飛鳥への旅

飛鳥万葉を軸に、
古代から近代へと時空を越えた旅をします。
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万葉アルバム(奈良):山の辺、巻向山

2010年02月25日 | 万葉アルバム(奈良)

穴師川(あなしがは)川波立ちぬ巻向(まきむく)の
弓月(ゆつき)が岳に雲居立てるらし
   =巻7-1087 柿本人麻呂歌集=


 穴師川に川波が立っている。巻向の弓月が岳に、雲がわき立っているらしい。という意味。

「穴師川」は巻向川の別名。「弓月が岳」は奈良県巻向山の最高峰。
『柿本人麻呂歌集』は、万葉集編纂の際に材料となった歌集の一つ。人麻呂自身の作のほか、他の作者の歌や民謡などを集めている。

人麻呂歌集の中に雲を詠める歌二首があり、川が音高く流れるさまに対比させて、その川のほとりに聳えている山の端に雲の立つ様子を詠んだもの。自然の事象を雄大にとらえているとして、斉藤茂吉らアララギの歌人らが高く評価した。茂吉らは、これらの歌を人麻呂のものではないかと解釈したようだ。

この万葉歌碑は、奈良県桜井市箸中車谷に、板画家棟方志功の手になる非常にめずらしいもので、万葉歌の上部には風景画も刻まれている。



絵と語りの芸能4:紙芝居

2010年02月22日 | 絵と語りの芸能
紙芝居は、絵を見せながら演じ手が語って進める芝居的パフォーマンスのことで、主に子供たちを対象にした簡易な芸能で日本独特のものである。


昭和28年頃の紙芝居



紙芝居の源流を辿ると、日本には古来より「絵解き」と言って、絵を見せながら物語を語って聞かせる伝統があった。 寺では僧侶が曼荼羅や寺の縁起を「絵解き」で参拝者たちに語って聞かせたり、絵巻物で女房が姫君たちに絵を見せながら物語る風習があった。

 語りを聞きながら小さな穴から箱の中の絵を覗く「のぞきからくり」が江戸時代から明治・大正にかけて縁日の見世物小屋で行われた。

また寄席や縁日で写し絵、手影絵、影絵眼鏡などが楽しまれた。
これらは「絵を見せながら語る」という点で、紙芝居の源流につながるといえる。





「紙芝居屋」にはトーキーで追われた活弁士や不況による失業者なども多く、子供たちからは"紙芝居のおじさん"と呼ばれていた。 「紙芝居のおじさん」は自転車に紙芝居と水飴などの駄菓子を積んで街頭を回り、拍子木を打って子供を集め、駄菓子を売り、人数が集まれば紙芝居を始めた。 「紙芝居のおじさん」はたいてい話が佳境に入ったところで「続きはまた来週」と話を止め、次回に期待させたものである。

2007年下町風俗資料館

日本昭和村 『黄金バット』

 戦後の街頭紙芝居は1946年(昭和21年)ごろから人気上昇し、GHQ占領時代にに最盛期を迎える。その後は1953年(昭和28年)に放送開始した街頭テレビなどにも押されて次第に衰えていったのである。

 私は昭和27年に東京都世田谷区に小学4年生で転校した折、ここ三軒茶屋の地に街頭紙芝居が何組か来たのを思い出す。縄張りがあるようで週1・2回決まった場所に来る。
家から小銭を貰って紙芝居屋さんから駄菓子を買い紙芝居を観ながら食べるのが楽しみだった。駄菓子といっても、割り箸に付けた水あめを白くなるまで練ってウエハウスセンベエにはさんで食べる。今でもやさしそうな紙芝居屋さんの顔を思い出す。演目はだんぜん「黄金バット」が多かった。

黄金バット

黄金バット 黄金バット怪獣編

ライオンマン

<参考サイト>
塩崎おとぎ紙芝居博物館
  大阪で街頭紙芝居の実演を続けている団体。
下町風俗資料館
  東京上野不忍池畔にあり、毎月定期的に紙芝居実演を行っている。
浅草雑芸団
  2007年に「アナログエンターティメント 新・紙芝居創世記」{浅草・木馬亭)を実施した記事を見つけたが、その後の活動は不明。

万葉アルバム~紅葉、かえるて(カエデ)

2010年02月18日 | 万葉アルバム(自然編)

我がやどに もみつかへるて 見るごとに
妹(いも)を懸(か)けつつ 恋ひぬ日はなし  
   =巻8-1623 大伴田村大嬢=


 家の庭の紅葉した楓(かえで)を見るたびに、あなたのことを思って、恋しくないなんて日はありませんよ。という意味。

妹(いもうと)の坂上大嬢(さかのうえのおおいらつめ)に贈った歌。

 大伴田村大嬢は大伴宿奈麻呂の娘。
妹の坂上大嬢は、いとこ大伴家持の妻となり、天平18-天平勝宝3年(746‐751)の夫の越中守在任中に任地におもむいている。遠く越中にいる妹を思って歌った歌9首のうちのひとつ。

「もみつかへるて」とは、もみじする楓のこと。
「かへるて」は蛙の手に似ていることに由来しており、「る」が省略されて「かえて」すなわち楓と呼ばれるようになったようだ。

『万葉集』に詠まれた「かへるて」はこの歌を含めて二首のみ。

 日本のカエデとして代表されるのは、イロハモミジである。最もよく見られるカエデ属の種で、紅葉の代表種である。

1986年11月 飛鳥(下平田から磐余道へ)

2010年02月15日 | 思い出の大和路探訪
 <1986年11月23日(日) 飛鳥(吉備姫王墓-山田道)>
 飛鳥駅から遊歩道に沿って歩いた最初の頃です。

 コース:飛鳥駅・・・下平田・・・中平田・・・定林寺跡・・・橘寺・・・岡寺・・・板蓋宮伝承地・・・旧飛鳥小付近・・・飛鳥資料館・・・山田道・・・磐余道・・・桜井駅

 飛鳥は、わりと賑やかな遊歩道沿いと、その周辺の静寂な場所に二分されます。
遊歩道沿いの下平田(猿石)・中平田(天武持統天皇陵)・橘寺・岡寺・板蓋宮伝承地などはポピュラーな観光スポットとなっており、回りやすい所ですが、
定林寺跡や磐余道はほとんど観光客が来ない所で、案内板もなく目的地を探すのに苦労します。
 今回は動と静の異なる観光スポットを回りました。


欽明天皇陵
欽明天皇の時代に、百済から仏教が伝わった。蘇我堅塩媛、蘇我子姉君を妃に皇后を石姫とする。
この後、姉妹である、蘇我堅塩媛、蘇我子姉君の子供たちにより、王位争奪戦が繰り広げられる。のちに娘の推古天皇により、蘇我堅塩媛と合葬。
欽明天皇陵は、ここではなく橿原市の見瀬丸山古墳だという異説もある。


猿石
天皇陵のすぐ側にある吉備姫王(欽明天皇の皇子茅渟王の妃)墓にある。


下平田の風景
亀石につづく遊歩道から、正面が細川山
ここからの眺めが大好きで、飛鳥に来るとこの場所から同じ構図の写真を撮ったほどだ。
この写真はその中の最初の1枚である。今は舗装されてしまったが、当時は素朴な土の道が続いている。


天武持統天皇陵
中央集権国家体制を樹立した天武天皇と、その妻・持統天皇を合葬した陵墓。
堂々とした八角墳で、近くには草壁皇子の墓と見られる束明神古墳や文武陵などもある。
数ある天皇陵の中で、被葬者が確実なのは、ここ天武・持統天皇陵だけだと言われている。
先に亡くなった天武天皇の棺と、火葬された持統天皇の骨壺が並んで安置されている。


天皇陵わきの柿の木


定林寺と定林寺跡の石柱
立部の集落を通る細い道から延びる参道を少し上がった場所に定林寺(じょうりんじ)があり、隣接地には春日神社、さらに参道を登ると国史跡の定林寺跡がある。
定林寺は、立部寺とも言われ、これは所在地の字名によるもののようだ。聖徳太子建立46ヵ寺のうちの一つだとも言われている。


橘寺
白壁の築地塀をめぐらした寺で、聖徳太子生誕の地とも伝えられる。
太子建立の七ヶ寺(法隆寺、中宮寺、法起寺、橘寺、四天王寺、広隆寺、葛城寺)の一つと伝えられている。


橘寺北側の白壁、うしろに細川山


橘寺の二面石(左)と三光石(右)
太子堂の横手にある二面石は、人間の善と悪の2つの心を彫ったものという。
聖徳太子が推古天皇の仰せにより、勝鬘経(しょうまんきょう)を3日間にわたりご講讃された時、太子の冠から日月星の光が輝いたと伝えられているのが、三光石の由来である。


塔礎石


岡寺山門
西国三十三ヶ所第7番札所として知られる。



岡寺本堂
寺の境内には桃山時代に造られた朱塗りの仁王門と本堂、書院、大師堂などが配置されている。
本尊は、天平時代の作と伝わる高さ4.5メートルの如意輪観音坐像(重文)。
塑像としては、日本最大とされている。


岡寺の三重塔


三重塔は昭和61年秋に弘法大師記念事業として、510年ぶりに再興されたということで、落慶直後の真新しい塔であった。


板蓋宮伝承地にある大井戸跡 奥に見えるのが甘樫の丘
飛鳥板蓋宮(あすか いたぶき の みや)は、7世紀中葉に皇極天皇が営んだ宮。


焼畑


畝傍山(右)




浄御原(きよみがはら)伝承地
7世紀後半の天皇である天武天皇と持統天皇の2代が営んだ宮。近年の発掘成果により同村、岡の伝飛鳥板蓋宮跡にあったと考えられようになっているようだ。


飛鳥資料館 特別展「壬申の乱」


資料館の庭にある石遺跡(復元したもの)


須弥山石


吉備池
桜井市吉備。この池は新しい用水池で古代の磐余の池ではないが、眺めがよく歌碑も立っている。
吉備池の築堤には大津皇子の辞世の歌といわれる万葉歌「百伝ふ磐余の池に鳴く鴨を…」(3-416)の歌碑が建てられている。


大伯皇女の歌(吉備池西堤)
うつそみの 人にあるわれや 明日よりは
二上山を 弟世(いろせ)と わが見む  →万葉アルバム


大津皇子の歌碑(吉備池北堤)
ももづたふ 磐余(いわれ)の池に 鳴く鴨を
今日のみ 見てや 雲隠りなむ  →万葉アルバム


東池(磐余の池跡の一部)
桜井市池之内の御厨子観音そばにあり、このあたりに広がる低地が古代の磐余の池跡ではないかといわれている。その一端に小さな東池がある。

万葉アルバム(奈良):桜井、磐余

2010年02月14日 | 万葉アルバム(奈良)

ももづたふ 磐余(いはれ)の池に 鳴く鴨(かも)を
今日のみ見てや 雲隠りなむ
   =巻3-416 大津皇子=


 磐余の池に鳴いている鴨を見るのも今日限りで、私は死ぬのだろうか。という意味。

 大津皇子(おおつのみこ)は天武天皇の御子。「詩賦の興(おこり)は大津より始まる」といわれたほど文筆を愛し、容貌も大柄で男らしく人望も厚かった。草壁皇子に対抗する皇位継承者とみなされていたが、686年、天武天皇崩御後1ヶ月もたたないうちに、反逆を謀ったとして処刑された。草壁の安泰を図ろうとする持統皇后の思惑がからんでいたともいわれる。
 
 この歌は、大津皇子が刑の宣告を受けて詠んだ歌。もはや逃れることのできない死をはっきりと予感し、「磐余の池に鳴く鴨」たちの姿に、永続する声明の確かさをしっかりと見据えなおそうとする皇子の、空しくも悲痛な叫びが吐露されている。大津の妻・山辺皇女(やまべのひめみこ)は、夫の死に際して悲しみのあまり裸足で外へ飛び出し、後を追ったという。「ももづたふ」は「磐余」にかかる枕詞。「磐余の池」は奈良県櫻井市にあった池。「雲隠る」は死んでいくことを意味する。

桜井市吉備にある吉備池北堤にこの歌碑が建っている。この吉備池がいにしえの磐余の池と推定されている。



万葉アルバム~花、たちばな

2010年02月11日 | 万葉アルバム(自然編)

風に散る 花橘を 袖に受けて
君がみ跡と 偲ひつるかも    
   =巻10-1966 作者未詳=


 風に吹かれて橘の花がわが袖にこぼれ散ってきました。もうお会いできないあのお方、今頃はどうされているのでしょうか。という意味。

 かって通ってきてくれた人が疎遠になったか、あるいは亡くなったのだろうか、
二人して眺めた思い出の橘の木の下に佇む女性。そしてその上に花びらが
はらはらと散りかかる、という絵画的でかつ幻想的な歌。

 橘は、垂仁天皇の命を受けてタジマモリが常世(仙境)に赴き、持ち帰ったと伝えられている。
そのため、宮廷の貴族たちは好んで庭園に橘を植えた。
初夏には五弁の白い花を咲かせ、芳しい香りを漂わせる。 

『万葉集』においても「たちばな」は愛詠され、なんと六十九首も詠まれている。

 平安時代になると、紫宸殿の前庭に左近の桜、右近の橘と並べて植えられ、
以来、橘は格別の品格を持つ花とされるようになる。

万葉アルバム(明日香):稲淵

2010年02月08日 | 万葉アルバム(明日香)

明日香川 明日も渡らむ 石橋の 
遠き心は 思ほえぬかも  
   =巻11-2701 作者不詳=


 明日香川を明日は渡って逢いに行きましょう。私の心は、石橋のように飛び飛びじゃなくって、ずっ~とあなたのことを思っていますよ。という意味。

飛鳥の石舞台を過ぎて、飛鳥川上流に向かって30分程歩くと、「日本の棚田100選」に選ばれた「稲渕棚田」が見えてくる。秋には棚田に彼岸花の群落が赤色を染めて美しい景観である。
さらに飛鳥川の上流、稲淵では、勧請橋(かんじょう)を渡り、稲渕の道を吉野方面に向っていくと、飛び石への案内板がある。古代においては、飛鳥川に橋はなく、また、板橋を掛けても、昔は今と違い鉄砲水が多く、氾濫を繰り返し流されるので、飛び石が橋の役目を果していた。川床に石を並べて渡れるようにした石橋は、その昔、若い男女が逢瀬を急ぐ道でもあったのである。



1986年10月 飛鳥(越・佐田から桧隈へ)

2010年02月01日 | 思い出の大和路探訪
 <1986年10月12日(日) 飛鳥(岩屋山古墳-中尾山古墳)>

 飛鳥駅の西側に広がる越と佐田の岡は訪れる人も少ない静かなところ、そこから飛鳥の桧隈の里を経て話題の高松塚を回りました。

コース:飛鳥駅・・・岩屋山古墳・・・牽牛子塚古墳・・・マルコ山古墳・・・束明神古墳・・・岡宮天皇陵・・・桧隈寺跡・・・文武天皇陵・・・高松塚古墳・・・飛鳥駅


越の村落


岩屋山古墳
近鉄飛鳥駅の裏側にある越の集落の中にある。
研磨された花崗岩の切石を積んだ精緻な石室を持つ古墳として知られている。
「岩屋山式」石室の標準的な存在である。


牽牛子塚古墳
終末期古墳で別名「御前塚」「あさがお塚古墳」と呼ばれている。
被葬者については古墳の立地や歯牙等から斉明天皇と間人皇女の合葬墓と考える説が有力のようだ。


真弓の丘
近鉄飛鳥駅の西方に広がる低い丘陵地帯が真弓の丘。草壁皇子(くさかべのみこ)が眠っている。
万葉歌”外に見し 真弓の岡も 君ませば 常つ御門と 侍宿(とのい)するかも”(草壁皇子に勤めていた舎人が皇子が亡くなり葬られた時に歌った歌)。


マルコ山古墳
奈良県で初めて発見された六角形墳として有名。
築造は7世紀末~8世紀初め、終末期の古墳。被葬者は不明だが天智天皇皇子・川島皇子の墓の説がある)


佐田の岡
”朝日照る 佐田の岡辺に 群れ居つつ 我が泣く涙 やむ時もなし”
(人麻呂追悼挽歌)


束明神古墳
春日神社の境内にある八角形墳で、草壁皇子の墓という説が有力である。
中央部に墳丘をつくった大規模な終末期古墳。 


岡宮天皇陵(草壁皇子墓)
のどかな田園を望む緑濃い真弓の丘の中腹にある。
現在「公式に」草壁皇子の陵とされているのが、この岡宮天皇陵。


桧隈の里(ひのくまのさと)
桧隈の里は飛鳥時代に百済から来られた渡来人が多く住んだ里。
明日香の里に当時「飛鳥寺」「川原寺」「山田寺」、そして数々の天皇の御殿や施設が造られたが、それらの建築物は全て渡来人の技術によるものだといわれている。


桧隈寺跡
ここは7世紀に建立された東漢(ヤマトノアヤ)氏の氏寺があったところ。
西側に中門があり、その門を入ると正面に塔、左手に講堂、右手に金堂が配置されていた。 現在は大きな礎石が草むらに残り、柵に囲まれて重要文化財の十三重の石塔が建っている。


於美阿志(おみあし)神社
檜隈寺跡に祀られている於美阿志神社。
早くから飛鳥に根づいたと思われる東漢(ヤマトノアヤ)と呼ばれる人々の祖・阿智使主(アチノオミ)氏を祀るとされている。


文武天皇陵
天武天皇と、持統天皇の孫である文武天皇は24歳で若死にし葬られている。


文武天皇陵付近から越・真弓の岡方面を望む


高松塚古墳
藤原京期(694年~710年)に築造された終末期古墳で、直径23m(下段)及び18m(上段)、高さ5mの二段式の円墳である。1972年に極彩色の壁画が発見され有名になった。


高松塚古墳(右)と刈入れ前の田んぼが連なる風景
発見から14年しか経っていないので、まだひなびた田園風景が見られる映像。
現在では歩道や周辺が整備されたため自然の面影がなくなったのが残念である。


中尾山古墳
高松塚古墳に向かう途中にある八角形の古墳。八角形ということは天皇陵である
可能性が高い。文武天皇の陵墓ではないかとの説が有力。