、あなたに逢いたくてしかたないですよ。という意味。

馬来田は、宇麻具多とも書かれる古代の地名で、現在の木更津、袖ケ浦にまたがる地域を指す。馬来田に愛する人を残し、遠く旅立つ。「あなたの目を見つめたい」と、別れの心情を吐露した歌と言われる。

JR久留里線馬来田駅を拠点に、武田川沿いに「うまくたの路」散策コースがある。
この万葉歌碑は馬来田駅の駅舎の入口脇に建てられている。
馬来田駅は小さく一昔前の映画に出てくるようなローカルな駅である。なんと大正元年12月開業当時からの木造駅舎だそうで、現在この駅舎はボランティアにより運営されているようだ。

万葉アルバム(奈良):山の辺、桧原神社 ひのき

2012年05月28日 | 更新情報
            (写真および文書追加しました)

いにしへに ありけむ人も 吾(わ)が如(ごと)か
三輪(みわ)の檜原(ひばら)に 挿頭(かざし)折りけむ
   =巻7-1118 柿本人麻呂歌集=


 昔の人も私と同じように、三輪の桧原(ひばら)の檜(ひのき)を手折って、山葛(やまかずら)として頭にかざしていたのでしょう。という意味。

「桧原」は桧(ひのき)の生えている原。「挿頭(かざし)」は枝や花を折り取って髪に挿すこと。檜(ひのき)の葉をかざすというのは三輪の神への信仰の行為だったようだ。

三輪山の北西の麓、山の辺の道沿いに檜原神社がある。神域を示す鳥居と朱塗りの垣はあるが、社殿はない。大神神社と同じで背後の三輪山をご神体として拝する原初的な社なのである。


檜(ヒノキ)
ヒノキ科ヒノキ属の針葉樹。日本と台湾にのみ分布する。葉は鱗片状で枝に密着し、枝全体としては扁平で、細かい枝も平面上に出る。ヒノキは、日本では建材として最高品質のものとされる。正しく使われたヒノキの建築には1,000年を超える寿命を保つものがある。戦後人工的に植えられたヒノキが現代に花粉をまき散らし、公害となっているのもヒノキの一面を見るようだ。
檜(ヒ)を詠める歌は万葉集に8首ある。


こちらの万葉歌碑は、奈良県橿原市にある万葉の森に置かれているもの(2011/11/14写す)。

万葉アルバム~花、すみれ

2012年05月24日 | 更新情報
       (写真文書を追加しました)

春の野に すみれ採(つ)みにと 来しわれぞ
野をなつかしみ 一夜寝にける
   =巻8-1424 山部赤人=


 春の野にすみれを摘もうとやって来たが、野の美しさに心惹かれ、一晩過ごしてしまったよ。という意味。

 スミレを若い娘ととらえて、娘と一夜寝を共にする、といった解釈をする人もいるが、自然派の赤人が詠んだのだから、そのような思いで歌ったのではないと思う。

 古代ではスミレは薬草として使われていたようで、赤人のすみれ摘みは「薬草狩り」ではなかったかとの説があり、私もこの説に同感だ。薬草のためにはたくさん採集しなければならなかったので、「一夜寝にける」まで居たのであろう。このほうが自然派の赤人らしい歌になる。

 山部赤人は奈良時代の初期から中期にかけて作歌がみとめられる宮廷歌人(生没年未詳)。『古今集』仮名序には、高く評価される赤人の代表作として、この歌が挙げられている。

 スミレはスミレ科スミレ属。和名の由来については、花を横から見ると大工道具の墨入れに似ているとの牧野富太郎が唱えた説がある。
万葉集にはスミレの歌は4首ある。


この写真の万葉歌碑は千葉県木更津市馬来田の武田川・妙泉寺下右岸畔に建てられている。
馬来田の里山の雰囲気はまだまだ万葉の頃の息吹が感じられるようだ。
山部赤人は千葉県上総山辺郡(現在の東金市と周辺)生まれであるという説があり、東金に赤人塚もある。

万葉アルバム(関東):千葉県、富津市 内裏塚 珠名冢碑

2012年05月21日 | 万葉アルバム(関東)

しなが鳥 安房に継ぎたる 梓弓
末の珠名は 胸別の 広けき我妹
腰細の すがる娘子の その姿の
きらきらしきに 花の如 笑み立てれば
珠桙の 道行き人は 己が行く
道は行かずて 呼ばなくに 門に至りぬ
さし並ぶ 隣の君は あらかじめ
己妻離れて 乞はなくに 鍵さへ奉る
人皆の かく迷へれば うちしなひ
寄りてそ妹は たはれてありける
   =巻9-1738 高橋虫麻呂=


現代語訳
 安房国につながっている末の珠名という娘は、胸が豊かでかわいい娘。すがる蜂のように腰がくびれている娘。その美しい顔で、花のように微笑んで立っていると、道行く人は行く先を忘れ、呼ばなくても門まで来てしまう。隣の家の主人は、妻を離縁し、頼みもしないのに鍵まで渡してくる。皆が血迷うものだから、娘はいいきになって遊んでばかりいる。

詞書に上総の末の珠名娘子(たまなおとめ)を詠む一首とある。
珠名娘子は「末の珠名」と歌われた須恵国の絶世の美女で、畿内にも鳴り響いたという。
須恵国(後の上総国周淮郡)は千葉県小糸川流域の現在の千葉県君津市、木更津市・富津市の一部。
妻を追い出し離婚してまで、珠名という女性に自分の家の鍵を渡して、私の所へ来てください、と男達を夢中にさせる美女がこの地方の近在に居たとは驚きである。


「珠名冢碑(たまなちょうひ)」碑文 (画像をクリックすると大きくなります)
【須恵珠名冢其迹尚実伝称珠名美而豓殆又毛施之□(欠字)也 】
須恵(すえ)の珠名(たまな)の冢(つか)は其迹(そのあと)を尚(なお)実伝(いまにつた)え
珠名(たまな)を美而豓殆(うつくしくもあやあうきほどのあでやか)で毛施(たおやかなすがた)の[娘(おとめ)?]と称(たたえ)る也(なり).....(以下略)
珠名の歌が万葉集に載っていることが記されている。嘉永四年(1851)の年とある。


富津市二間塚に存在する県下最大の前方後円墳である、内裏塚古墳は、現在では周准の国造の墳墓と考えられている。しかし、『君津郡誌』に幾つかの文献をもとに紹介されているのだが、かつては、珠名の墓と考えられていたそうだ。
その名残を示す手がかりとして、墳丘上に江戸末期に建てられた小さな「珠名冢碑(たまなちょうひ)」が残っている。

万葉歌碑マップ探訪:千葉県木更津市馬来田 うまくたの路

2012年05月14日 | 万葉歌碑マップ 探訪

(馬来田 案内図:クリックすると拡大表示します)

 馬来田と書いて「まくた」と読む。豪族馬来田国造が支配した土地で古くは「うまくた」と呼ばれていたが、明治時代に市制制度が整えられたのに伴い「馬来田(まくた)」と定められたとのこと。その後、馬来田村と隣の冨岡村が合併して富来田(ふくた)町となり更に木更津と合併して、木更津市富来田地区と馬来田地区になって、馬来田という地名はなくなってしまった。

馬来田は木更津から小櫃川に沿って上り久留里との中間にある田園地帯である。
この辺はまた「万里谷」の地でもあり武田氏が城山にある万里谷城によって戦国時代一帯を支配したことも歴史に残っている。この地の歌が万葉集に3首載っている。当時の人が筑紫の国に防人として行くため馬来田を離れる心情を歌ったもの、などである。
「馬来田」がどこの地とは定めがたく、諸説あるらしいが、上総国望陀(まうだ)郡が万葉でいう「宇麻具多」だといわれている。現在の袖ヶ浦市・木更津市を流れる小櫃川流域で、今も望陀の地名が残っている。

木更津と亀山を結ぶ久留里線のJR馬来田駅、小櫃川の支流になる武田川沿いにコスモス・ロードと名づけられた田園地帯に続く路があり、いにしえの万葉の風景を感じながら辿ると、そこここに万葉歌碑が6基点在している。


馬来田 武田川コスモスロード


1.馬来田駅前
  馬来田の 嶺ろに隠り居 かくだにも
  国の遠かば 汝が目欲りせむ (巻14-3383)作者未詳 →詳細は万葉アルバム


2.「小さな路の駅」
  旅衣 八重着重ねて 寐のれども
  なほ肌寒し 妹にしあらねば (巻20-4351) →詳細は万葉アルバム


3.武田川左岸畔
  馬来田の 嶺ろの笹葉の 露霜の
  濡れて我来なば 汝は恋ふばぞも (巻14-3382)作者未詳 →詳細は万葉アルバム


4.武田川・町原橋畔
  春の野に 霞たなびき うら悲し
  この夕影に うぐひす鳴くも (巻19-4290)大伴家持 →詳細は万葉アルバム


5.武田川・妙泉寺下右岸畔
  春の野に すみれ摘みにと 来し我ぞ
  野をなつかしみ 一夜寝にける (巻8-1424)山部赤人 →詳細は万葉アルバム


6.妙泉寺
  銀も 金も玉も 何せむに
  まされる宝 子にしかめやも (巻5-803)山上憶良 →詳細は万葉アルバム

万葉アルバム(奈良):桜井、粟原廃寺跡 ゆずりは

2012年05月12日 | 更新情報
      (写真文書を追加しました)

いにしへに 恋ふる鳥かも 弓弦葉(ゆずりは)の
御井の上より 鳴き渡り行く
   =巻2-111 弓削皇子=


 昔を懐かしむ鳥でしょうか、ユズリハの井戸の上から鳴きながら飛んで行きます。という意味。


いにしへに 恋ふらむ鳥は ほととぎす
けだしや鳴きし 我が恋ふるごと 
   =巻2-112 額田王=


 ・・・昔を恋いしがるのはホトトギス。私が恋しく思うように鳥もまた鳴いたのでしょう。という意味。

これは相聞歌で、弓削皇子が吉野から額田王に送り、額田もそれに応じた歌だとされている。
 父と同時代を生き今は老いてしまった女性に子が送った歌。当時、弓削皇子は20代、額田王は60代とも言われいる。
 ホトトギスは歌にあるように懐古の鳥、ユズリハは新芽とともに古い葉が皆落ちて「譲る」のがその名の由来になっている。
 弓弦葉の御井と呼ばれた井戸が、何処にあったのかは全く不明だそうだ。

 万葉歌碑は桜井市大字粟原の粟原寺跡(おおばらでらあと)にある。

 粟原集落の天満神社境内とその隣接地に、塔と金堂の跡が残っている。
粟原寺建立の次第を刻んだ三重塔伏鉢(国宝・談山神社蔵)の銘文によると、仲臣朝臣大嶋が草壁皇子のために建立した寺で比売朝臣額田が持続天皇8年(694)から造営を始め、和銅8年(715)に完成したことがわかっている。

 粟原寺跡にあった説明板によると、「 当地は、有名な萬葉の女流歌人・額田王の終焉の地だ」と言う伝承が遺されている。
額田王の姉といわれる鏡王女の墳墓が粟原寺の近くにあり、額田王は姉の墓をも守りながら、晩年をこの地で過ごしたのは、夫であり草壁皇子の父でもある天武天皇のゆかりの地であったからだろうか。


ゆずりは:4~5月古い葉の付け根に茶色の小花を咲かせ、春の新葉を見とどけて古い葉が散るので譲り葉と呼ばれる。円形の実は秋には藍色に熟す、政治家や企業人もかくありたい・いつまでも権威にしがみついていては若い力が育たない・目出度い植物として正月の鏡餅の飾りに使われる。雄雌異株、葉の茎が赤い特徴がある。葉の表面は光沢があり、日当たりの良い暖かい山に生える。

こちらの万葉歌碑は千葉県袖ケ浦市の袖ヶ浦公園万葉植物園に建っているもの。

万葉アルバム~樹木、まゆみ

2012年05月08日 | 更新情報
    (記事を更新しました)

南淵の 細川山に 立つ檀(まゆみ)
弓束(ゆづか)巻くまで 人に知らえじ 
   =巻7-1330 作者不詳=


南淵の細川山に立っている檀の木よ。お前を立派な弓に仕上げて弓束を巻くまでその所在を人に知られたくないものだ。という意味。

南淵は奈良県明日香村稲淵の上流、細川山は明日香東南方細川に臨む山。
「弓束巻く」とは左手で弓を握りしめる部分に桜の樹皮や革を巻きつけて握りやすくすることで、弓の仕上げの作業のことをいう。
 
檀(まゆみ)は、山林や野原などに生えている秋には赤い可愛い実をつけるニシキギ科の落葉低木。葉はその年に伸びた緑色の枝から生え,大きさは5~15cmで表面はつるつるしている。初夏に枝の前の年にできた部分から伸びた小枝に咲く。昔,この木から弓を作ったことから真弓(マユミ)という。しなやかで強い幹を弓の材にしたことによる名。

この万葉歌碑は千葉県袖ケ浦市の袖ヶ浦公園内の万葉公園に建っている。

万葉アルバム~樹木、むろのき(ネズ)

2012年05月07日 | 万葉アルバム(自然編)

鞆の浦(とものうら)の 磯のむろの木 見むごとに
相見し妹は 忘れえめやも  
   =巻3-447 大伴旅人=


 鞆の浦の磯のむろの木を見るたびに、この木を見た妻のことを忘れられないのです。という意味。

天平二年(西暦730年)十二月、大伴旅人が大宰府から都に向かう途中に通った鞆の浦で、亡くなった妻のことを想って詠んだ歌。そこには霊木とされる「むろ」の巨木があり、二人は旅の安全と長寿を願って敬虔な祈りを捧げた。旅人は60歳を越えて、若い妻を伴って大宰府に赴任させられたが、そこで長旅がたたったのか妻が逝ってしまったのである。

この句の前句では、
我妹子が 見し鞆の浦の むろの木は 常世にあれど 見し人そなき(巻3-446)
妻といっしょに見た鞆の浦の磯のむろの木は変わらないが、これを見る妻はもういない、とも歌っている。

鞆の浦は広島県福山市の海岸。
「むろの木は」、ヒノキ科ビャクシン属の針葉樹で現在のネズといわれている。「実が多くつく」すなわち「実群(みむろ)」の意からその名があるといわれている。葉は硬質。鋭く尖っており触ると痛いので、昔の人は鼠の通り穴に置いてその出没を防いだことから「ネズミサシ」、「ネズ」の別名があり、漢方ではその実を杜松子(としょうじつ)といい利尿、リュウマチに薬効があるそうだ。
「むろの木は」を詠める歌は万葉集に7首ある。

この万葉歌碑は、千葉県袖ケ浦市袖ヶ浦公園にある万葉植物園に建てられている。





万葉アルバム(関東):群馬県、板倉町中央公園 大藺草(おほゐぐさ)

2012年05月04日 | 万葉アルバム(関東)

上毛野(かみつけの) 伊奈良(いなら)の沼の 大藺草(おほゐぐさ)
よそに見しよは 今こそまされ  
   =巻14-3417 作者未詳=


 上野國(かみつけのくに)の、伊奈良(いなら)の沼の( まだ刈り取る前の) 大藺草(おほゐぐさ)と同じように、あなたのことを傍らから見ていただけの頃よりも、(お会いした)今の方がずっとずっと素敵です。という意味。

 「上毛野(かみつけの)」は群馬県。「伊奈良(いなら)の沼」は、邑楽(おうら)郡板倉町の板倉沼。
明治の頃、このあたりは伊奈良村で、今の板倉沼も伊奈良沼といわれていた。
万葉の頃には広大だった伊奈良の沼に大藺草(おほゐぐさ)(現在のい草に似たフトイ)が繁殖していた。
現在はちいさな沼にわずかにそのなごりを残している。
「よ」は上代語で、格助詞(ヨリ)と同じ。


大藺草(おほゐぐさ)は、い草に似ているが茎が太いフトイの古名。池や沼の中に大群をなして生えるカヤツリグサ科の草本。茎は長さ1.5~2mぐらいになる。夏から秋にかけて黄褐色の小穂をつけ、草たけの大きいイということから、フトイと名づけられている。太くて丸い茎は、むしろや敷物を編むのに使われたようだ。
い草はイグサ科でこれと違う。

板倉町中央公園の万葉歌碑で、板倉沼のわきに建っている。設置は平成4年。