飛鳥への旅

飛鳥万葉を軸に、
古代から近代へと時空を越えた旅をします。
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万葉アルバム(関東):群馬県、高崎市 高崎自然歩道 29地点:金井沢碑入口

2014年10月26日 | 万葉アルバム(関東)


八隅しし わご大君 かむながら 神さびせすと
芳野川 たきつ河内に 高殿を 高知りまして 
登りたち 国見をすれば たたはなる 青垣山
山神之奉る 御調と 春べは 花かざし
持ち秋立てば 黄葉かざせり ゆきそふ川の 神も大御食に
仕え奉ると 上つ瀬に 鵜川え お立ちて下つ
瀬に小網さし 渡す山川も 依りてつかふる 神の御代かも
   =巻1-38 柿本人麻呂=


(大意) あまねく国土をお治めになるわが天皇が、さながらの神として神々しくおられるとて、吉野川の流れ激しい河内に、高い宮殿もいや高くお作りになり、登り立って国土をご覧になると、重畳する青い垣根のごとき山では、山の神が天皇に奉る御調物として、大宮人らは春には花をかざしに持ち、秋になるともみじを頭に挿している。宮居を流れる川の神も、天皇の食膳に奉仕するというので、大宮人は上流には鵜飼を催し、下流にはさで網を渡している。山も川もこぞってお仕えする神たる天皇の御世よ。(講談社文庫「万葉集」による)

 持統天皇の吉野行幸の時、従駕した人麻呂の献上した歌。
当時、呪術と政治は一体で、神祇(天の神と地の神)の祭祀をつかさどる神祇官や呪術全般を管轄する陰陽寮がおかれ、まじないや占いが大々的におこなわれた。
吉野宮に皇族や群臣が居並ぶなか、人麻呂が吉野川と吉野の山々に向かいこの万葉歌を歌う。実際にはは雨が降らず吉野川は干上がっているため、天皇みずから雨乞い行事を行ったのではないかとも想像できる。


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 この万葉歌碑は群馬県高崎市の高崎自然歩道、29地点:金井沢碑入口に建っている。


金井沢碑(建屋と内部の碑)
金井沢碑は、神亀 3(726)年に立てられた石碑で、高さ111センチの輝石安山岩の自然石に112字が刻まれている。山上碑・多胡碑と合わせて上野三碑と呼ばれている。古代豪族三家氏が、先祖供養のため造立したもので、三家氏は山上碑に記された「佐野三家」(ヤマト政権の地方支配拠点)を経営した豪族の末裔とみられる。

   →高崎自然歩道マップはこちらのブログを参照

万葉アルバム(奈良):奈良市、奈良市役所

2014年10月19日 | 万葉アルバム(奈良)


あをによし 奈良の都に たなびける
天の白雲 見れど飽かぬかも
   =巻15-3602 遣新羅使(けんしらぎし)の一人=


 奈良の都にたなびく白い雲は、ずっと見ていても見飽きないものですよ。都に私の愛する人がいればなおさらのことです。という意味。

 遣新羅使の一行のひとりが詠んだ歌だが、作者不明。

 天平8(736)年4月、聖武天皇により新羅派遣の命が下り、大使に阿倍継麿、副使に大伴三中が任命された。その一行は6月に難波の津を出発、瀬戸内海を西に進んだ。だが、台風に遭い、延々と日程を重ね秋が深まってもなお対馬に停泊、やっとたどり着いた新羅では接見が許されず、派遣は不首尾に終わったようだ。大使は対馬で病没した。歌の大半は行きに詠まれたようで、愛する者のいる都はいつも望郷の対象だった。

 当時、難波津から瀬戸内海へ向い、西へ西へと幾日もつづく危険な船旅だった。船旅で眺める雲に寄せて愛する人を偲ぶ、いつまで見ていても飽きないのだ。


万葉歌碑<クリックで拡大>
 (揮毫者・杉岡華邨)

この万葉歌碑は、奈良市二条大路南・奈良市役所前庭に建っている。

万葉アルバム(関東):群馬県、高崎市 高崎自然歩道 28地点:金井沢碑への分岐点

2014年10月12日 | 万葉アルバム(関東)


吾(あ)を待つと君が濡れけむあしひきの
山のしづくにならましものを
   =巻2-108 石川郎女=



 私を待って、あなたがお濡れになったというその山のしづくに、私がなれたらいいのに。という意味。

あしひきの山のしづくに妹待つと われ立ち濡れぬ山のしづくに
   =巻2-107 大津皇子=

(あなたを待って立ち続け、山の木々から落ちてくるしずくに濡れてしまいましたよ。)

の大津皇子の歌に、答えた歌が巻2-108の石川郎女の歌である。

石川郎女は草壁皇子の妻の一人であったらしい。人目につかない深夜、彼女の住んでいる山ぎわにある邸宅の塀の前まで、彼女に逢いたい近づきたい一心で行ったのであるが、それ以上入ろうとはせずに、夜露に濡れながらじっと佇んでいるのである。郎女は何か事情があったのだろう、約束の場所には行けなかった。
 しかしこれは実際に行って夜露に濡れたわけではなく、逢いたいという思いを込めた一種の恋文と解釈できる。郎女はそのあとの返歌で、山のしづくになりたくてもなれない身の上を嘆いて、丁重に断わったのでないかと思う。
 
 草壁皇子に対抗する皇位継承者とみなされていた大津皇子の反逆事件の裏には、石川郎女をめぐる草壁皇子と大津皇子の愛憎がからんでいたようだ。


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 この万葉歌碑は群馬県高崎市の高崎自然歩道、28地点:金井沢碑への分岐点に建っている。

   →高崎自然歩道マップはこちらのブログを参照

万葉アルバム(奈良):奈良市、佐保川堤 佐保川小学校脇

2014年10月01日 | 万葉アルバム(奈良)


佐保川の 清き河原に 鳴く千鳥
かはづと二つ 忘れかねつも
   =巻7-1123 作者未詳=


 佐保川の清らかな河原に鳴く千鳥は、カジカの声と共に忘れられない。という意味。

万葉の頃は、佐保川には、千鳥が飛び交い河蝦も鳴き、大変心に残る風情だったようだ。
今は川辺にはコンクリートの護岸が整備され、往時を忍ぶべきもないが、護岸は近くの小学校の課外学習の場所と整備されている。川辺で楽しく遊ぶ姿は往時と変わらないようだ。


万葉歌碑<クリックで拡大>

この万葉歌碑は、奈良市法連立花町佐保川小学校の南の土手に建っている。