飛鳥への旅

飛鳥万葉を軸に、
古代から近代へと時空を越えた旅をします。
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万葉アルバム(奈良):桜井、談山神社

2009年02月26日 | 万葉アルバム(奈良)

吾はもや安見児(やすみこ)得たり皆人(みなひと)の
得がてにすとふ安見児得たり
   =巻2-95 藤原鎌足=


私は今まさに、美しい安見児を娶(めと)った。世の人々が容易には得られない、美しい安見児を娶ったぞ!という意味。

内大臣・藤原鎌足が、采女(うねめ)の安見児を娶ったときに詠んだ歌。
采女というのは、天皇の食事に奉仕した女官のことで、自由の身ではない。
天智天皇から鎌足へ采女のプレゼントがあったが、普通あり得ない事だ。
鎌足が、安身児という采女を我がものにでき、
あり得ないと思っていたことが実現した時の感極まった喜びの歌だが、
大化改新を断行した怖いイメージの藤原鎌足に、こんな天真爛漫な一面もあったのだ。

談山の名の由来は、藤原鎌足と中大兄皇子が、大化元年(645年)5月に大化の改新の談合をこの多武峰で行なったことによる。談山神社の祭神は藤原鎌足である。

万葉アルバム(明日香):真神が原

2009年02月24日 | 万葉アルバム(明日香)

大口の 真神の原に 降る雪は
いたくな降りそ 家もあらなくに
   =巻8-1636 舎人娘子=


「真神」はおおかみの異名で、口が大きいことから、「大口」という枕詞がついた。もともとこのあたりは、おおかみが出没した原野だったのだろう。
飛鳥から藤原に宮が移って、真神が原あたりには家もなく、一面の野原で、
しんしんと雪が降り積もる情景を歌っている。

真神が原は飛鳥寺の南に広がる野原で、中央に飛鳥川が流れ水田が広がる。
秋には水田土手一帯に彼岸花が咲き誇る。
飛鳥京が遷都して1300年間、おそらくこの自然豊かな風景が育まれてきたのであろう。しかしこの土地には大化の改新に代表される古代抗争により幾多の血が流されてきたのも事実で、その思いにふけりこの地を歩くと、あちこちに遺跡が見られ感懐を新たにするのである。


中将姫伝説を訪ねて3:徳融寺(奈良市鳴川町)

2009年02月21日 | 中将姫伝説を訪ねて
豊成の別宅跡。中将姫はここで少女時代を過ごし、継母にいじめられたと伝わっている。


「安養寺」の前の南北に延びる道をちょっと南へ行くと、融通念仏宗豊成山高林院「徳融(とくゆう)寺」がある。本尊は阿弥陀如来立像。元は「元興寺」の別院で、本堂の左前に歌が彫られた石塔(歌碑)が建っており、これは、松永弾正久秀が1560年(永禄3年)多聞城を築く時に持ち去ろうとした石塔婆で、「高林寺」に住んでいた連歌師の心前が次の歌

 曳(ひ)き残す 花や秋咲く石の竹

を詠んで、久秀に送ったら、連歌のたしなみがあった久秀が非を悟って、石塔を持ち去らなかったという。また、境内に市指定文化財「毘沙門堂」も在る。

 「徳融寺」は奈良時代の高官、右大臣藤原朝臣豊成とその娘中将姫の旧蹟で、豊成は南家武智麻呂(むちまろ)の子で、仲麻呂の兄である。


境内の「観音堂」の裏に豊成と中将姫を祀る宝篋印(ほうきょういん)石塔が二基並んで建っている。実際の墓は別の場所に別々に存在しているが、ここでは仲良く供養塔として並んで建っている。なお、豊成公の石塔と中将姫の石塔の間にあるのが四面に仏像を浮き彫りにした鎌倉中期の四方仏石で、正面が薬師如来、そして、右回りに釈迦如来、阿弥陀如来、弥勒菩薩が彫られている。また、豊成公の墓脇の石柱には、歌舞伎「中将姫雪責(ゆきぜめ)」を公演する前ここへ詣でた片岡仁左衛門の名前が刻まれている。歌舞伎とのつながりもあるのだ。


 藤原鎌足から続く藤原四家(北家、南家、今日家、式家)の南家の右大臣藤原豊成の娘中将姫は747年 (天平19年)に生まれ、5歳の時に生みの母が亡くなった。そして、後妻に来た継母の「照夜ノ前」が悪女で、家来に命じて中将姫を崖の上から突き落としてしまった。それが写真の崖で、本堂の裏にあり、崖の上に「虚空塚」が在る。なお、突き落とされた中将姫は、常日頃の信仰の力に助けられ、太陽のごとく空中に浮かび怪我1つしなかったという。また、中将姫は継母から盗みの疑いをかけられ、雪の日に外で竹に打たれるせっかんを受けたとされる「雪責松(ゆきぜめのまつ)」の跡もある。ここは実は中将姫の受難の色を濃く残す寺なのだ。

中将姫ゆかりの寺院があるこの辺りは、江戸時代初期からあった木辻遊郭跡である。
寺院のすぐ隣にも遊女が客待ちをした格子の古民家が今もわずかに残る。
その中にいて、悲しい日々を強いられた苦界の女性たちにとって、仏の加護で救われたという中将姫像は、唯一の救いであったであろう。
その神秘性と敬虔な姫の信仰の姿が、人々の心を動かし続け今に至っている。

また「観音堂」には我が国最古の子安観音とされる子安観音像が安置されており、像は乳児を抱き上げた姿をしている。奈良町にある中将姫ゆかりの寺(誕生寺・高林寺・徳融寺・安養寺)の中では、この徳融寺が最も大きい寺院である。

万葉アルバム(奈良):宇陀、かぎろいの丘

2009年02月19日 | 万葉アルバム(奈良)

東(ひんがし)の野に炎(かぎろひ)の立つ見えて
かへり見すれば月傾きぬ
   =巻1-48 柿本人麻呂=


東の野にあけぼのの茜色が見え始め、振り返ってみると、もう月が傾きかけている、という意味。

ご来光がさす明け方の壮大な景観を歌っているが、実際の宇陀安騎野にある丘陵地は、
小高い丘に過ぎず、歌のような壮大にはとても見えない。
持統天皇の孫である軽皇子が、亡き父草壁皇子追悼の狩猟に出掛けた際、
同行した柿本人麻呂が皇子の気持ちを代弁して歌ったものだが、
11月下旬の寒く眠れない夜明けに気持ちを奮い立たせようとしたのではないかと想像される。


万葉アルバム(関東):茨城、渡良瀬川

2009年02月17日 | 万葉アルバム(関東)

麻久良我(まくらが)の許我(こが)の渡りの韓楫(からかじ)の
音高しもな寝なへ子ゆゑに
   =巻14-3555 作者未詳=


古河の渡しのから梶のように、音高く広まってしまった、まだ供寝もしてないあの娘とのことで、という意味。東歌である。

私的な解釈として、
許我にかかる枕言葉の麻久良我は、死者の枕元に添える「枕[ヶ]石」とみると、当時の古代人たちは、さながら海のようだったこの渡良瀬の川べりから、死者の亡き骸を送り出した水葬の習慣を連想させる。
許我は我らを許して、とみると、
亡くした子を水葬で船で流し、両親が我らを許してと号泣する、と解釈することもできる。

古河の雀神社から渡良瀬川の土手にあがると、立派な歌碑がある。土手からは渡良瀬遊水地から日光連山をのぞむことができる。
この歌から古河は、すでに奈良時代から渡良瀬川の渡し場として賑わっていたことが伺える。



中将姫伝説を訪ねて2:高林寺(奈良市井上町)

2009年02月14日 | 中将姫伝説を訪ねて
中将姫の父である藤原豊成の屋敷跡と伝えられている。


 誕生寺からひと筋東に融通念仏宗豊成山高坊「高林寺」がある。
元々は元興寺の一院だったが、光仁天皇の頃に中将姫に仕えて尼になった藤原魚名の娘が、中将姫の入寂後、豊成卿の廟塔を護るためにこの寺にはいり尼寺としたという。また安土・桃山時代には奈良茶人「高坊」(たかぼう)一族が住み、奈良まちの数寄者(すきしゃ)の一大群落、一大サロンを形成しており、茶室「高坊」はこの数寄者を顕彰するために建てられている。その後1810年頃(文化年間)寿保尼を迎え『今中将姫』と仰がれ中興初代として復興した。
本堂には、厨子入りの中将姫と父・藤原豊成公の坐像が安置されており、尼寺で中将姫修道霊場でもある。
毎年4月13日に中将法如尼御忌会式が催される。
門前を南北に延びる道は「上街道(上ツ道)」で、昔は初瀬詣でや、伊勢参りの人々で賑わっていたが、昭和36年奈良と桜井を結ぶ県道が出来てからは、すっかり寂れてきている。
高林寺を訪ねると住職珠慶尼が丁寧に説明と案内をしてくれた。尼寺として代々細々と寺を守ってきた気概が感じられた。


「豊成卿・中将姫父子木像」
本堂に上がると、中央須弥壇の上に並べて安置された黒い厨子の中に、豊成卿と中将姫の木彫りの坐像が拝される。
またガラス張りの箱の中に市松人形が沢山入っている。明治天皇の御局として仕えた高倉子爵の息女「紅葉の内侍」の持ち物だそうだ。祖先の中将姫を慕って、幾度か御家来の女房達を連れてこの寺に参拝されたそうだ。


「豊成卿・中将姫父子対面図」
二上山の男峰・女峰の重なっているようすは、この屋敷から眺めた二上の山だと想像できる。


本堂横に、直径2.5mの円墳があり、豊成公の墓と云われている。
中世の貴族の奥津城にこのような形式のものが見受けられる。

万葉アルバム(奈良):奈良の明日香

2009年02月12日 | 万葉アルバム(奈良)

故郷の明日香はあれど青丹よし
奈良の明日香を見らくしよしも
   =巻6-992 大伴坂上郎女=


古い飛鳥の里もよいけれど、今が盛りの奈良の明日香を見るのはすばらしいものです、という意味。

元興寺の里を詠んだ歌。「元興寺」は、蘇我馬子が建てた飛鳥の法興寺を平城京遷都後に移転した。そのため「奈良の明日香」と呼ばれた。
元興寺のある奈良町の高台にある瑜伽(ゆか)神社にこの歌碑があるが、
神社から、遠くかすかに大和三山を望むことができる。

今の奈良の都が素晴らしいと言っている裏に、昔の飛鳥の都への望郷の念がこめられているようにも思う。

万葉アルバム(関西):大阪吹田、垂水のさわらび

2009年02月10日 | 万葉アルバム(関西)



石(いは)ばしる垂水(たるみ)の上のさ蕨(わらび)の
萌え出づる春になりにけるかも
   =巻8-1418 志貴皇子=


岩の上を勢いよく流れる滝のほとりに、わらびがやわらかに芽吹いている。ああ、春になったのだなあ、という意味。

天智天皇の皇子である志貴皇子の代表作のひとつ。
自分は天皇になれずに、いつも日陰の存在だったが、
自分の子が光仁天皇になったという喜び、
その時に歌ったかどうかわからないが、じっと耐えてきた気持ちが出ている。

ワラビ

中将姫伝説を訪ねて1:誕生寺(奈良市三棟町)

2009年02月07日 | 中将姫伝説を訪ねて
藤原豊成の邸跡とされ、ここで藤原豊成の息女中将姫が生まれたと伝えられている。


奈良県奈良市の市街地南に町屋が広がる一帯があり、通称「奈良町」。元々は奈良の都・平城京の外京として多くの社寺が置かれ、東大寺の門前町として広がり、江戸時代には元興寺を中心とした商業都市に発展した。「浄土宗異香山法如院誕生寺」は、中将姫が生まれた藤原豊成の邸跡とされる場所に建ち、「誕生寺」と呼ばれている。また中将姫とその両親藤原豊成卿、紫の前の三人の御殿が三つ並んでいたところから、「三棟殿」とも呼ばれており現在の町名になっている。元興寺がこの地一帯を境内としていた頃は、「誕生殿」とも呼ばれていた。門の中に入り玄関の呼び鈴を鳴らし参拝を乞うと、しばらくして留守居のおばさんが現れ、案内してくれた。


本殿には姫自作の本尊「中将姫法如尼坐像」が安置されていた。きりっとした凛々しいお顔である。
脇には、阿弥陀如来厨子があり、両扉に豊成公と中将姫とみられる人物が描かれていた。浄土曼荼羅を彫刻にしたような精細なもの。


脇の展示棚に小さな蓮糸釈迦三尊があり、法如作と記されていた。
中将姫がを織ったという伝説に沿った遺物であり、当麻寺に伝説の大きな蓮糸曼荼羅が保存されているが、これと同系統のものが、ここにも保存されていたのは、今回初めて知ることができた。
法如作と記されているが、おそらくは後世のものだが、蓮糸で織ったという伝説を代々大切に伝えてきた信仰の深さがうかがえる。


裏庭に中将姫誕生の際、産湯を使う水を汲まれたという井戸が残っている。
これを見ると、伝説の中将姫が、現実味を帯びてきたように感じる。


庭の「娑婆堂」(写真左)から「極楽堂」(写真にのってないが右手)へ中将姫を浄土へと導いた二十五菩薩像が立ち並んでいる。江戸期の作だそうだ。
当麻寺のお会式のお練りを連想する情景だが、お練りは大人が大きなお面をかぶって参列されるので等身大より大きい感じの菩薩たちだが、ここは小さな石仏だけに可愛らしい二十五菩薩の像である。
このような両堂と二十五菩薩像を配置しているのは、この寺だけだと思われる。


二十五菩薩像の中に、この愛らしい石像の姿を見つけた。

 中将姫伝説のおおよそを以下に略す。
743年(天平15年)8月18日に生まれた中将姫は、「誕生寺」の井戸で産湯を使ったといわれている。なお、中将姫は才能が世に知られ、9歳の時、女帝孝謙天皇から三位中将の位を賜ったが、16歳の時に継母によって宇陀市菟田野の雲雀山(青蓮寺)へ捨てられ、後に狩りに来た父豊成と再会して帰宅する。 中将姫は、766年(天平神護2年)24歳で世の無常を悟り、当麻寺で出家剃髪して、名を法如比丘尼と称し、蓮の糸で当麻曼陀羅を織り上げ、771年(宝亀2年)3月14日29歳で往生した。

万葉アルバム(関東):市川、手児奈霊堂

2009年02月06日 | 万葉アルバム(関東)

勝鹿(かつしか)の真間(まま)の井を見れば立ち平(なら)し
水汲ましけむ手児奈(てごな)し思ほゆ
   =巻9-1808 高橋虫麻呂=


勝鹿の真間の井戸を見ると、地面が平らになるほど何度も行き来して、
水を汲んでいただろう手児奈のことが思われる、という意味。

「勝鹿」は葛飾、埼玉県・東京都東部・千葉県西北部にわたる江戸川流域。
貧しい手児奈は粗末な衣服で労働に明け暮れていたが、絶世の美女だった。
そのため大勢の男性に求愛されたが、彼女は、それを拒んで自殺した、という伝説を歌ったもの。

市川に手児奈を祀る手児奈霊堂があり、近くに真間の井がある。
万葉時代に既にあった伝説に出てくる娘を、その後、綿々と実際に祀ってきたという、伝説が生活風習に根付いているという確かな一例である。

この万葉歌碑は手児奈霊堂境内に建てられているものである。


万葉アルバム(奈良):吉野、夢のわだ

2009年02月04日 | 万葉アルバム(奈良)

わが行きは久(ひさ)にはあらじ夢のわだ
瀬にはならずて淵(ふち)にあらぬかも
   =巻3-335 大伴旅人=


 私の大宰府の赴任暮らしも、もう長くはないだろう。吉野の夢のわだは、瀬に変ることなく、帰ってきたときも淵であってほしいものだ、という意味。
旅人は、728年に大宰帥(だざいのそち)に任命され筑紫に赴任したが、
奈良の都を愛してやまない旅人にとっては本意ではなく、また、60歳を過ぎた身には過酷でもあった。
大宰府に赴任する直前に、吉野のことを懐かしんで詠んだ歌。

私が「万葉の大和路を歩く会」に参加した時(1987年7月)の吉野川夢のわだ休憩の際の写真に、
万葉学者犬養孝さんと清原和義さんの元気な姿が見られる。
犬養先生には何回か同行させてもらい、独特のふしで万葉歌を朗詠するのを、
間近で接することができたのは、今となっては貴重な体験であった。



万葉アルバム(中部):長野、園原の里

2009年02月03日 | 万葉アルバム(中部)

ちはやふる神の御坂(みさか)に幣(ぬさ)奉(まつ)り
斎(いは)ふ命は母父(おもちち)がため
   =巻20-4402 防人の歌=


 神の御坂に幣をささげ、わが命の無事を祈るのも、父母のためです、という意味。
防人として九州に出向く信濃国の若者が、神坂峠を越えていくときに歌ったもの。峠を越えて西国に行くことは、当時としては決死の覚悟であった。
峠神に幣をささげて身の安全と無事帰還を祈ったのは、故郷に待っている父母のためであるというのは、現代の若者にはみられない万葉びとの強い家族愛を感じる。

万葉アルバム(中部):高岡、桃の花

2009年02月01日 | 万葉アルバム(中部)

春の苑(その)紅にほふ桃の花
下照る道に出で立つ少女(をとめ)
   =巻19-4139 大伴家持=


春の園は紅色に照り輝いている。その桃の花の木陰までも輝いている道に、つと立っている少女の、なんと美しいこと!、という意味。

この歌は「にほふ」が効果的で、「にほふ」は”みずみずしい盛り”を暗示している。桃の花のみずみずしさと、少女の初々しさの両方にかけている。


題詞に、天平勝宝2年3月1日の夕暮れに、春の庭の桃と李の花を眺めて作った歌とある。
少女は、前年に越中に下向してきた家持の妻・坂上大嬢(さかのうへのおほいらつめ)を指しているようだ。それまで四年近く越中国府(現在の高岡)として単身赴任であったが、
やっと正妻が来た嬉しさをすなおに読んだ歌である。

家持は越中に来てからの四年間、寂しさや辛さをバネにしたおかげで、すばらしい万葉歌を多く作った。
高岡の万葉山光暁寺に、この歌碑が立っている。

逆境なくしては、名歌が生れなかったという、まさに人生のお手本であろう。