飛鳥への旅

飛鳥万葉を軸に、
古代から近代へと時空を越えた旅をします。
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万葉アルバム(奈良):山の辺、天理市役所

2011年02月28日 | 万葉アルバム(奈良)

我妹子(わぎもこ)や 我(あ)を忘らすな 石上(いそのかみ)
袖布留(そでふる)川の 絶えむと思へや
   =巻12-3013 作者不詳=


私のことを忘れないでくださいね。布留川の流れが絶えないように…。という意味。

布留の高橋。そこを渡りつつ妻のもとへと急ぐ男の姿を詠んだ歌である。

万葉の布留の地名を今に残す場所に建つ石上神宮。すぐそばを“万葉の布留川”が流れる。竜王山を源に天理市内を横切り初瀬(大和)川へ。石上神宮辺りを境に下流はコンクリートで護岸され素っ気なくなったが、上流はまだ自然が残り、万葉人の歌ごころが伝わってくるところである。

この万葉歌碑は天理市役所の一角に立てられている。その脇にはおそらく布留川からの流水であろうか、水清く流れている。

万葉アルバム 樹木、すぎ

2011年02月21日 | 万葉アルバム(自然編)

味酒(うまさけ)を 三輪の祝(はふり)が いはふ杉
手触れし罪か 君に逢ひかたき
   =巻4-712 丹波大女娘子=


三輪の祝部(はふり)が仕える神木に触れてしまった罰でしょうか貴方に会えないのは。という意味。

「味酒(うまさけ)」は「味酒(ミワ)」とも訓み、神酒として神に供えることから、
同音の三輪山に掛かる枕詞である。
「祝」は三輪の神に仕える神官をさす。「斎ふ杉」は標縄などを張り、神として祀られた杉をいう。

三輪山の主神「大物主(オオモノヌシ)」は酒の神でもあり、毎年新酒が出回る季節がくると、大神神社境内の杉の葉で緑も鮮やかな大形のマリモのような「杉玉」を作る。
11月14日の新酒仕込み安全祈願を祈る「酒祭り」の後、神社から小さな杉玉が全国の主要な酒屋に送られる。大和を歩くと酒屋の軒先に杉玉をよく見かける。

 この万葉歌碑は名古屋の東山植物園にある万葉の道に置かれているものである。(2010/12/24写す)

万葉アルバム(奈良):山の辺、崇神天皇陵

2011年02月14日 | 万葉アルバム(奈良)

玉かぎる 夕さり来れば さつ人の
弓月が岳に 霞たなびく
   =巻10-1816 柿本人麻呂歌集=


夕方になって巻向山の高峰である弓月が岳に霞がたなびいている、という意味で、春が近づきつつあるという気持ちを歌ったものである。

「玉かぎる」は玉がほのかに光を出すという意味で、「夕」に掛かる枕詞である。

「かぎる」・・「かぎろい」ですぐ思い出されるのは、柿本人麻呂の
ひむがしの 野にかぎろひの立つ見えて
かへり見すれば 月かたぶきぬ (巻1-48)
である。巻10-1816の歌は柿本人麻呂歌集となっていて柿本人麻呂と特定されていない。しかし歌から受ける印象から柿本人麻呂の歌と特定してよいのではないかと思う。

 山の辺の道付近には数多くの古墳が点在している。なかでも大和朝廷の創始者といわれる第10代崇神天皇陵は全長240mの壮大な前方後円墳、この付近から大和盆地が広く見渡され、振りむけば弓月が岳がそびえているのを目の当たりにすることができる。

この万葉歌碑は山辺の道の崇神天皇陵付近に置かれている。

万葉アルバム(関東):足柄万葉公園

2011年02月10日 | 万葉アルバム(関東)

足柄の 御坂(みさか)畏(かしこ)み 曇り夜の
我が下這(したば)へを 言出(こちで)つるかも
   =巻14-3371 東歌=


足柄の神の御坂を越えて行くとき、峠の神に恐れかしこむあまり、心の奥深くにしまっていた恋人の名を口に出してしまった、どうしよう。という意味。

当時は恋人の名前を口に出すことはタブーとされていた。

「下延(したば)へ」は、表面に表さずに心で思うこと。

神奈川県側の足柄峠が万葉集に詠われたことから足柄万葉公園が整備され、相模湾や江ノ島、三浦半島まで眺めることができる。また、尾根伝いに矢倉岳や金時山までハイキングコースが続いている。
この付近から見る富士山は、長い尾をひく裾野から雪をかぶった頂上まで手に取るように大きく壮大である。

足柄峠の近くの足柄万葉公園には、万葉歌碑が7基ある。
この万葉歌碑はこの7基のなかのひとつである。




万葉アルバム 花、さきくさ(ミツマタ)

2011年02月07日 | 万葉アルバム(自然編)

春されば まづさきくさの 幸(さき)くあらば
後(のち)にも逢はむな 恋ひそ我妹(わぎも)
   =巻10-1895 柿本人麻呂歌集=


春が来るとまず咲き出す三枝(さきくさ)のように無事でいたなら後に逢えるのだから、そんなに恋しがらないでおくれ、わが妻よ。という意味。

「さきくさ」は現在の「みつまた」で樹皮は強く良質で和紙の原料になるが、寒い冬に真っ先に玉のような花をつけ、枝が三本ずつに分かれて成長していくので、それを「三つずつ割ける」から、「さきくさ」と言われたようだ。

 この万葉歌碑は名古屋の東山植物園にある万葉の散歩道に立っている。(2010/12/24写す)



万葉アルバム(奈良):山の辺、引手の山

2011年02月03日 | 更新情報
(写真を更新しました)


衾道(ふすまぢ)を引手(ひきで)の山に妹を置きて
山道(やまぢ)を行けば生けりともなし
   =巻2-212 柿本人麻呂=


衾道(ふすまぢ)の引手の山に、妻を置き去りにして山道を行くと、自分が生きているとは思われない、という意味。

柿本人麻呂が妻が亡くなったのを悲しんで詠んだ晩歌が長歌3首・短歌7首連続して巻2に収録されている。前書きに「泣血哀慟(きょうけつあいどう)して作る歌」とある。妻が死んでも日常は繰り返され、それがいっそう妻への思いを深めてしまうと、切々と詠っている。

衾道(ふすまぢ)の引手の山は、山辺の道ぞいにそびえる龍王山のことで、
その山麓に亡き妻が葬られている。
天理市中山町から東北の丘陵地一帯を古代から衾田(ふすまだ)と呼び、古代王族の埋葬地であった。通る道を衾道(ふすまじ)と呼んだ。衾とは古代、神事などで使われた白い布のことで、貴族はこの衾で棺を覆い、引手の山(龍王山)へ向かったのであろう。

現在は山辺の道のハイキングコースになっており、万葉時代の道とは明暗の格差が大きく、当時の雰囲気を掴むのは難しいが、そこに建っている歌碑が、いにしえの風を感じさせるようだ。