飛鳥への旅

飛鳥万葉を軸に、
古代から近代へと時空を越えた旅をします。
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1987年9月 飛鳥 真神が原から大原へ

2010年05月31日 | 思い出の大和路探訪
 初秋の飛鳥をレンタサイクルで散策した。この時は親子3人で。
残暑がまだまだ厳しかったが、夕方大原からの帰り道はすがすがしかったのを覚えている。

コース:高松塚古墳・・・下平田・・・真神が原・・・祝戸・・・島の宮・・・大原



高松塚古墳  古墳の周辺が徐々に整備されつつあった


下平田、鬼の俎の手前、多武峰を望む


亀石付近から飛鳥駅方面を望む


真神が原


明日香民俗資料館


酒船石




祝戸付近 玉藻橋からの飛鳥川


島庄遺跡の発掘現場


勾の池跡


大原 大伴夫人の墓付近より飛鳥坐神社を望む


大原 大伴夫人の墓


万葉歌碑  →万葉アルバム


藤原鎌足誕生地


大原の里より甘橿丘方面

万葉アルバム~草、たけ

2010年05月27日 | 万葉アルバム(自然編)

我がやどの いささ群竹(むらたけ) 吹く風の
音のかそけき この夕(ゆうべ)かも  
   =巻19-4291 大伴家持=


 わが家の庭の清らかな笹竹に吹く風の音がかすかに聞こえる、この夕暮れよ。という意味。

「いささ」は、いささかの、わずかな。「音のかそけき」は、吹き過ぎて行く風の音の薄れゆくこと、かすかになってゆくこと。

音がかすかに聞こえその後遠ざかってゆく、そこに静寂がある。かすかな音を歌ったというより、静寂そのものを歌ったともいえる。

 天平勝宝5年(753年)2月、家持はこの2年前に少納言に任ぜられ、越中から帰京した。しかし、政治の実権は藤原仲麻呂に握られ、家持の不満は日増しに募るばかりであり、ここの歌はそうした時期に詠まれたものである。

 タケはイネ科。米や麦と竹が親戚とはどうも理解できないが、植物学上ではそうなっているのである。

『万葉集』には「たけ」は十八首詠まれている。

この万葉歌碑は名古屋の東山植物園の万葉の散歩道にあるもの(2010/12/24写す)。

1987年9月 太子道

2010年05月24日 | 思い出の大和路探訪
 斑鳩と飛鳥を結ぶ一筋の道、太子道と推定されているもののひとつである。
これは飛鳥時代に聖徳太子が斑鳩の宮から飛鳥京へと黒駒に乗って通ったと伝えられている道である。両地点を結ぶ最短距離の道で、「筋違道」(すじかいみち)ともいわれ、その時は太子通勤の道であり、同時に庶民の生活の道でもあった。
太子道は全長24キロの道のりで、騎乗(馬の歩速は7~8キロ)で3時間といったところ。
 太子道の沿道には、昔の面影をとどめ伝承を秘めた地が多く見られる。ところが最近の宅地開発のため歴史的風土の景観が損なわれ古道も埋もれて破壊されつつあるようだ。

 私はこの年、「太子道を往く」(岡本精一著)の本を携え、この太子道を探訪した。
斑鳩・法隆寺をスタートし、飛鳥・橿原神宮前まで踏破した記録である。


法隆寺 五重塔と中門


南大門より右手、太子道スタート


東院伽藍の土塀 左手:四脚門


駒塚 太子の愛馬黒駒を葬った塚
聖徳太子が斑鳩から飛鳥に通う時には、甲斐の黒駒に跨りお供に調子丸を伴われたと言われている。


成福寺へ通じる古道


成福寺古道わきの石仏


成福寺門前の碑(左)、成福寺(右)
成福寺は太子ゆかりの寺、太子と最愛の妃であった膳部夫人が住んでいたという「葦垣宮」の宮跡、太子がここで死んだとも言われている。


東安堵の広嶺神社(飽波神社跡)(左)、広嶺神社付近の筋違道(太子道)(右)
飽波神社も聖徳太子の飽波宮の伝承を伝えている。


大和川にかかる馬場尻橋 後方に二上山、葛城山系がみえる


額田野風景 額安寺付近、額田王はこの地の出身といわれる


額安寺(左) この寺の前身が太子建立の熊疑(くまごり)精舎
額田部の推古神社(右) 推古天皇の幼名が額田部皇女であるため


島の山古墳
島の山古墳は、伝説では蘇我入鹿の墓だともいわれているのだそうだ。
全長190mの大きな前方後円墳である。


三宅町屏風 白山神社(左)前の太子道


白山神社にある腰掛石  聖徳太子が駒を止めて休んだという伝承がある


屏風 杵築神社


三宅町伴堂(ともんどう)の太子道


杵築神社わきにつづく太子道


伴堂 杵築神社


伴堂の道


太子道わきの地蔵(融観寺)


三宅町黒田


黒田の法楽寺 太子創建という
盛時には、25坊を数える壮大な伽藍であったようだが、幾度かの戦火に遭ったことで、今は小さな本堂を残すだけとなっている。


三宅の原よりの展望 竜王山、三輪山


保津の環濠集落
保津は、環濠集落の名残をとどめており、村全体を濠が取り囲んでいる。濠は本来もっと広く作られていて内と外を繋ぐ門は保津では2ヶ所程度しかなく、木戸と呼ばれていた。
案内板によると明治中期までは、門番が置かれて引き橋が架けられていたようである。


百済野風景、百済寺遠望


百済寺三重塔


山部赤人の万葉歌碑  →万葉アルバム


農振橋からの飛鳥川、飛鳥方面を望む


田原本町秦庄 秦楽寺(じんらくじ)(左)
秦楽寺本堂(右)
<奏楽寺の池の七つの不思議>「一、阿字池はいずれの方向から見ても地形の全部が見られず、ひとすみだけは見えないということです。二、阿字池は百日の干ばつでも、水が絶えてかれたことがないそうです。・・」


田原本町 多(おお)神社
神社周辺は、太安万侶で有名な古代の氏族多氏の本拠地であった。


田原本町 屋就(やつぎ)神社(矢継の森)
<矢継の森の伝承>「むかし聖徳太子が、どこか自分の住むのに適した所はないものかとおおせられて、南から西北の方向を向き、「あの方面がよいように思われるので、これから矢を射るから、わたしはその落ちたところに行こう」と申されました。そして矢を放たれると今の矢継ぎの森に落ちました。
そこで家来がその事を申し上げますと、太子はまだ距離が近いからとおおせられて、再び矢を放たれると、現在の法隆寺のところに落ちました。いよいよこれでよいとて、永住の地と定められました。」


橿原市地黄町 人丸神社(左)柿本人麻呂の万葉歌碑(右) →万葉アルバム


橿原市小綱(しょうこ)町 入鹿神社


橿原市今井町 蘇武橋 太子が斑鳩から飛鳥へ通ったときこの橋を渡ったという
蘇武橋からの飛鳥川の流れ 後方、畝傍山


終着 橿原神宮駅

万葉アルバム(奈良):吉野、近鉄吉野駅前

2010年05月20日 | 万葉アルバム(奈良)

よき人の よしとよく見て よしと言ひし
吉野よく見よ よき人よく見
   =巻1-27 天武天皇=


 昔のよい人がよい所だとよく見て、よいと言った吉野をよく見なさい。よい人よ、よく見なさい。という意味。

天武天皇にとっては吉野は壬申の乱(672)の兵を挙げ、この戦に勝利して天武朝の基礎を築く出発地となった神聖な場所であった。

 天武天皇が自分の後を継ぐ人たちに自分の思いを伝えた歌である。
壬申の乱から7年後、天武8年(679)に吉野行幸をした天武天皇は、5月5日にこの歌を作り、翌6日には吉野宮において6人の天皇ゆかりの皇子たちに、天皇と皇后に忠誠を誓う「六皇子の盟約」が行われた。
壬申の乱の旗揚げの地である吉野を選んで「この地をよく見よ」と言い、そして「あの戦乱のことを忘れるな」と釘を刺し、さらに「吉野こそが我が皇統発祥の聖地である」と皇子たちに教えた。天武天皇にとって壬申の乱は、自分の運命を変えた戦であり、戦への気概を養ったのが吉野であるとの強い思いが、この歌に現れている。
しかし何とリズムカルな軽妙な歌であろうか。天武天皇が酒席の宴か観劇の場で強い思いを間接的に伝えたと見たほうがよいと思う。

歌の歌碑は近鉄吉野駅前の広場の一角に建っている。ここは吉野山へ向かう人達が出発する場所である。

万葉アルバム(奈良):桜井、春日神社

2010年05月17日 | 万葉アルバム(奈良)

家ならば 妹が手まかむ 草枕
旅に臥(こ)やせる この旅人あはれ
   =巻3-415 聖徳太子=


 家にいたならば、妻の手枕で休むことができたろうに…、旅に出て倒れてしまっているこの旅人の何と哀れなことか。という意味。

『日本書紀』に、聖徳太子が道に倒れている旅人に食物と衣を与えたという説話があり、「しなてる 片岡山に 飯に飢て 臥やせる その旅人あはれ 親なしに 汝生りけめや さす竹の 君はやなき 飯に飢て 臥やせる その旅人あはれ」の歌が載せられている。

聖徳太子は605年に斑鳩宮に遷るまで住んでいた宮が上宮(かみつみや)という場所にあったため上宮皇子とも呼ばれている。桜井市上之宮(うえのみや)近くの、寺川を見下ろす台地で飛鳥時代の住居跡が発見され、上之宮遺跡と名付けられた。ここは聖徳太子が斑鳩宮に遷るまで居所とされた上宮(かみつみや)の跡とされている。
発掘された居館跡は、住宅の中に「上之宮庭園遺跡」としてその後史跡として整備されている。

 歌碑がある上之宮春日神社は上之宮遺跡の程近くにある。ここも聖徳太子の何らかのゆかりの神社なのであろうが、詳しいことはわからない。

1987年9月 高円・田原の里

2010年05月13日 | 思い出の大和路探訪
 <1987年9月:万葉の大和路を歩く会「み魂しずまる高円・田原の里」>

奈良盆地の東方約6km、標高390mほどの山間部にある田原(たわら)と呼ばれる地域には、志貴皇子の墓である田原西陵や、その子の光仁天皇の田原東陵がある。また高円(たかまど)山の西麓に建つ白毫寺(びゃくごうじ)は、志貴皇子の山荘跡を寺としたものと伝えられている。志貴皇子ゆかりの地が今回の中心である。

 コース:近鉄奈良駅=田原・志貴皇子墓-光仁天皇田原東陵-太安麻呂墓-柳生街道・峠の茶屋-滝坂道-白毫寺-近鉄奈良駅
講師:武庫川女子大学教授 清原和義氏


春日宮天皇田原西陵:志貴皇子の墓
志貴皇子は天智天皇の皇子で光仁天皇の父であり、万葉の歌人としても名高い。
 「石走る垂水の上のさわらびの萌え出ずる春になりにけるかも」(巻8─1422)
壬申の乱後の天武朝に天智の皇子が生きるのはむずかしく、まして母が采女であったことも肩身が狭かったろう。しかしこのことが志貴皇子により透明な世界と、身の安全をもたらした。


春日宮天皇田原西陵:志貴皇子の墓


光仁天皇田原東陵:志貴皇子のむすこ
田原西陵から東に約2キロの光仁天皇田原東陵
宝亀元(770)年、称徳天皇は後継者を指名せずに没し、壬申の乱以来続いた天武天皇の皇統は絶え、天智系が復活した。それが志貴皇子の息子、つまり、天智天皇の孫にあたる白壁王=光仁天皇であった。


田原の里は稲刈りの真っ只中だった




太安万呂の墓(S54発見)
太安万侶の墓誌が出土した場所は田原西陵の近くである。


太安万呂の墓の茶畑からの展望 奈良時代の貴族の奥津城であった田原の里風景


太安万呂の墓
太安万呂の墓誌が発見されたのは1979年1月22日。高松塚の壁画発見も大ニュースだったが、この墓誌発見もそれに劣らぬ価値のあるものだった。太安万呂は『古事記』の編者として知られているが、この墓誌発見によって、彼の実在が証明され、安万呂の没年を養老7年(723)7月7日と記した『続日本紀』の信憑性も確かめられたのである。墓誌に書かれていたのは、「左京四条四坊従四位下勲五等太朝臣安万呂以癸亥年七月六日卒之養老七年十二月十五日乙巳」の41文字。伝承が出土品によって証明された幸福な例である。


太安万呂の墓の茶畑のコスモス


柳生街道を峠の茶屋を目指して歩く


峠の茶屋(柳生街道から滝坂道への分岐点)
創業してから約180年という古い茶店だが、老夫婦二人で作られる草餅はヨモギの香りも高く、なかなかに美味。


柳生街道・滝坂道へ入る


春日山石窟仏
滝坂の道が奈良奥山ドライブウェイと交わる少し手前にあり、石切峠にさしかかる坂の左手になるため、石切峠の穴仏とも呼ばれている。


柳生街道の道標と石だたみ
この道は滝坂道と呼ばれ、江戸中期に奈良奉行により敷かれた石畳の道は、昭和の初めまで柳生方面から奈良へ米や薪炭を牛馬の背につけて下り、日用品を積んで帰っていくのに使われたという。


切られ地蔵
荒木又右右衛門がためし斬りしたと伝えられる首切り地蔵


白毫寺
高円山のふもとにあり、境内からの展望は大変すぐれている。雲亀元年(715)志貴皇子の没後、その地を寺としたのに始まると伝えられ、鎌倉時代に再興された。とくに道照が中国から宋版一切経の摺本を持ち帰ってからは一切経寺とも呼ばれ、庶民信仰の場として栄えた。現在は本堂と御影堂などが残っている。


白毫寺は萩の名所でもある
石段の参道両側には萩がビッシリと植えられている。


白毫寺本堂


五色椿
境内には天然記念物の五色椿が植えられており、奈良三名椿の一つとして有名である。


志貴挽歌(笠金村)の歌碑 高円山を望む   →万葉アルバム
境内広場の南側の片隅に「万葉歌碑」が建てられている。
歌碑には『高円(たかまど)の野辺の秋萩いたずらに 咲きか散るらむ見る人無しに』と刻まれている。この歌は、霊亀元年(715年)9月、志貴皇子が亡くなったときに笠金村が詠んだとされる歌で、萩をこよなく愛でたといわれる志貴皇子の心情がよくでている。


講師:清原和義氏の説明風景


左:三笠山、右:高円山
白毫寺をあとにして、奈良行きのバス停付近より。

万葉アルバム(奈良):桜井、長谷寺

2010年05月10日 | 万葉アルバム(奈良)

こもりくの 泊瀬(はつせ)の山は 色づきぬ
しぐれの雨は 降りにけらしも
   =巻8-1593 大伴坂上郎女=


 こもりくの泊瀬の山は色づいた。時雨の雨が降ったのだろう。という意味。

大伴坂上郎女が、竹田の庄で作った歌。竹田の庄は、坂上郎女が現在の奈良県橿原市東竹田町に所有していた田荘で、かなたに望む泊瀬の山が紅葉しているのを見て、「泊瀬では、きっと時雨が降ったのだろう」と思いをめぐらせている。時雨の雨を予測することは田荘の農作業に大切であり、この田荘を所有している大伴坂上郎女の気配りでもあるようだ。

この歌碑は長谷寺納経堂前にある。犬養孝先生の揮毫。
隠国(こもりく)は、初瀬(泊瀬・はつせ)にかかる枕詞で、奥深い山間に隠れた地のことで、万葉の時代も歌に詠まれていた。
こもりくの初瀬の地には長谷寺があり、「初瀬寺・泊瀬寺・豊山寺」とも呼ばれてきた。長谷寺は真言宗豊山派の総本山。朱鳥元年(686)、道明上人が天武天皇のために千仏多宝仏塔を安置されたのが始まり。その後、神亀4年(727)に徳道上人は聖武天皇の勅願により、本堂に本尊の十一面観音菩薩をお祀りして依頼、全国の観音信仰の聖地になった。平安時代の王族・貴族からも「長谷詣で」といわれて手厚い信仰を受けていた。

 長谷寺はまた一名「花の御寺」と呼ばれ四季折々花々で彩られるので名高い。桜・ボタン・シャクナゲ・秋の紅葉・・・などなど。

万葉アルバム(関東):府中、郷土の森博物館

2010年05月06日 | 万葉アルバム(関東)

赤駒を 山野(やまぬ)に放(はが)し 捕(と)りかにて 
多摩の横山 徒歩(かし)ゆか遣(や)らむ
   =巻20-4417 武蔵の国の防人の妻=


 乗っていくはずの赤駒が山野に逃げてしまってつかまえられないから、夫は多摩の横山を歩いて越えなければならないのだろうか。という意味。

防人として遠く九州に旅立つ夫を気遣った歌である。山野=やまぬ といった方言が使われている。

府中市の郷土の森博物館の一角に歌碑がある。歌碑のあたりからかすかに多摩の横山(多摩丘陵)が望めるようだ。
武蔵の防人らはまず武蔵の国府だった府中の地に集合し、多摩川を渡り、目の前に横たわる多摩の横山を越え、さらに足柄を越えて、難波まで歩いて行ったと考えられている。便利な現代では考えられない苦しい生還の困難な旅であった。

 今は赤駒ならぬサラブレッドがここ府中の近くにある競馬場(東京競馬場)で疾走している。万葉の赤駒の地に現代によみがえる駒の姿が重なる。

1987年8月 飛鳥の夏 小墾田から軽の里へ

2010年05月03日 | 思い出の大和路探訪
 真夏の飛鳥は観光シーズンでないので観光客も少なく、のんびりゆっくりと見て回ることができる。真夏ならではの景観に出会うことができるのである。

コース:飛鳥駅・・・下平田・・・菖蒲池古墳・・・橘寺・・・川原・・・真神が原・・・甘橿丘・・・豊浦寺・・・雷付近・・・小墾田・・・軽の里・・・橿原神宮前駅


欽明天皇陵


下平田、鬼の俎の手前、多武峰を望む


菖蒲池古墳


橘寺太子殿


太子殿




橘寺観音堂




川原寺跡と細川山


川原八幡宮


川原八幡宮


飛鳥川(後方:島ノ庄、細川山)


みろく石


和田池と畝傍山(甘橿丘より)


飛鳥坐神社と飛鳥寺(甘橿丘より)


豊浦寺




雷付近の飛鳥川(うしろ甘橿丘)


雷付近の発掘現場




古宮土壇


小墾田宮伝承地


剣池


剣池の万葉歌碑  →万葉アルバムへ


軽の里付近


応神天皇軽島豊明宮跡   →万葉アルバム


軽寺跡