飛鳥への旅

飛鳥万葉を軸に、
古代から近代へと時空を越えた旅をします。
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万葉アルバム(関東):群馬県、高崎市 高崎自然歩道 山名城址分岐点手前/遠しとふ

2013年08月24日 | 万葉アルバム(関東)


遠しとふ 故奈(こな)の白峰(しらね)に あほ時(しだ)も
あはのへ時(しだ)も 汝にこそよされ
   =巻14-3478 作者未詳=


 おまえに会っている時はもちろん、 会っていない時だって。私の心はおまえから、ずっと離れないのだよ。という意味。

「遠しとふ」:枕詞説と「遠しという」の約説がある。
「故奈の白峰」は、越の白峰、白山説、 越中の立山説、 上野国吾妻郡の白根山説、その他あって定説はない。
「のへ」(助動)〔上代東国語。「なへ」の転〕打ち消しの助動詞「なふ」の連体形・已然形「なへ」に同じ。
「あほ時(しだ)」:逢う時。しだは古語か。
「あはのへ時」:逢わない時。
「よされ」:寄せられる。関係がある。


碑文<クリックで拡大>
 この万葉歌碑は群馬県高崎市の高崎自然歩道、山名城址分岐点手前に建っている。


万葉アルバム(関東):群馬県、高崎市 高崎自然歩道 7地点/あすか河

2013年08月17日 | 万葉アルバム(関東)


あすか河  塞く(せく)と知りせば あまた夜も
ゐ寝てこましを せくとしりせば
   =巻14-3545 作者未詳=



 二人の仲がひきさかれる定めだと、 それが分っていたなら、幾夜も幾夜も共寝をしたものを。 という意味。

「あすか河=明日香川」:大和を流れる川と、東国にも同名の川があったのかどうかは不明。
「塞く(せく)」:せきとめる。
「ゐ寝(ね)=卒寝」:いざなって共に寝る。

 この万葉歌碑は群馬県高崎市の高崎自然歩道、マップ7地点(山の上碑と古墳と山名城址分岐点の中間)に建っている。
碑文はカタカナで刻まれているが、カタカナはわりと珍しいようだ。

万葉アルバム(関東):茨城県、筑西市 宮山ふるさとふれあい公園

2013年08月10日 | 万葉アルバム(関東)


筑波嶺の 新桑(にひぐは)繭(まよ)の 衣(きぬ)はあれど
君が御衣(みけし)し あやに着欲しも                
    =巻14-3350 東歌=


 筑波嶺一帯の、新桑を食べさせて育てた繭の着物は、それはそれで素晴らしいけれど、やっぱりあなたのお召し物が無性に着たい。という意味。

桑の新芽をつみながら、いとしい人を想って歌った娘さんの恋の歌という見方をするのが普通だが、
実際はそうではなく、新しい着物がどんなによくても、あなたの着物と交換したい、すなわち身を任せて共寝をしたいという思いが込められているのである。万葉ならではの恋の歌なのである。
古代の人々は、親しい男女間で別れの際に下着を交換するという習慣があったようだ。

筑波嶺(つくはね)」は筑波山。「新桑(にひぐは)」は、桑(くは)の新芽のこと。新桑(にひぐは)で育てた蚕で作られた絹の衣は高級品だった。繭(まよ)は、蚕(かいこ)のまゆのこと。


 この万葉歌碑は茨城県筑西市の宮山ふるさとふれあい公園に建っている。
宮山ふるさとふれあい公園は自然を満喫できるアウトドア施設で、万葉歌碑はキャンプ場入口付近にある。

万葉アルバム(関東):群馬県、高崎市 高崎自然歩道 山の上碑と古墳/日の暮れに

2013年08月03日 | 万葉アルバム(関東)


日の暮れに 碓氷(うすい)の山を 越ゆる日は
夫(せ)なのが袖も さやに振らしつ
   =巻14-3402 作者未詳=


 日暮れ時に碓氷の山を越えていかれた日、あなたの袖もはっきりと振ってくださったのが見えましたよ。という意味。

ここの解説版には、「袖もはっきり見える程、ひどく振って峠を越えていった人、防人に旅立ったあの方の最後のお姿だった。」とある。

碓氷(うすい):古代では入山峠が「うすひのさか(碓氷坂)」であったとされている。

古代、東国から徴発されて北九州の防衛にあたる防人にとって、碓氷峠(入山峠)はふるさとを離れることを実感する場所だった。群馬県境の坂本宿から軽井沢宿に至る途中にある峠で、古代より「薄日」のさす険しい難所の山道であった。


 この万葉歌碑は、群馬県高崎市の高崎自然歩道、山の上碑と古墳がある一角に建っている。
山の上碑と古墳は万葉時代に建造されたもので、当時の万葉歌と相通じるものがあるようだ。
この歌碑から高崎自然歩道の本格的な山道が連なっていくようで、自然歩道の実質的な起点であろう。


碑文:万葉仮名で刻まれている。<クリックで拡大>
  比之暮尓薄日 
  乃山遠古由流 
  比者世奈濃賀
  袖毛沙耶尓不
  良志津


山の上碑
山の上碑は、 681年に立てられた日本最古級の石碑で、高さ111センチの輝石安山岩の自然石に53字が刻まれている。放光寺の僧である長利が、亡き母の黒売刀自を供養するとともに、母と自分の系譜を記して顕彰したもの。近隣の金井沢碑・多胡碑と合わせて上野三碑と呼ばれている。

碑文には、次のように記されている。
佐野(さぬ)の三家(みやけ)と定め賜える健守命(たけもりのみこと)の孫
黒売刀自(くろめとじ)、此れ新川(にっかわ)の臣(おみ)の児
斯多々弥(したたみ)の足尼(すくね)の孫大児(おおご)の臣に娶(めあ)いて生める児、
長利の僧、母の為に記し定る文也

碑に隣接する山の上古墳は、直径約15メートルの円墳で、精緻な切石積みの石室を持ち7世紀中頃の築造と考えられ、その築造時期は、山の上碑よりも数十年古いため、もともと黒売刀自の父の墓として造られ、後に黒売刀自を追葬(帰葬)したものと考えられている。