飛鳥への旅

飛鳥万葉を軸に、
古代から近代へと時空を越えた旅をします。
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群馬県高崎市 高崎自然歩道 石碑の路

2013年05月28日 | 万葉歌碑マップ 探訪

  (高崎自然歩道マップ(万葉歌碑番号):図をクリックすると拡大します)

 群馬県の高崎駅から上信電鉄に乗り換えて山名駅、そこから上信電鉄根小屋駅に至る高崎自然歩道。
山名丘陵に連なる散策路で、うち約5Kmは石碑の路と呼ばれ上野国を詠んだ万葉の歌を刻んだ石碑が道々24碑置かれている。(15ら22までは万葉歌でないため除外し、マップにはない新たな新1から新5を加えた)(2013/5/25)  →散策ブログはテニスとランとデジカメと
飛鳥時代の山の上碑(西暦681年)と、奈良時代の金井沢碑(西暦726年)があり、実際に幾首かが、このあたりで詠われていたことを物語っており、この歩道は、遠く万葉の時代のロマンの世界に浸ることができるのである。
鎌倉時代(1192年~1333年)には高崎~鎌倉を結ぶ鎌倉街道として栄えており、 また山名城址、根小屋城址へ通じる道は戦国時代の関東と信濃、越後を結ぶ重要な軍事道路でもあったようだ。


高崎自然歩道(24地点)


1地点:山名八幡宮参道
石碑の路碑
土木会社社長であった信沢克己さんが上野国歌の幾首かがこの山名丘陵付近(上代の佐野山)で唄われたとし、心の古里を大切に保存するため、佐野山に石碑の路を作ったのである。


2地点:山名八幡宮境内
山名宗全碑
凡そ例というは 其時が例也


3地点:山名御野立所跡
佐野山に 打つや斧音の遠かども 寝もとがころが おもに見えつる(巻14-3473)
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4地点:山の上碑への分岐点
吾が恋は まさかも悲し 草枕 多胡の入野の おくも悲しも(巻14-3403)
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5地点:山名貯水池
いにしへの 古き堤は 年深み 池の渚に 水草生ひにけり(巻3-378)
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6地点:山の上碑と古墳
日の暮れに 碓氷の山を 越ゆる日は 夫なのが袖も さやに振らしつ(巻14-3402)
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7地点
あすか河 塞くと知りせば あまた夜も ゐ寝てこましを せくとしりせば(巻14-3544)
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8地点:山名城址分岐点手前
遠しとふ こなの白峰に あほ時も あはのへ時も 汝にこそよされ(巻14-3478)
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9地点
ささの葉は み山もさやに さやげども 我が妹おもう わかれきぬれば(巻2-133)
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10地点
紫の 根延ふ横野の 春野には 君をかけつつ 鶯鳴くも(巻10-1825)
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11点:高崎商大分岐点手前
妹をこそ あひ見に来しか 眉引の 横山へろの 鹿なすおもへる(巻14-3531)
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12地点
利根川の 川瀬も知らず ただ渡り 波にあふのす 逢へる君かも(巻14-3413)
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13地点
わがいはろに 行かも人もが 草枕 旅は苦しと 告げやらまくも(巻20-4406)
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14地点:根小屋城址への分岐点手前
伊香保ろの さやかの堰手に 立つ虹の 現はろまでも さ寝をさねてば(巻14-3414)
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23地点
伊香保嶺に 雷な鳴りそね わが上には 故は無けれども 児らによりてぞ(巻14-3421)
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24地点
上毛野 可保夜が沼の 伊波為蔓 引かばぬれつつ 吾をな絶えそね(巻14-3416)
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25地点
上毛野 佐野の茎立 折りはやし 吾は待たなむゑ 今年来ずとも(巻14-3406)
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26地点
夕闇は 道たづたづし 月待ちて 行かせ吾が背子 その間にも見ん(巻3-709)
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27地点
伊香保風 吹く日吹かぬ日 ありといえど 吾が恋のみし 時なかりけり(巻14-3422)
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新1地点:小橋の上
嶺ろに 言はるものから 青嶺ろに いさよふ雲の 寄そり妻はも(巻14-3512) 
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新2地点
巌ろの 岨の若松 限りとや 君が来まさぬ 心もとなくも(巻14-3495)
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新3地点
難波道を 行きて来までと 吾妹子が 付けし紐が緒 絶えにけるかも(巻20-4404)
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新4地点
伊香保ろに 天雲い継ぎ かぬまづく 人とおたはふ いざ寝しめとら(巻14-3409)
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新5地点
あしひきの 山のしづくに 妹待つと 我れ立ち濡れし 山のしづくに(巻2-107)
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28地点:金井沢碑への分岐点
吾を待つと 君が沾れけむ 足曳の 山の雫に なりますものを(巻2-108)
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29地点:金井沢碑入口
八隅ししわご大君かむながら 神さびせすと芳野川たきつ河内に 高殿を高知りまして登りたち 国見をすればたたはなる青垣山 山神之奉る御調と春べは花かざし 持ち秋立てば黄葉かざせり ゆきそふ川の神も大御食に仕え奉ると 上つ瀬に鵜川えお立ちて下つ 瀬に小網さし渡す山川も 依りてつかふる神の御代かも(巻1-38)
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万葉アルバム(関東):茨城県、石岡市 フラワーパーク

2013年05月27日 | 万葉アルバム(関東)


筑波嶺の さ百合の花の 夜床にも
愛(かな)しけ妹ぞ 昼も愛しけ
   =巻20-4369 作者未詳=


 筑波山の小百合の花の夜床、そこでも愛しい妻は、昼でも愛しいよ。という意味。

防人として出発した男が後に残した妻を思慕する歌。夜の床のいとしい妻を思い出し、昼は昼でいとしいと感情を高ぶらせている。大らかな愛に溢れた歌で、その夜床を筑波山に咲く百合の花のようだと回想し妻のいとしい姿を重ねている。

万葉集には「かなし」という言葉が114語あり、悲哀、愛(かな)し=いとしい、懐古 、孤独、孤愁 と言った意味に使われているが、
この歌のように「愛(かな)し=いとしい」として用いられているのが一般的のようだ。

 この万葉歌碑は茨城県石岡市フラワーパーク内のふれあいの森の頂上に建っている。
高さ3.5mにおよぶ白みかげの自然石で、なんと現存する万葉歌碑の中で日本一大きいとされるものだ。


万葉歌碑碑文
碑の説明板に次のように記されている。
”常陸国那賀郡(なかのこほり)上丁(かみつよぼろ)、大舎人部千文(おほとねりべのちふみ)の歌である。天平勝宝七年(755)常陸国の部領防人使(ことりさきもりのつかい)の手を経て、大伴家持の許に集められた防人たちの歌の中の一首である。・・・その妻を残して、遠く離れた地に連れて行かれた防人の、妻を恋い、故郷を思う飾り気のない歌である。
大舎人部千文はもう一首「霰降り鹿島の神を祈りつつ 皇御軍士にわれは来にしを」と詠んでいる。こちらは天皇の兵士として、雄々しく、高揚した気持ちを歌いあげており、同一人物の心の中に、公私両面の感動があったことを知ることができる。大伴家持は万葉集の編纂にあたり、この二首を並べて採り上げている。
大舎人部千文その人については、伝わっていない。 平成六年 八郷町、ふれあいの森”


 石岡市にある茨城県フラワーパークは、約30ヘクタールの広大な花と緑の公園。園内には、世界のバラ500品種30,000株、ボタン3,500株、大温室には熱帯花木3,000本が植栽されている。


 7月下旬からは、この万葉歌を彷彿とさせるヤマユリが12,000株開花するというが、今回は見ることができず、その代りふれあいの森の散策路に連なる日本最大級のみごとなシャガの群落を見ることができた。


ふれあいの森の頂上にある展望台から眺めた筑波山(2013/5/10)
<クリックで拡大>

万葉アルバム(関東):茨城県、かすみがうら市 師付の田井

2013年05月19日 | 万葉アルバム(関東)


草枕 旅の憂いを 慰もる 事もあらんと
筑波嶺に 登りて見れば 尾花散る
師付(しづく)の田井(たい)に 雁がねも 寒く来鳴きぬ
新治(にひばり)の 鳥羽の淡海(あふみ)も 秋風に 白波立ちぬ
筑波嶺の よけくを見れば 長き日(け)に
おもひ積み来(こ)し 憂いはやみぬ
   =巻9-1757 高橋虫麻呂=


(現代訳)
 旅の悲しみを慰めることもあろうかと、筑波山に登って見ると、芒(ススキ)が散る師付の田に、雁も寒々と飛んで来て鳴いている新治の鳥羽の湖も、秋風に白波が立っている。筑波山の美しい景色を見ていると、長い間思い悩んできた憂えも止んだことである。

歌にある師付の田井とは、この辺一帯の水田を指したのではないかと思われる。
碑のある付近は、昭和四十八年まで鹿島やわらと称し、湿原の中央に底知れずの井戸があり、日本武尊や鹿島の神にまつわる伝説のあるところで、土地の人は、昔から「しづくの田井」と呼び、しめ飾りをして守ってきたところでもある。(平成四年一月 かすみがうら市教育委員会)


師付の田井全景<クリックで拡大>

 師付の田井の場所について
かすみがうら市中志筑(なかしづく)。万葉の師付(しづく)の読みが志筑(しづく)という地名で残っている。
国道138号線の池の下交差点から北へ500m程進んだところの「師付の田井入口」の案内板を左折し、細い道を700mほど進むと駐車場に着く。そこから舗装された畦道を北に100m余り行ったところの、水田に囲まれた中の畦道の突き当りに位置している。
畔道の両側にかれんな野草が咲いており、春風が心地よく感じる。ここからは筑波山は山陰になっており、畦道の先まで行かないと望めないようだ。


 師付の田井の碑の裏側に今でもこんこんと湧き出る水源があった。これが伝説にある井戸なのだろう。万葉時代から現代まで止まることなく湧き出ていることで、伝説の身近さを感じた。

 師付(志筑)の田井に伝わる昔話
師付の田井のあたりは戦前まで湿地帯でもあり、不断に泉の湧く井戸があった。この井戸は、弘法大師(空海)が巡錫の途中、この地に来られ、錫杖を使って地面を突くと清烈な水が湧き出し、長らく付近の稲作におおいに役立ち、村人にたいへん喜ばれているそうである。またこの志筑の田井は遠く鹿島神宮の御手洗池と地下でつながっているという。このように弘法大師によって湧き出した泉の例は、弘法井とか、御大師様水とかいわれ、全国いたるところに見ることができる。この他、弘法大師の足跡として近くの閑居山では金堀穴の前面にある大石の上に静座され瞑想にふけっていると、妙な音楽とともに阿弥陀如来のお姿が現れ、立派な経巻を残されて姿を消した。、大師はこれは如来の賜物であると、前面が平滑で数メートルの高さの岩の下部にある穴に納めて、石で蓋をして後世の人の手にふれないようにした。この大岩を聖教石といった。また、高倉の湯ケ作山に、阿弥陀宝蔵寺の跡があるが、弘法大師がここを通りかかった時に、大変疲れており、手にした杖を大地に突き立てると、その杖の下から温泉が湧き出し、この温泉で疲れを癒したと言い伝えられている。 (千代田村の昔ばなし 仲田安夫著 ふるさと文庫より)


万葉アルバム(関東):茨城県、石岡市 石岡民俗資料館(常陸国府跡)

2013年05月12日 | 万葉アルバム(関東)


庭に立つ 麻手(あさて)刈り干し 布さらす
東女(あづまをみな)を 忘れたまふな
   =巻4-521 常陸娘子=


 庭に植えた麻を刈って干したり、それを織って布にして曝したるする東国の女だからと言って、決してお忘れ下さいますな。という意味。

 藤原宇合大夫(ふぢはらのうまかひのまへつきみ)の遷任して京(みやこ)に上りし時に、常陸娘子(ひたちのをとめ)の贈れる歌一首とある。

「藤原宇合」は、藤原不比等の子。
「常陸娘子」の「常陸」は、常陸国(茨城県)。「娘子」は、女性に対する呼称。直訳すれば、「茨城県の娘さん」。国名を冠した「常陸娘子」のような呼び方は、その土地(国)を代表する意味が込められているという。したがって、ここでは、今で言うところの「ミス常陸」のような存在だったようだ。

「麻手」は、麻。麻布。
「布さらす」は、麻を織って布にして、それを曝(さら)す。

 中央の役人に対峙して純朴な娘が、地元の特産品を作るのに精一杯働いているんです、と胸を張って言っている。
万葉時代の地方の娘に純朴だが芯の強さがあったと歌に残されていることが、
あらためて万葉集のすばらしいところであると思う。

 この万葉歌碑は茨城県石岡市総社1丁目石岡小学校内にある民俗資料館の玄関脇に建っている。
このあたりは、常陸国の国府の役所、つまり、常陸国衙(こくが)が置かれていたところといわれており、石岡小学校の地から、多数の遺跡が発掘されている。
常陸の国は、古くは高、久自、仲、新治、筑波、茨城の六国が独立していたが、大化の改新の際、六国が統合されて誕生した。国府は石岡に置かれ、また国分寺、国分尼寺なども建てられた。


写真は、万葉歌碑と大きな榎(エノキ)
大きな木が往時の一里塚であったことを物語っている。
国府として栄え、そののちは一里塚として地元に愛されていた場所だったのであろうか。


石岡小学校校庭にかつての国府の遺跡が埋め戻されている。