飛鳥への旅

飛鳥万葉を軸に、
古代から近代へと時空を越えた旅をします。
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万葉アルバム(関東):千葉・流山、諏訪神社 つぎねふ山城路

2011年06月27日 | 万葉アルバム(関東)

つぎねふ 山城路(みち)を 他夫(ひとづま)の
馬より行くに 己夫(おのづま)し 歩(かち)より行けば
見るごとに ね(音)のみし泣かゆ 
そこ思ふに 心し痛し たらちねの
母が形見と 我が持てる まそみ鏡に
あきづきれ 負ひ並(な)め持ちて 馬買へ我が背
   =巻13-3314 作者未詳=



馬買はば 妹かちならむ よしゑやし
石は踏むとも 我は二人行かむ
   =巻13-3317 作者未詳=


(長歌:巻13-3314)
山城道を他所の夫が馬で行くのに、自分の夫が徒歩で行くのを見るにつけ泣けてしまいます。それを思うと心が痛みます。母の形見として私が持っている鏡と布を負って持っていって馬をお買いなさい。わが夫よ。

(反歌:巻13-3317)
馬を買ったら、妻は徒歩になろう。いいよ。石を踏んでも私たちは二人で行こう。という意味。

「つぎねふ」は山城の枕詞。「山背道(やましろぢ)」は京都南部の地域。「真澄鏡(まそみかがみ)」は、よく澄んでよく映る鏡のこと。「蜻蛉領巾(あきづひれ)」は蜻蛉の羽のように透けるヒレ。ヒレは、女性の頸にかける長い布をいう。

夫を思う女性の素直な気持ち、それに答えた夫の妻への心遣い、万葉時代の貧しいが心を通い合う夫婦の姿が見えてくる。つつましい庶民が歌った名歌である。

 千葉県流山市の諏訪神社にこの万葉歌碑が立っている。
本来歌われた場所(山城)と異なる場所なので、この歌の直接の結びつきはない。
諏訪神社は源義家が戦勝祈願で馬具を奉納したことから神馬を鋳造し奉ってきた。
そういったことから、馬に関する万葉歌を歌碑として奉納したと思われる。

万葉アルバム(奈良):山の辺、箸中車谷

2011年06月22日 | 万葉アルバム(奈良)

巻向の 山辺響(とよ)みて 行く水の
水沫(みなわ)のごとし 世の人我れは
   =巻7-1269 柿本人麻呂=


巻向の山辺を音を立てて流れていく水にできる沫のようなものだなぁ、人の世を生きるということは。という意味。

巻向川は、巻向山と三輪山、穴師山の間の谷川を集めて、穴師、車谷の村の中を流れていく小川だが、上流部は山峡で落差が大きいため急流でゴウゴウと川音を立てて流れていくそうだ。

この万葉歌碑は桜井市箸中車谷の道路北側民家の前に立っている。
箸中車谷のこのあたりは柿本人麻呂の妻が住んでいたところ。大和青垣の斜面を利用した蜜柑畑が多く栽培されている。


万葉アルバム(奈良):山の辺、桧原神社の幣(ぬさ)

2011年06月13日 | 万葉アルバム(奈良)

三輪山の 山辺真麻木綿(まそゆふ) 短木綿(みじかゆふ)
かくのみからに 長くと思ひき
    =巻2-157 高市皇子=


三輪山の山辺にある真麻の木綿は短いものだ。そのように命も短いものなのに、いつまでも長くつづく命だと思っていた。という意味。

「木綿」とは、ここでは神に捧げる幣(ぬさ)をつくるための麻の布のことで、三輪の山辺では短い幣が特徴だったようだ。
幣(ぬさ)は祈願をし、または、罪・けがれを払うため神前に供える幣帛(へいはく)。紙・麻・木綿(ゆう)などを使う。みてぐら。御幣(ごへい)ともいう。

十市皇女(とをちのひめみこ)の薨(かむあが)りましし時に、高市皇子尊(たけちのみこのみこと)の作りませる御歌三首の中の一首。
高市皇子と十市皇女はひそかに愛し合っていたといわれるが、結婚は許されなかったようだ。十市は大友皇子に嫁いだが壬申の乱で大友は死に、十市は父大海人のもとに戻り、肩身の狭い思いで生きる。伊勢神宮に入る事を父から言われたあと、突然亡くなった。自殺ともいわれている。
愛する人が突然、死を選んだという高市の無念の気持ちが、この歌に現れている。

この万葉歌碑は茅原の穴師川近くの山の辺の道沿いに建っている。
桧原神社は拝殿・本殿共になく、「三ッ鳥居」を通して、ご神体である「三輪山」を拝する形をとっている。写真中央右手に見えるのが幣(ぬさ)。

万葉アルバム 花、はまゆふ

2011年06月12日 | 万葉アルバム(自然編)

み熊野の 浦の浜木綿(はまゆふ) 百重(ももえ)なす
心は思へど 直に逢はぬかも
   =巻04-0496 柿本人麻呂=


熊野の浦の浜木綿の葉が幾重にも重なっているように、幾重にも幾重にも百重にもあなたのことを思っていますが、直接には会えないことだ。という意味。

690年、9月13日から24日まで紀伊の国への行幸があり、この行幸に供をした柿本人麻呂がその時に歌ったとみられる。

はまゆふ(現在のはまゆう)は暖地海岸の砂地などによく生える大形のヒガンバナ科の多年草。葉が厚く幾重にも重なり、浜の強い潮風にも耐えている。夏には葉の間から花茎を出し、先に白い花が集まって傘形に咲く。浜辺に生えオモトに似ているので、別名ハマオモトとも呼ばれている。

『万葉集』に詠まれる「はまゆふ」は上記の一首のみ。


万葉アルバム(関西):滋賀、蒲生野

2011年06月10日 | 更新情報
(文書追加しました)



茜(あかね)さす紫野行き標野(しめの)行き
野守(のもり)は見ずや君が袖振る
   =巻1-20 額田王=


 茜色に輝く紫草が栽培されている天智天皇御領地の野で、あなたが私に袖を振っているのを、野の番人たちに見られてしまうではありませんか、という意味。

天智天皇7年(668年)5月5日、新都、近江大津宮から1日の行程の蒲生野(がもうの)で、宮廷をあげての薬狩りが催された。薬狩りは鹿の角袋や薬草を採る、夏の宮廷行事だった。その折に額田王(ぬかたのおおきみ)が大海人皇子(おおあまのおうじ)に歌を贈った。


それに大海人皇子(のちの天武天皇)が答えた歌がある。
紫草(むらさき)のにほへる妹(いも)を憎くあらば
人妻ゆゑにあれ恋ひめやも
   =巻1-21 天武天皇=


紫のように美しい君よ。君を憎く思うのなら、人妻なのにどうしてこんなに想うものか、という意味。

額田王は初め大海人皇子の妻となり、十市皇女(とをちのひめみこ)を生んだが、後に天智天皇となった兄・中大兄皇子の後宮に入った。この歌の贈答には、額田王がかつての夫・大海人皇子の人目をはばからない求愛の行為に対して、口ではそれをたしなめながらも心ではひそかに皇子に好意を寄せている複雑な女心、そして、大海人皇子の大胆で率直な男心がみごとに表現されている。

この2つの歌は万葉集の中でも屈指の歌であり、最も人気の高い歌のひとつである。

 ムラサキ
ムラサキは上代の紫色の染料に使われ、これで染めた紫色は最も喜ばれた色彩だった。
夏に白色の花を開く。今では数も少なくなりつつある。

 「蒲生野」の写真は蒲生野にある太郎坊宮本殿付近から撮ったもの。今は豊かな水田地帯に変わっている。中央の横に長い小山が万葉歌碑が建っている船岡山である。

「船岡山の万葉歌碑」は、自然の巨岩に「元暦校本万葉集」の原本そのままの文字を彫りこんだ石板になっている。船岡山は蒲生野の真っ只中にあり、近江鉄道市辺駅からすぐのところにある阿賀神社のうしろに位置している。

万葉アルバム 花、あじさい

2011年06月06日 | 万葉アルバム(自然編)

あじさいの 八重咲くごとく 八つ代にを
いませ我が背子 見つつ偲はむ
   =巻20-4448 橘諸兄=


アジサイの花が幾重にもかさなりあって咲くように、いつまでも栄えて下さいよ。花を見るたびにあなたを懐かしく思いましょう。という意味。

橘諸兄(たちばなのもろえ)が彼の下役である右大弁丹比国人眞人(うだいべんたぢひのくにひとまひと)が開いた宴に参加したときに作った歌。「わが背子(せこ)」は、この宴の主人を指している。
アジサイは俗に七変化の花で、政治の世界も一寸先は闇だから、いつまでもお元気でという気持ちを伝えたのだろう。

アジサイの歌は万葉集に2首残る。

この万葉歌碑は名古屋東山植物園内にある万葉の散歩道に置かれているもの。