飛鳥への旅

飛鳥万葉を軸に、
古代から近代へと時空を越えた旅をします。
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万葉アルバム(奈良):天理、山辺御県坐神社

2012年07月30日 | 万葉アルバム(奈良)

飛ぶ鳥の 明日香の里を 置きて去なば
君があたりは 見えずかもあらむ 
   =巻1-78 元明天皇=


 飛ぶ鳥の、明日香の古い京を後にして行ってしまったら、 あなたのあたりは見えなくなりはしないだろうか。という意味。

万葉集の題詞によると、和銅3年に藤原宮から奈良の都に遷都する時に、元明天皇が御輿(みこし)を長屋の原に停めて、古里を望んで詠んだ歌とされている。
君が辺りの「君」とはすなわち、亡き夫、草壁皇子。刃折れ、矢尽きて藤原京を出発せざるを得ない元明女帝の、愛する夫の墓陵がある明日香を振り返り、歌った。
長屋の原は藤原京と平城京の中ツ道の中間に当たる、現在の天理市西井戸堂(いどんど)あたりと考えられている。

一方、この歌は元明の姉である持統天皇の歌とし、飛鳥京から藤原京への遷都の際、我が子・草壁皇子を偲んだとされる説もある。
  →万葉アルバムへ

この万葉歌碑は天理市西井戸堂町大門にある山辺御県坐神社(やまべのみあがたにいますじんじゃ)に立っている。
この神社は中つ道の藤原京と平城京の中間に位置する。中つ道は、藤原京から平城京への遷都の道だとされている。
このあたりからは山の辺の道沿いの山々が一望でき、南方に三輪山を望める。その先の大和三山は現在は住宅地に遮られ望めないようだが、万葉当時は大和三山と藤原京が遙かかなたに望むことができたのであろう。

万葉アルバム(関東):千葉県、木更津市馬来田 武田川・町原橋畔

2012年07月23日 | 万葉アルバム(関東)

春の野に 霞たなびき うら悲し
この夕影に うぐひす鳴くも
   =巻19-4290 大伴家持=


春の野に霞がたなびいて(このように季節は春の盛りを迎えたというのに)私は切なさで胸がいっぱいになる、この夕暮れの光の中に、鶯が鳴いているのを聞くと。という意味。

「うら」は心、「夕かげ」は夕方の淡い光の意味。

天平勝宝5年2月23日の有名な歌。
家持はこの2年前に少納言に任ぜられ、越中から帰京しているが、政治の実権は藤原仲麻呂に握られ、家持には大伴家の没落をひしひしと感じる時期にあたる。
この歌は家持自身の心の反映なのだろう。大伴家の没落、それを再興しようと試みるが、巨大な政治の渦の中でもがき苦しんでいるように思う。

馬来田と大伴家持の関係、実は・・・
壬申の乱で大友皇子は自殺したとされるが、実は房総上総に逃げ延びたという伝説あるのだ。
市原の飯給に関係した神社があるし、隣の君津市の小櫃の白山神社とかお腹川がありその川で切腹したとか、木更津市の富岡地区に12所神社があり、つき添いの后12人の伝説を持っている。その中の1つに、「大伴馬来田」という武将がいたといわれ、上総に逃げ延び上陸したとして、馬来田の名の起こりになっているようだ。
大伴馬来田の兄に大伴長徳がおり、その曾孫が大伴家持なのである。

この写真の万葉歌碑は木更津市馬来田の武田川・町原橋畔に建てられている。
馬来田の里山の雰囲気はまだまだ万葉の頃の息吹が感じられるようだ。

万葉アルバム(関東):茨城、つくばテクノパーク大穂 我が面の・・・

2012年07月21日 | 万葉アルバム(関東)

我(あ)が面(もて)の 忘れもしだは 筑波嶺を
振り放(さ)け見つつ 妹(いも)は偲(しぬ)はね
    =巻20-4367 占部子龍(うらべのをたつ)=


 妻よ、私の顔を忘れてしまったら、筑波山を見て私を偲んでおくれ。という意味。

占部子龍、占部という氏姓から、卜占(占い)を業とした部民と考えられる。天平勝宝7歳(755年)2月、防人として筑紫に派遣される。

「忘れもしだ」、「忘れも」は「忘れむ」の東国形。「しだ」は時。「偲(しぬ)はね」、「偲(しぬ)ふ」は「偲(しの)ふ」の訛り。「ね」は希求。(新潮日本古典集成万葉集より)


この万葉歌碑は茨城県つくば市のつくばテクノパーク大穂にある。
広い工業団地の中に万葉集20基、風土記の歌2基、古今和歌集3基、他に2基の、計27基の歌碑が点在している。
この歌碑はつくばテクノパーク大穂のセンター道路の工業団地脇に建てられている。

万葉アルバム(関東):群馬県、板倉雷電神社弁天社 伊奈良の沼

2012年07月18日 | 万葉アルバム(関東)

上毛野(かみつけの) 伊奈良(いなら)の沼の 大藺草(おほゐぐさ)
よそに見しよは 今こそまされ  
   =巻14-3417 作者未詳=


 上野國(かみつけのくに)の、伊奈良(いなら)の沼の( まだ刈り取る前の) 大藺草(おほゐぐさ)と同じように、あなたのことを傍らから見ていただけの頃よりも、(お会いした)今の方がずっとずっと素敵です。という意味。

 →この歌は同じ板倉町中央公園にも別の歌碑が建っており、歌の詳細はこちらの万葉アルバム

 板倉町中央公園の雷電沼のほとりに白龍弁財天がある。
この万葉歌碑は白龍弁財天のわきに建っている。この弁財天は隣接する雷電神社の摂社だろう。
歌碑の前に松の木が生い茂って、歌碑の存在をあやうく見失ってしまうところだった。

 雷神碑<写真クリック拡大>
 この歌碑は雷神碑と記され雷電神社の由緒を書いた碑である。
それには、聖徳太子が建てさせたもので・・・から始まり由来が書かれ、終わりに、この伊奈良(いなら)の沼は昔の風情を残し、国歌に詠われたとあり、万葉集の「上毛野(かみつけの)伊奈良(いなら)の沼の・・」が刻まれている。嘉永元年(1848)建立とある。(左3列に万葉仮名の万葉歌と建立年が記されている)

 雷電沼
 雷電沼は、かつての伊奈良沼かとも考えられる。
 昔、この沼からは龍駒・龍馬が飛び出したとも、あるいは龍が棲むとも伝えられ、日照りのときに雨乞いを行い、参拝者が身を清める沼でもあった。

 板倉雷電神社
板倉雷電神社は、関東に多い雷電神社の総本宮だそうだ。聖徳太子が天の神の声を聞いて、伊奈良(いなら)の沼に浮かぶ小島に祠(ほこら)を設け、天の神をお祀(まつ)りしたのが最初とされている。

万葉アルバム(関東):千葉県、木更津市馬来田 妙泉寺

2012年07月16日 | 万葉アルバム(関東)

銀(しろかね)も 金(くがね)も玉も 何せむに
まされる宝 子にしかめやも
   =巻5-803 山上憶良=


銀も金も玉もなんの役に立とう。優れた宝も、子供に及ぶことなどあろうか。という意味。

小学校の教科書にも取り上げられている有名な万葉歌である。

山上憶良は42歳で遣唐少録として渡唐して、帰国後は、伯耆守、東宮侍講(聖武天皇の教育係)などを経て、60代半ば過ぎに筑前守となり、現地で大伴旅人らと交流した。
儒教や仏教の教養が深く、また、漢詩文の素養もあり、その和歌に大きく影響している。家族愛を隣人愛・人間愛に押し広げ、「貧窮問答歌」に代表されるように、人生の暗黒面・苦悩を多く取り上げ、修辞技巧を凝らさず率直に表現した。
山上憶良は『万葉集』に長歌十首、短歌六十一首(うち反歌二十首)、旋頭歌一首、漢詩文数編を残している。

 この写真の万葉歌碑は木更津市馬来田の妙泉寺に建てられている。


妙泉寺
 妙泉寺は曹洞宗の寺で、甲斐武田氏の一族がこの地を治める為に真里谷城を築いたが、その武田一族の菩提寺であったようだ。
妙泉寺とこの歌の関連を調べていたら次のようなことがわかった。
第二次世界大戦時、昭和19年に本土空襲の危険が高まり学童疎開が始まった。東京の小学校も学童疎開が始まり、千葉県各地にも多くみられたという。
ここ妙泉寺(馬来田村真里谷)に東京市本所区の日進国民学校から3年男子33人、女子20人、5年男子22人、女子21人の計96名が学童疎開していた。
戦時をふまえてお寺と学童とのつながりがあったのである。

万葉アルバム~樹木、ほほがし(朴=ホオ)

2012年07月11日 | 万葉アルバム(自然編)

我が背子が 捧げて持てる ほほがしは
あたかも似るか 青き蓋(きぬがさ)  
   =巻19-4204 僧恵行=


 あなたが捧げて持っておられるほおの木の葉は、まことにそっくりですね、青いきぬがさに。という意味。

蓋(きぬがさ)は高貴な人の後ろからさしかける傘を意味する。
天平勝宝二年(750)四月、越中守大伴家持と宴に同席した際の作。「我が背子」は家持を指すとみられる。家持がホホガシワの葉を盃にして持ったのが、衣笠を貴人に差しかける様を連想させ詠った。

僧恵行は、左注によればこの時「講師を務めていた。当時の「講師」は、おもに東大寺関係の僧侶で、華厳経など特定の経典の講義のため任命された僧官のことをいう。

「ほほがし」は朴(ほお)の古名。モクレン科モクレン属の落葉高木の「朴(ほお)の木」で、山に生え、大きいものでは20メートルを超える。5~6月頃に大きな白い花を咲かせる。
昔から、この葉を食べ物を包むのに使ってきており、万葉集では花ではなく、「ほほがしは」として葉を詠んでいる。枝のてっぺんに、丸く密につく大きな葉を傘に例えたのだという。

この万葉歌碑は千葉県袖ヶ浦市の袖ヶ浦公園万葉植物園に建っているものである。

万葉アルバム(関東):埼玉県、行田市 小埼沼

2012年07月09日 | 万葉アルバム(関東)

埼玉の 小埼の沼に 鴨ぞ翼(はね)霧(き)る
おのが尾に 降り置ける霜を 掃(はら)ふとにあらし
   =巻9-1744 高橋虫麻呂=
埼玉(さきたま)の 津(つ)に居(を)る船の 風をいたみ
綱は絶ゆとも 言(こと)な絶えそね  
   =巻14-3380 作者未詳=


<歌の意味>
(巻9-1744)
埼玉の小埼の沼に鴨が尾をふるわせている、自分の羽に降り積もった霜を払おうとしている。
(巻14-3380)
埼玉の津に帆を降ろしている船が、風をいたみ、つまり激しい風のために綱が切れても、大切なあの人からの頼りが絶えないように。

行田市さきたま古墳群の東方の水田地帯に小さな林の一角がみえる。ここが小埼沼である。かつてこの周辺は沼の多い湿地で、昭和50年代まで小針沼(別名:埼玉沼)と呼ばれる広大な沼が存在していた。
古代万葉の頃には小埼沼の周辺は、東京湾の入り江(埼玉の津)だったと云われているが、今では水も涸れ、沼の面影はみあたらないが、かすかに一部が涸れあがって残った跡が見受けられる。

この万葉歌碑は小埼沼に「武蔵小埼沼の碑」が立っており、この碑の背面に、万葉集に詠われた埼玉に関する歌2首が万葉仮名(漢字)で刻まれている。宝暦三(1753)年に忍城主阿部正允が建てたもの。江戸時代中期の古い歌碑で、この地を万葉に詠われた故地として後世に残そうという当時の人々思いが今に伝わってくる。


武蔵小埼沼の碑と沼跡(右側くぼんだところ)

これらの歌は行田市さきたま古墳群の前玉神社の石灯篭(元禄10年(1697)建立)にも刻まれている。
  →万葉アルバム


 


万葉アルバム(奈良):天理、前栽公民館

2012年07月02日 | 万葉アルバム(奈良)

石上(いそのかみ) 布留(ふる)の早稲田を 秀(ひ)でずとも
縄だに延(は)へよ 守(も)りつつ居(を)らむ 
   =巻7-1353 作者未詳=


 石上の布留にある早稲の田を、まだ稲穂が出揃っていなくても、せめて縄だけでも張りめぐらしてください。そうしたら私が見守っていましょう。という意味。

万葉集巻七に100首を超える比喩歌が入っている。その中の「稲に寄する」歌一首がこの歌である。
しかるべき男に娘を引き合わせた親の歌、早稲田=年頃になる前の女、秀づ=年頃になる、縄だに延へよ=婚約すること、の譬え(新潮日本古典集成)。
布留(ふる)は、現在の天理市布留町周辺をさす。

この万葉歌碑は天理市前栽町の前栽公民館の植え込みに立っている。前栽公民館は中ッ道そいの布留川のそばに位置しており、古代万葉の頃にはこの周辺で稲作がさかんに行われていたのだろう。
前栽(せんざい)の地名の由来は、中世ここは東大寺領の千代庄だった。千代(せんだい)を千載と書くようになり、三転して前栽となったようだ。