飛鳥への旅

飛鳥万葉を軸に、
古代から近代へと時空を越えた旅をします。
「リンクメニュー」(分類別目次)機能付。

1987年4月 飛鳥(桧隈から真神が原・甘樫丘)

2010年03月29日 | 思い出の大和路探訪
<1987年4月12日(日) 飛鳥(桧隈寺跡-川原寺跡)>
コース:飛鳥駅・・・桧隈寺跡・・・栗原・・・下平田・・・真神が原・・・甘樫丘・・・川原寺跡・・・飛鳥駅

飛鳥で3回目かになるサイクリング、この時は息子と2人だった。
桧隈から栗原あたりは飛鳥の中でも静かなところで、飛鳥の別の良さを実感できるところでもある。 


飛鳥駅近くの分岐点 白壁の家


分岐点より桧隈への道


桧隈の里 桧隈寺がある森


桧隈寺跡


桧隈の里 桧隈の集落


桧隈の集落


呉津孫神社


栗原のお地蔵さん 「右岡寺」へと書かれている


下平田、鬼の俎の手前、遠くの山は細川山


八幡宮裏より橘寺・川原寺を望む


真神が原から眺めた橘寺全景


入鹿首塚より甘樫丘を望む


甘橿丘から遠くに畝傍山


甘橿丘展望台 桜が満開を過ぎ散っている


飛鳥坐神社に続く道路


川原寺全景


川原寺とスイセン


庚申石と川原寺

万葉アルバム(明日香):万葉文化館

2010年03月25日 | 万葉アルバム(明日香)

皆人の命も我れもみ吉野の
滝の常磐の常ならぬかも
   =巻6-922 笠金村=


皆人の命も、私の命も吉野の滝の激流に打たれてなお不動の岩のように、久しく変わらずにいてほしいものだなあ。という意味。

聖武天皇即位の翌年、神亀二年(725)五月、吉野行幸に従事した際に詠んだ歌。

 万葉文化館は平成13年9月に明日香村に開館した比較的新しい施設。
海石榴市をはじめ東市、西市、軽市などをイメージした古代の市空間を再現した「歌の施設」、子どもたちにも理解しやすい「万葉おもしろ体験」、万葉歌人の歌をもとに、それぞれの歌人の個性や心情、人間関係や時代背景などをとりあげ、人形、映像、アニメーションなどの複合的な手法で紹介する「万葉劇場」、などの施設があり、万葉集を古代のイメージの中で視覚的に理解できるようになっている。

 万葉文化館の庭園に万葉歌碑が4基あり、これはそのひとつ。

万葉アルバム~花、さくら

2010年03月22日 | 万葉アルバム(自然編)

桜花 今ぞ盛りと 人は言へど
我れは寂しも 君としあらねば
  =巻18-4074 大伴池主=


 桜は今が盛りと人は言うけれど、私は寂しい。あなたと一緒ではないから。という意味。

古代では、山に咲くヤマザクラや、八重咲きの桜が一般的であった。有名な吉野の桜も、ヤマザクラである。ソメイヨシノ(染井吉野)は江戸末期に品種改良されたものである。

『万葉集』に詠まれた「さくら」は四十四首と多いが、
名歌と思われるのは、万葉集以外に多く見られる。

世の中に絶えて桜のなかりせば春の心はのどけからまし  (在原業平 伊勢物語)
いにしへの奈良のみやこの八重桜 けふ九重に匂ひぬるかな (伊勢大輔)
願わくは 花の下にて 春死なむ そのきさらぎの望月のころ (西行)
花見にと 群れつつ人の来るのみぞ あたら桜のとがにぞありける (西行)
敷島の 大和心を人問はば 朝日ににほふ山ざくら花  (本居宣長)
花の色はうつりにけりないたづらに 我が身よにふる ながめせしまに (小野小町)

1987年4月 雨の当麻寺

2010年03月18日 | 思い出の大和路探訪
 <1987年4月、当麻寺>
 4月のある日、妻子と奈良当麻寺を訪ねた。
中将姫の當麻曼陀羅・天平時代の東西両塔・日本最古、白鳳時代の梵鐘、石燈籠などでよく知られている当麻寺。
あいにく小雨がけむる肌寒い一日だったが、しっとりとした大寺の佇まいをゆっくりと見学することができた。
まだあどけない小学三年の息子が元気に同行していたのが印象的だった。


近鉄当麻寺駅


中将餅本舗
よもぎ餅がおいしいので、当麻寺に来るたびにここに寄ることが多い。


けはや塚
垂仁天皇の時代に、當麻蹶速は出雲出身の野見宿禰(のみのすくね)と力比べをして蹴殺されたが、地元の英雄と語り継がれている。


当麻寺につづく参道


当麻寺山門
当麻寺は、白鳳時代に創建され、奈良時代の三重塔を東西二基とも残す全国唯一の寺で、白鳳・天平様式の大伽藍を有し、「當麻曼荼羅(たいままんだら)」を本尊とする「極楽浄土の霊場」である。


当麻寺境内 曼荼羅堂(奥)、金堂(左)、講堂(右奥)
当麻寺は大和と河内の境界をなす二上山の東麓にある。
現在は、浄土宗と真言宗の二宗で護持されている珍しいお寺である。


東塔と鐘楼、左手:松室院
鐘楼は日本最古の梵鐘(国宝・白鳳時代)
天平時代の東西の三重塔(国宝)


中之坊剃髪堂と白壁
この当時の趣のある白壁は今は改修されてきれいになり趣がなくなってしまった。
写真だけに残るなつかしの風景の一枚となった。


東塔と中之坊


中将姫池


日本最古の石燈籠(重要文化財・白鳳時代)


曼荼羅堂
曼荼羅堂(国宝)には中将姫ゆかりの蓮糸大曼陀羅がある。


中之坊剃髪堂
中将姫を手引きした「導き観音」として信仰を集める十一面観音をご本尊とする。天平の昔、藤原家の郎女・中将姫は幾多の艱難辛苦を乗り越え、観音様の導きによって當麻寺へ入山し、このお堂にて髪を剃り落として「法如」の名を授かり尼僧となった。
 ご本尊は中将姫の守り本尊であることから特に女人の信仰を集め、安産、健康、厄除の祈願に多くの方が訪れる。


中将姫誓いの石


中之坊の池泉回遊式庭園
中之坊庭園は、古くから大和三名園(竹林院・慈光院)と賞される池泉回遊式兼観賞式庭園。 


中之坊新書院


中之坊庭園の飛び石


牡丹の花


折口信夫の歌碑
「ねりくやう すぎてしづまる 寺のには はたとせまへを かくしつつゐし」

万葉アルバム(関東):筑波山、妹が門

2010年03月15日 | 万葉アルバム(関東)

妹が門 いや遠そきぬ 筑波山
隠れぬほとに 袖は振りてな 
   =巻14-3389 東歌=


あの娘(こ)の家がますます遠く離れてしまった。筑波山が隠れずに見えているうちは、袖を振ろう。という意味。

 筑波山は男体山・女体山の双峰からなる山ということで、男女が歌をやりとりし互いの相手を見つける集いの「歌垣」の場になっていた。筑波山の万葉歌には恋歌が多いのも想像できる。若い男女がお互いに恋の歌を取り交わした4首の中のひとつである。

 名所江戸百景は、浮世絵師の歌川広重が安政3年(1856年)から同5年(1858年)にかけて制作した連作浮世絵である。広重最晩年の作品でもある。
筑波山が描かれている絵は、隅田川水神の森真崎(向島から隅田川の対岸の真崎と水神の森を望んだ)からの風景である。水神は現在の隅田川神社であるが、当時より北方(周辺は東白鬚公園)に移転している。

 この歌碑は、筑波山麓の「つくばテクノパーク大穂」に建っている万葉集20基のうちのひとつである。

1987年3月 多武峰から吉野へ

2010年03月11日 | 思い出の大和路探訪
<1987年3月15日(日) 多武峰から吉野へ>
万葉の大和路を歩く会「よき人の吉野山路訪ねて」に参加した記録。
 
 奈良時代に天皇が吉野詣でで行幸したコースを辿る旅である。

コース:近鉄桜井駅=多武峯・談山神社・・・・冬野・・・・竜在峠・・・・滝畑・・・・志賀
    =六田・柳の渡し=近鉄下市口駅 (徒歩約8km)
講師:甲陽学園高校教論 山内英正さん

多武峯・談山神社から志賀までは山道を徒歩。その他は貸切バスで移動した。
日本三大美林でもある吉野杉に覆われた山道を歩き回り、帰宅後に花粉症にかかったことがわかった思い出のある旅だった。
吉野杉の花粉を相当吸ったようで、この時以来現在に至るまで花粉症はおさまらないようだ。
それでも、ひなびた飛鳥から吉野路へ続く味わいのある散策をすることができた良い旅だった。



談山神社入り口
ここは、大化の改新でお馴染みの中大兄皇子、中臣鎌足が日本の将来について語りあったといわれる談い(かたらい)山がすぐ後ろにありその頂上には大化の改新の談合の碑が立っている。談山神社という名前はこの故事に由来している。


十三重石塔
談山神社の駐車場から南門へ向かう途中、右側に折れる道がある。
そこを少し登って行くと、十三重石塔が建っている。
淡海公墓所と伝えられる十三重石塔である。


人麻呂歌集の歌碑 →万葉アルバムへ




談山神社十三重塔
桜の開花まであとわずかだった。桜の満開時は人でごったがえすらしい。
鎌足の死後、摂津阿威山に葬られていた亡骸をここ、多武峰に移して建てられたお墓で、678年に完成し。しかし戦火に焼け落ち、写真の十三重塔は1532年の再建。この塔は現存唯一の十三重塔(重文)だそうだ。


談山神社拝殿
1520年に建てられたこの拝殿の中に、鎌足公の描かれた多武峰マンダラがある。


石垣と下乗石
西門跡で、飛鳥方面への門があったところ。立派な石垣と下乗碑がある。


談山神社から冬野へ向かう道から 飛鳥を望む


冬野
左方多武峯から30分程の登り道を経て、畑から登って来たT字路にでる。
真っ直ぐ村を過ぎて行くと竜在峠に出る。
眺望の素晴らしい場所。ここでしばしの休憩。
冬野はわずか三戸の村だそうだ。標高約六百米の山上に静かにたたずんでいる。
 かつて本居宣長は長谷寺から多武峯を経て冬野を通り、竜在峠越えで吉野に入っている。
「はるかに山蹄をのぼりゆきて、手向に茶屋あり。やまとの国中見えわたる所也」と 『管笠日記』 の中に宣長が記した冬野は、今は行きかう人もなく鳥のさえずりと、谷から湧き起こる風の音だけが響いているだけである。


冬野にて 桃の花


冬野を過ぎる


竜在峠付近
冬野からは屋根伝いに吉野に分け入って、約一時間で竜在峠に着く。
峠は展望もきかないので峠らしい感じがしない。
これより三百米先の雲井茶屋跡を経て吉野の滝畑へ通じている。


竜在峠にて
み吉野の 耳我の嶺に 時なくぞ雪は降りける
間なくぞ 雨は降りける その雪の時なきが如
その雨の間まきが如 隈もおちず 思ひつつぞ来し
その山道を    (天武天皇 卷1-25)

西暦671年、壬申の乱の前年に大海人皇子(後の天武天皇)が妃(後の持統天皇)ほか、わずかの舎人たちを伴って越えたであろう峠の一つに、この竜在峠が考えられている。


滝畑
竜在峠南方の集落で、明治時代までは街道の要所だった所だそうだ。


吉野川 六田(むった)
音に聞き 目にはいまだ見ぬ 吉野川
六田の淀を 今日見つるかも (卷7-1105)

大淀町北六田と、南岸の吉野町六田とを結んだ、かつての「柳の渡し」付近。
平安時代に醍醐寺の僧が初めて渡し場を開いたと伝えており、以来吉野山から大峰を経て熊野へ駆ける、修験者の水垢離(みずごり)場(水を浴び身体を清める場)として尊ばれてきた。
大正までは舟や徒歩(かち)で川越えをしたものだった。
従ってこの付近は、大和平野や大阪、和歌山方面からの修験者や、吉野山への花見客でにぎわい、又吉野川をくだる”筏”のたまり場でもあったので、宿屋や茶店が建ち並んで、宿場町としても栄えた所である。


六田(むった)の河原で講師の話を聞く

ここから歩く会で用意された貸切バスで近鉄下市口駅へ着き、解散になった。

万葉アルバム(明日香):川原寺

2010年03月08日 | 万葉アルバム(明日香)

世間(よのなか)の繁(しげ)き仮廬(かりほ)に住み住みて
至らむ国のたづき知らずも
     =巻16-3850 作者不詳=


 うるさい仮住まいのようなこの世に住み続けていて、これからどんなようすの国に行き着くのか分からない。 という歌。

この歌の注に、「奈良の川原寺(かわはらでら)の仏堂にあった琴に書かれていた」とある。

 川原寺は県道をはさんで橘寺の北に位置している。天智天皇が、母の斉明天皇の菩提をとむらうため飛鳥川原宮(あすかのかはらのみや)跡に建てられたのが川原寺であったが、現在はのちの時代の小堂が建っている。
発掘調査によって、一塔二金堂に三面僧房をめぐらした荘麗な伽藍だったようで、調査後はすべて埋め戻され、今はその上に創建時の伽藍配置がわかるよう整然と礎石が並べられ史跡公園のような広場になっている。

 誰が歌ったかわからない歌で、たまたま寺にあった琴にこの歌が書かれていたという。消えてなくなってしまうような歌であったが、しかし世の行く末を嘆いているようすが現代にも通じるような新鮮味があるではないか。このような歌が宮廷歌人に交じって万葉集に取り上げられていることが、すばらしいことだと思う。

万葉アルバム~花、つばき

2010年03月04日 | 万葉アルバム(自然編)

巨勢山(こせやま)の つらつら椿 つらつらに
見つつ偲はな 巨勢の春野を
   =巻1-54 坂門人足(さかとのひとたり)=


 巨勢山の連なった椿の木々、そして点々と連なって咲く椿の花、つくづくと秋の椿の木々を見て、思い起こそうではありませんか。あの巨勢の春の野を。という意味。

「つらつら椿」は、直接的には、椿の並木を表すものだが、次の「つらつらに」で、さらに椿が点々と咲き乱れるさまを流れるようなリズムで情景描写している。

『万葉集』に詠まれた「つばき」は九首ある。

 巨勢は、大和から紀伊への通路にある土地で、ここから東南に、今木峠を越えると、吉野へ出ることができる。持統天皇の吉野行幸の際に、華やかさを演出するために詠まれたものと思う。

1987年2月 飛鳥(甘橿丘・豊浦・宮跡・石舞台)

2010年03月01日 | 思い出の大和路探訪
 <1987年2月11日(水)、飛鳥>
 飛鳥6回目の散策。
今回は家族で訪れ、飛鳥のポピュラーな名勝地をサイクリングで回った。
真冬だったが好天に恵まれ風もなく穏やか、空気も澄んでいるため、遠くの景色の見通しが年間を通してもこの時期が一番良く、出かけるには大好きな季節である。
飛鳥サイクリングも2回目なので道も慣れてきて、地図もなしでスイスイ回れるようになってきた。

コース:飛鳥駅・・・鬼の俎厠・・・亀石・・・甘橿丘・・・豊浦寺跡・・・甘橿坐神社・・・飛鳥資料館・・・浄御原宮跡・・・水落遺跡・・・板蓋宮跡・・・石舞台・・・飛鳥駅


飛鳥駅


鬼の雪隠(せっちん)
道の両側に大きな石造の「鬼の爼」と「鬼の雪隠」が在る。これは大昔、旅人が飛鳥の平田に差し掛かると、鬼が旅人を捕まえ、爼で料理をして食べた後、満腹になり雪隠でウンチをしたとの伝承がある。しかし、実際は西へ 約15キロ程行った二上山から巨石を切り出し、欽明天皇の陪塚(ばいちょう)として使われていた横口式石槨(せつかく)の基底石と、蓋(ふた)石と云われている。


鬼の俎(まないた)


亀石
道の脇に花崗岩で造られた長さ3.6m、幅2m、高さ2m、重さ40トンの「亀石」が南西を向いて寝ている。伝承によると、これは大昔、まだ飛鳥が湖の底だった頃、明日香村川原の鯰と対岸の當麻の蛇が喧嘩して、川原の鯰が負け、その結果、湖の水を蛇に取られて干上がって、仰山の亀が死に、その供養の為の物で、この「亀石」が西の葛城市當麻町の方を向くと洪水が起こり、明日香村が泥沼に成ると云われている。しかし、本当の所は何の為に造られたのか、今もって謎の石像なのである。


真神が原を抜けて甘橿丘に向かう 前方に飛鳥寺が見えてくる


甘橿丘の展望台に到着 耳成山(左)・香具山(右)を背に


甘橿丘から畝傍山を望む


甘橿丘から耳成山を望む


甘橿丘中腹にある万葉歌碑 →万葉アルバム


甘橿丘下ったところの茶屋で休憩


豊浦寺跡
現在向原寺と呼ばれる小さなお寺の周辺に豊浦寺があった。
ここは我国最初の女帝であった推古天皇が即位した豊浦宮があったところ。


向原寺本堂南側では、豊浦寺講堂の版築跡の遺構が常時公開されている。画像の石敷き部分が豊浦宮の遺構だとされ、その上層が講堂の建築にあたって施された版築になるようだ。




豊浦の文様石
文様の特徴は、飛鳥石神遺跡から出土した須弥山石に似ているとされているが、
元々の用途はまったく分かっていないようだ。


甘橿坐神社
向原寺(豊浦寺跡)の横を通って直ぐ裏の道に廻ると、「甘樫坐(あまかしにいます)神社」。推古天皇らを祀っている。


境内に自然石の立石がある。これは飛鳥地方に見られる石造遺物の一種で祭祀遺跡あるいは結界石の遺稿ではないかと思われる。
また、この神社の特殊行事として、クガダチの神事がある。


飛鳥資料館
入った正面に展示されている飛鳥京の立体地図


資料館庭園にある酒舟石の複製


水落遺跡 旧飛鳥小学校わきにある
660年5月(斉明天皇6年)中大兄皇子が日本初の「漏刻(ろうこく、水時計)」を造り、天智天皇に即位して後、設置したもの。


発掘風景 石神遺跡発掘中(4次)


板蓋宮跡
643年(皇極2年)4月末から政治を行った「伝飛鳥板蓋宮(でんあすかいたぶきノみや)跡」。645年(皇極4年)6月12日中大兄皇子(後の天智天皇)が、母の皇極天皇の目の前で蘇我入鹿を中臣鎌足らと諜殺し、大化改新をやり遂げた所。今は井戸を復元して史跡公園となっている。


石舞台
横穴式の石室を持つ方形墳で、日本書紀推古天皇34年に記載された蘇我馬子大臣の桃原墓と云われ、「石舞台」の名の謂われは古墳上部の封土を失い、むき出しになった巨大な天井石の上で、狐が女に化けて舞を見せたと云う説と、旅芸人が大きな石組みの上で芸を披露し、舞を優雅に舞ったと云う説が有る。




石舞台近くの万葉歌碑 →万葉アルバム