飛鳥への旅

飛鳥万葉を軸に、
古代から近代へと時空を越えた旅をします。
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1987年12月 当麻の里

2010年06月28日 | 思い出の大和路探訪
<1987年12月 当麻・曼荼羅の里 近鉄文学散歩>

 二上山に抱かれた静かな当麻の里を訪ねるとき、ことに夕陽に映える秀峰を間近に仰いだときなどは、美しい曼荼羅が、中将姫の物語りが、この地に伝えられているのも当然だと実感される。

コース:二上山駅-専称寺-鳥谷口古墳-当麻山口神社-石光寺-中将姫の墓-当麻寺-当麻寺駅

講師:奈良芸術短期大学教授 木村芳一氏


専称寺(浄土宗) 二上山駅のすぐ南、香芝町の畑集落の内にある


加守付近を二上山を横に眺めながら歩く


鳥谷口古墳全景  手前:大池、中央:鳥谷口古墳、奥:二上山
新池の改修工事に伴って発見された。石棺の状況から古墳時代の終末期のものと考えられている。在地の名門当麻氏に連なる誰かの墓と推定されるが、大津皇子の墓ではないかとの説もある。


池の上の小山中腹に古墳がみえる


鳥谷口古墳


当麻山口神社
神社の北側の道は二上山の雌岳の南を河内に越える岩屋越であり、古事記にあらわれる古道と推定される。当麻氏の祖神、麻呂子皇子とその妃を祀っっている。


神社境内で講師に説明を聞く


石光寺
中将姫が曼荼羅を織るために、蓮糸を洗い染めた井戸、染井のあることから、染寺とも呼ばれている。創建は出土品から仏白鳳時代といわれている。


染の井と糸かけ桜


寒ボタンの寺としても名高い


寒ボタンが並ぶ境内


中将姫の墓と十三重石塔(当麻北墓と呼ばれる共同墓地の一部)
中将姫の墓塔と伝える層塔(現在は三層だけ残っている)と十三重石塔が並んで建っている。層塔は平安後期、十三重石塔は鎌倉末期と推定されている。


当麻寺、うしろに二上山、左手前が麻呂子山
当麻寺といえば中将姫と牡丹の寺としてあまりに有名。
曼荼羅をはじめとして、数多くの重要な建築・彫刻などの古文化財を要している。


本堂前の石手水船(鎌倉末期の銘があり、日本でも最古に近いもの)
奥にあるのが中将姫池


右手:西塔、左手:東塔
東塔は奈良時代末、西塔はやや後で平安初期といわれる。
創建当初の三重塔が二基とも残るのはここだけ。


(左)西塔の相輪:水煙下部に唐草文を配している
(右)東塔の相輪:水煙は魚の背骨を思わせる形


うしろ曼荼羅堂(本堂)

万葉アルバム(奈良):大坂越え・竹内峠

2010年06月24日 | 万葉アルバム(奈良)

大坂を 我が越え来れば 二上に
もみじ葉流る しぐれ降りつつ
   =巻10-2185 作者不詳=


やっと峠を越えてきたのに、二上山は時雨が降りしきり、せっかく色づいた木の葉が散ってしまう。という意味。

「大坂」は奈良県北葛城郡二上山の北方を越える坂で、竹内峠であると思われる。
推古天皇21年(613年)冬11月、「難波より京へ大道を置く」と最古の官道の建設を示す記載が日本書紀にある。これをほぼ踏襲しているのが、竹内街道。二上山の麓の竹内峠を超えて大阪と奈良を結ぶ道・・悠久の歴史とロマンにあふれる道である。

聖徳太子もこの峠を越えて四天王寺と飛鳥を往復したとされる。また、遣隋使などの使節もこの峠を越えて飛鳥京を訪れた。当時は難儀をしてこの峠越えをしたのであろうか。現在は峠のすぐ北を深く掘り下げられ、国道166号が通っており、面影は薄れている。

この万葉歌碑は二上山雌岳山中に建っている。


1987年11月 晩秋の飛鳥

2010年06月21日 | 思い出の大和路探訪
 11月下旬秋も深まる頃、上平田峠を越える人は見当たらない。静かな佇まいの飛鳥の風景である。夕方雲海の中に浮かぶ大和三山の景色は感動的だった。

コース:天武持統陵-定林寺跡-上平田-上平田峠-稲淵-阪田寺跡-都塚古墳
    -石舞台-飛鳥資料館(壬申の乱展)-奥山久米寺-大官大寺跡-藤原宮跡


天武持統天皇桧隈大内陵




定林寺跡付近より


定林寺跡手前の寺院


定林寺跡


上平田の民家


上平田峠からの南淵山 右に稲淵の集落を望む


稲淵付近 多武峰連山を望む


稲淵付近 多武峰連山を望む


都塚古墳


坂田の民家


飛鳥川にかかる神所(かんじょ)橋


南淵山と稲淵の集落


石舞台


藤原宮跡より飛鳥方面


耳成山と藤原宮跡


藤原宮跡


香久山


畝傍山


奥山久米寺




大官大寺跡

万葉アルバム(奈良):橿原、畝尾都多本神社

2010年06月17日 | 万葉アルバム(奈良)

哭沢(なききは)の 神社(もり)に神酒(みわ)据ゑ 祈れども
我が大君は 高日(たかひ)知らしぬ
   =巻2-202 檜隈女王=


 哭沢の神社に神酒を供えて皇子がこの世に止まれるように祈ったけれども、皇子は天に昇ってしまった。という意味。

「高日(たかひ)知らす」とは、《天上を治める意から》天皇・皇族など高貴の人が死去することをいう。

高市皇子の病の快癒のため哭沢神社に神酒を手向け祈った檜隈女王であったが、その甲斐なく皇子はお亡くなりになったと歎いて歌った歌。

万葉歌碑は橿原市木之本町の畝尾都多本(うねびつたもと)神社の境内にある。
哭沢の神社は畝尾都多本神社のこと。祭神は「啼沢女神」。
神社の由緒によると、「伊耶那美神が火之神を出産したときに亡くなられたので、伊耶那岐命は悲しまれ、伊耶那美神の枕元に腹這いになったり、足元に腹這いになって大声で泣いた。その時に流れた涙から生まれた神が香具山の畝尾にある木のもとに坐す泣沢女と呼ばれる神だ。」と記されている。
伊耶那岐命が腹這いになりながら泣くというのは、葬送で行われる、死者を復活させる呪術的な儀礼、哭礼の起源とされている。

1987年11月 多武峰から飛鳥へ

2010年06月14日 | 思い出の大和路探訪
<1987年11月 「風吹き返す多武峰・飛鳥」万葉の大和路を歩く会>

 紅葉真っ只中の多武峰談山神社は人で賑わっていたが、多武峰から飛鳥への山道は人知れず静かな佇まいだった。

コース:桜井駅=多武峰・談山神社・・・冬野・・・畑・・・石舞台・・・島の宮跡・・・橘寺・・・川原寺跡=近鉄橿原神宮駅

講師:奈良県立橿原考古学研究所主任研究員 亀田博氏


談山神社
天武朝に藤原鎌足の長子・僧定慧が、父の遺骨を阿威山から移葬し、十三重塔を建てたのが始まり。










談山神社から冬野へ


西大門跡付近


冬野への道


多武峰から飛鳥を望む  奥:二上山、中:畝傍山、手前:甘橿丘


冬野
標高650m、明日香村最高所の集落。南は竜在峠を経て吉野町滝畑に通じる。


尾曾、毘沙門天と大ケヤキ


上(かむら)付近の民家


上(かむら)付近 尾曾からの道、道標と石灯籠


上(かむら)より多武峰を望む


細川付近


上居(じょうご)の立石


細川橋と多武峰の山々


上居橋より多武峰を望む


石舞台


石舞台公園で講師の説明


島の宮遺跡 遺跡の上に土砂がうめられていた


勾(まがり)の池跡
万葉集に、
「島の宮 勾(まがり)の池の 放(はな)ち鳥 人目に恋ひて 池に潜(かづ)かず」
(巻2-170)


川原寺での説明


橿原神宮前駅から畝傍山



万葉アルバム(奈良):奈良、東大寺

2010年06月10日 | 万葉アルバム(奈良)

わが背子と 二人見ませば 幾許(いくばく)か
この降る雪の うれしからまし
   =巻8-1658 光明皇后=


 わが夫の君と、もし二人で見るのなら、どんなにか、いま降っているこの雪が喜ばしく満足に思われることであろう。という意味。

光明皇后(こうみょうこうごう)が、聖武天皇に贈った歌。
光明皇后は聖武天皇と同じ年に生まれ、その皇太子の時に数え年16で妃、即位の時に大夫人となり、そして長屋王の変を経て、天平元年(729)に皇后となった。
756年(天平勝宝8年)に聖武天皇崩御し、その遺愛のかずかずが光明皇太后から大仏に献じられた。すなわち、今日の正倉院宝物の中心となっている。その中に皇后の自筆、「藤三娘」の自署ものこり、その臨書の中には、「雲霏雪白」、雪の日に炉辺で一緒にお酒を飲みたい、と故旧を偲ぶ手紙の手本もあったようで、この歌と重なるところが興味深い。

1987年10月 宇陀・阿騎野

2010年06月07日 | 思い出の大和路探訪
<1987年10月 「かぎろひ立つ宇陀・阿騎野」>

万葉の大和路を歩く会に参加。
今回のコースは桜井出雲から狛峠を越えて宇陀・阿騎野に至るハイキングコースでもあった。そのため峠付近への登りは結構きつかったのを覚えている。
秋の収穫を終えたばかりの稲穂が随所にみられ、気持ちのよい歩く会であった。

コース:近鉄桜井駅=出雲・・・狛峠・・・麻生田・・・嬉河原・・・阿紀神社・・・長山歌碑の丘
    ・・・大宇陀町中央公民館=近鉄榛原駅 (徒歩約10km)

講師:武庫川女子大学教授 清原和義氏

桜井からバスで桜井市出雲に到着
この辺りは「出雲」地区と呼び、奈良格子の家も見かけるところである。


十二柱神社(桜井・出雲)
この「狛犬」は台座を4人の力士が持ち上げている珍しいものである。
ここは「武烈天皇泊瀬列城宮跡」とも伝えられている。


武列天皇・泊瀬列城宮跡碑


出雲から狛峠に向かう途中 出雲を望む(うしろ三輪・巻向山)


狛峠への道


狛峠付近


女寄付近から桜井市へ


榛原方面 貝ヶ平山


半坂付近より宇陀を望む  →万葉アルバム


宇陀の山々 伊那佐山


半坂付近


阿紀神社の森近くの道


阿紀神社


能舞台と万葉歌碑  →万葉アルバム


長山丘陵(かぎろいの丘)


かぎろひの歌碑前で説明する清原和義先生


万葉歌碑(柿本人麻呂)
東の野にかぎろひの 立つ見えて かへり見すれば 月傾ぶきぬ →万葉アルバム


かぎろいの丘より東の野を望む
左に高見山が見える。かぎろいは高見山より少し右のあたりから出るようだ。


かぎろいが見られる風景(「万葉散歩」サイトより拝借)  →万葉アルバム

大宇陀町中央公民館をあとにバスで近鉄榛原駅へ

万葉アルバム(奈良):桜井、粟原廃寺跡 ゆずりは

2010年06月03日 | 万葉アルバム(奈良)

いにしへに 恋ふる鳥かも 弓弦葉(ゆずりは)の
御井の上より 鳴き渡り行く
   =巻2-111 弓削皇子=


 昔を懐かしむ鳥でしょうか、ユズリハの井戸の上から鳴きながら飛んで行きます。という意味。


いにしへに 恋ふらむ鳥は ほととぎす
けだしや鳴きし 我が恋ふるごと 
   =巻2-112 額田王=


 ・・・昔を恋いしがるのはホトトギス。私が恋しく思うように鳥もまた鳴いたのでしょう。という意味。

これは相聞歌で、弓削皇子が吉野から額田王に送り、額田もそれに応じた歌だとされている。
 父と同時代を生き今は老いてしまった女性に子が送った歌。当時、弓削皇子は20代、額田王は60代とも言われいる。
 ホトトギスは歌にあるように懐古の鳥、ユズリハは新芽とともに古い葉が皆落ちて「譲る」のがその名の由来になっている。
 弓弦葉の御井と呼ばれた井戸が、何処にあったのかは全く不明だそうだ。

 万葉歌碑は桜井市大字粟原の粟原寺跡(おおばらでらあと)にある。

 粟原集落の天満神社境内とその隣接地に、塔と金堂の跡が残っている。
粟原寺建立の次第を刻んだ三重塔伏鉢(国宝・談山神社蔵)の銘文によると、仲臣朝臣大嶋が草壁皇子のために建立した寺で比売朝臣額田が持続天皇8年(694)から造営を始め、和銅8年(715)に完成したことがわかっている。

 粟原寺跡にあった説明板によると、「 当地は、有名な萬葉の女流歌人・額田王の終焉の地だ」と言う伝承が遺されている。
額田王の姉といわれる鏡王女の墳墓が粟原寺の近くにあり、額田王は姉の墓をも守りながら、晩年をこの地で過ごしたのは、夫であり草壁皇子の父でもある天武天皇のゆかりの地であったからだろうか。


ゆずりは:4~5月古い葉の付け根に茶色の小花を咲かせ、春の新葉を見とどけて古い葉が散るので譲り葉と呼ばれる。円形の実は秋には藍色に熟す、政治家や企業人もかくありたい・いつまでも権威にしがみついていては若い力が育たない・目出度い植物として正月の鏡餅の飾りに使われる。雄雌異株、葉の茎が赤い特徴がある。葉の表面は光沢があり、日当たりの良い暖かい山に生える。

こちらの万葉歌碑は千葉県袖ケ浦市の袖ヶ浦公園万葉植物園に建っているもの。