飛鳥への旅

飛鳥万葉を軸に、
古代から近代へと時空を越えた旅をします。
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万葉アルバム(明日香):甘樫橋東

2012年04月02日 | 万葉アルバム(明日香)

今日もかも 明日香の川の 夕さらず
かはづ鳴く瀬の さやけくあるらむ
   =巻3-356 上古麻呂=


 今日もまた、夕方になるとカジカの鳴く飛鳥川。その川の瀬は清らかだろうなあ。という意味。

「夕さらず」=夕去らず、とは(夕を離れない意から)夕べごとに。夕方はいつも。
「明日」を「明日香」にかけて「今日」と対比させているところも面白い。

奈良遷都の後に、明日香の故郷を偲んで詠んだ歌だ。
作者の上古麻呂(かみのこまろ)については伝未詳である。

この万葉歌碑は甘樫橋東に建っている。
甘樫丘の麓を飛鳥川に沿って東に進むと甘樫橋にぶつかる。

万葉アルバム(明日香):雷橋右岸上流堤 飛ぶ鳥・・・

2012年02月27日 | 万葉アルバム(明日香)

飛ぶ鳥の 明日香の里を 置きて去なば
君があたりは 見えずかもあらむ
   =巻1-78 持統天皇=


  明日香の里をあとにして藤原の新しい都へ去って行ったなら、あなたの眠っておられるあたりは見えなくなってしまうのでしょうねえ。という意味。

万葉集の題詞によると、和銅3年に藤原宮から奈良の都に遷都する時に、元明天皇が御輿(みこし)を長屋の原に停めて、古里を望んで詠んだ歌とされている。「飛ぶ鳥の」は「明日香」にかかる枕詞。「君があたり」の「君」とは亡き夫、草壁。藤原京を出発せざるを得ない元明天皇の、愛する夫の墓陵への万感をこめた別れの歌としている。長屋の原は藤原京と平城京の中ツ道の中間に当たる、現在の天理市西井戸堂(いどんど)あたりと考えられている。

しかし、『万葉集略解』の本居宣長説では、万葉集の題詞は誤伝と見て、持統天皇の歌とみている。
私も、明日香の里をあとにして、というのは藤原宮をあとにと見るより、飛鳥京をあとにと見たほうが素直な解釈であると思う。
「君があたり」は、この歌を持統天皇作とみる立場からは、この「君」は亡き夫天武天皇を指すと思われる。

この万葉歌碑は、明日香村の雷橋右岸上流堤に建てられている。
飛鳥京から藤原京に移る際に、この飛鳥川を眺めながら行ったであろうと思われる。
観光化された現在の飛鳥川で、当時の飛鳥川を忍ぶことができるだろうか。

万葉アルバム(明日香):雷橋右岸上流堤 明日香川・・・

2012年02月20日 | 万葉アルバム(明日香)

明日香川 明日も渡らむ 石橋の
遠き心は 思ほえぬかも
   =巻11-2701 作者未詳=


 明日香川を明日は渡って逢いに行きましょう。私の心は、石橋のように飛び飛びじゃなくって、ずっ~とあなたのことを思っていますよ。という意味。

「遠き心は 思ほえぬかも」は直訳すれば、石橋の石と石との間が遠いようにあなたに対して遠くはなれた気持ちなど持っていません、ということ。

この歌の別の歌碑→飛鳥川上流付近にある歌碑についての万葉アルバムへ
 

この万葉歌碑は、明日香村の雷橋右岸上流堤に建てられている。
このあたりは最近になって散策路にとして整備され、万葉歌碑が点在し花も添えられている。
飛鳥川には柵がきれいに並び、護岸はコンクリート工事が施されているが、川辺には芦や草が茂り自然らしい景観を保っている。

万葉アルバム(明日香):雷橋右岸上流堤 我がやどの・・・

2012年01月30日 | 万葉アルバム(明日香)

我がやどの 蒔きしなでしこ いつしかも
花に咲きなむ なそへつつ見む
   =巻8-1448 大伴家持=


 私の庭に蒔(ま)いた撫子(なでしこ)は、いつになったら咲くでしょうか。咲いたらあなただと思って見ようと思っています。という意味。

大伴家持(おとものやかもち)が、大伴家持が最初に恋心を抱いたひとで、のちに正妻にした坂上大嬢(さかのうえのだいじょう)に贈った歌。家持は何と15,6歳。坂上大嬢はまだ12、3歳の少女であった。
坂上大嬢は大伴坂上郎女の娘で、郎女は大伴旅人の妹であり、家持は旅人の子、すなわち坂上大嬢は家持にとっては従妹にあたる。古代の日本においては、同族間での結婚は珍しいことではなかったのである。


撫子(なでしこ)は、ナデシコ科ナデシコ属の多年草で現在のカワラナデシコにあたる。秋の七草の一つ。7月~10月にかけて河原や野原に咲いていて、花の先が細かく切れ込んでいるのが特徴。淡い紅色が主だが、白い花もある。

万葉集には26首と多く詠まれており、恋の歌に使われている場合が多い。

この万葉歌碑は、明日香村の雷橋右岸上流堤に建てられている。
家持は奈良の佐保で育ち、明日香を訪れたことはなかったと思うが、名門豪族だった大伴氏の本拠地は、大和盆地東南部(橿原市・桜井市・明日香村付近)だったらしく、皇室・蘇我氏の本拠と隣接するここ明日香だったようだ。

万葉アルバム(明日香):雷丘

2012年01月16日 | 万葉アルバム(明日香)

大君は 神にしませば 天雲の
雷(いかずち)の上に 廬(いお)らせるかも
   =巻3-235 柿本人麻呂=


 大君(おほきみ)は神でいらっしるので、雷(いかづち)の上に仮宮をお作りになっていらっしゃる。という意味。

この歌は天皇が雷岳(いかずちのおか)に行幸した時、柿本人麻呂が作った歌で、
「天雲の雷の上に」という表現から雷岳は壮大な山のように感じられるが、実際はわずか高さ20メートルほどの小さな丘なのである。こんな小さな丘に天皇がいほりしたのは、雨乞いだったのではないかと考えられる。
ここでの「大君」は、持統天皇ではないかとみられている。
平安時代初期に編集された説話集・「日本霊異記」に、雄略天皇(5世紀後半ごろ)の侍者、小子部栖軽(ちいさこべのすがる)に呼びつけられた雷神が雷丘に落ち、地上の雷を捕らえたとあるほか、栖軽の死後に墓を建てたとの記述もある。
当時すでに雷神が雷丘に落ちたという伝承があり、雨乞いの重要な場所だったのであろうか。

この万葉歌碑は、雷丘の道路脇に建てられている。


万葉アルバム(明日香):羽易(はがひ)の山

2010年12月14日 | 万葉アルバム(明日香)

うつせみと 思ひし時に 取り持ちて わが二人見し
走出の 堤に立てる 槻(つき)の木の こちごちの枝の
春の葉の 茂きがごとく 思へりし 妹にはあれど
頼めりし 子らにはあれど 世間(よのなか)を 背(そむ)きしえねば
かぎるひの 燃ゆる荒野(あらの)に 白栲の 天領巾隠り(あまひれがくり)
鳥じもの 朝立ちいまして 入日なす 隠りにしかば
我妹子が 形見に置ける みどり子の 乞(こ)ひ泣くごとに
取り与ふ 物しなければ 男じもの 脇ばさみ持ち
我妹子と 二人わが寝し 枕付く 妻屋のうちに
昼はも うらさび暮らし 夜はも 息づき明かし
嘆けども 為(せ)むすべ知らに 恋ふれども 逢ふよしをなみ
大鳥の 羽がひの山に 我が恋ふる 妹はいますと
人の言へば 岩根さくみて なづみ来し よけくもぞなき
うつせみと 思ひし妹が 玉かぎる ほのかにだにも
見えなく思へば
   =巻2-210 柿本人麻呂=


(大意) この世の人であった時に、手に手を取り合って私たち二人が見た、走り出るとすぐの堤に立っている槻の木の、あちこちの枝に春の葉が繁っているように思いを寄せた妹ではあるが、たのみにしていた子供たちではあるが、世の中の道理にそむくことは出来ないから、かぎろいのもえる荒野に、白い美しい領巾(ひれ)に身をかくして、鳥のように朝立って行かれて、入日のように隠れてしまったので、吾妹子の形見に置いて行ったみどり児が、何か欲しがって泣くごとに、取って与える物もないから、男だのに子供を脇にかかえて、吾妹子と二人で寝た嬬屋の中で、昼は昼で心さびしく暮らし、夜は夜でため息をついて明かし、嘆くのだが、何としてよいか分らず、恋しく思っても逢う手だても無いので、羽易の山に恋しい妹はおられると人の言うままに、岩を踏み分けて難渋してやって来たが、よいこともない。
この世の人だと思っていた妹が、ほのかにさえも見えないから。

柿本人麻呂が妻を亡くして号泣して創ったという長歌である。

反歌の中に、有名な次の歌もある。
「衾道を 引手の山に 妹を置きて 山道を行けば 生けりともなし」(巻2-212)

この歌碑は明日香村橘川原バス停南に建ち、そこから龍王山(引手の山)、三輪山、巻向山が羽を広げているように見える。この様を柿本人麻呂は歌の中で「大鳥の羽易(はがひ)の山」と詠んでいる。

万葉アルバム(明日香):万葉文化館

2010年12月07日 | 万葉アルバム(明日香)

君を待つ 松浦(まつら)の浦の 娘子(をとめ)らは
常世(とこよ)の国の 海人娘子(あまをとめ)かも
   =巻5-865 山上憶良=


あなたを待つという松浦川の浦の少女たちは、神仙の国の天女たちですね、という意味。

常世の国(とこよのくに)とは、古代人が海の向こうの遠いところにあると考えていた想像上の理想の国。

神亀元年(724年)に「太宰帥」となって、北九州に赴任した大伴旅人は、鮎捕りの神事を見て、松浦の鮎捕る乙女に一目ぼれした男の恋心と乙女とのやりとりを記録した。
同時期、筑前守であった、山上憶良は旅人の邸宅の宴にまねかれるなどして交流もあった。彼が、この松浦鮎乙女の一件を手紙で知って、歌ったのがこの歌である。
松浦といえば、もうひとつ「松浦佐用姫」のヒレ振り伝説があり、憶良も歌を残しているようだ。

 この歌碑は明日香の万葉文化館庭園に建っている。万葉文化館は飛鳥池工房遺跡に建てられており、地下1階の特別展示で飛鳥池工房跡の発掘品の展示(富本銭・ガラス玉)工房跡の復元展示を観ることができる。

万葉アルバム(明日香):橘寺東門東・飛鳥川沿い

2010年11月30日 | 万葉アルバム(明日香)

明日香川 瀬々の玉藻の うち靡(なび)き
心は妹(いも)に 寄りにけるかも
   =巻13-3267 作者未詳=


明日香川の瀬に生えている藻が流れに揺れ動くように、私の心はあなたになびいています。という意味。

瀬は、川の浅いところ(浅瀬)や川の流れが急なところを指す。

飛鳥川は竜門、高取の山塊を源流にし、石舞台の近くで多武峰からきた冬野川と合流、飛鳥の中心部から藤原京を斜めに通って、やがて大和川にそそぎ込む。
古代人にとって飛鳥川は暮らしの動脈であり、心のよりどころとなった母なる川である。
万葉集中、もっとも多く詠まれている川がこの飛鳥川。今は川幅はせまく水量も多くはないが、祝戸(いわいど)から上流は瀬音高く「水脈(みを)早み」の清流になっている。

この万葉歌碑は明日香の橘寺東門東・飛鳥川沿いに建っている。

万葉アルバム(明日香):飛鳥坐神社

2010年11月01日 | 万葉アルバム(明日香)

大君は 神にしませば 赤駒の
腹這ふ田居たいを 都と成しつ
   =巻19-4260 大伴御行=


天皇は神でいらっしゃるので、栗毛の馬が腹まで浸かって耕作する田んぼでさえ都にしてしまった。という意味。

 壬申の乱(672)平定後、天武天皇が飛鳥浄御原宮を築いたことを讃えた歌だが、天武天皇の人間業とは思えない力を持っていることを賛美している。
日本の国名を従来の「倭」から「日本」に改め、新しい王朝が出来たことを宣言、また「天皇」という称号を採用し、日本と中国が対等で従属国にはならないことを宣言した。天武天皇により日本に初めて統一国家が誕生したといえる。

 飛鳥浄御原宮の近くにある飛鳥坐神社横にこの歌碑が立っている。歌碑は犬養孝先生の揮毫である。

 飛鳥坐神社は甘樫の丘の東方、飛鳥の集落の突き当たり、こんもりとした鳥形山と呼ばれる丘に鎮座している。祭神は事代主命(ことしろぬしのみこと)・高皇産霊命(たかみむすびのみこと)・飛鳥三日比売命(あすかみかひめのみこと)・大物主命(おおものぬしのみこと)の四座。境内に並ぶ陽石(男性の性器の形をした石)の数々はお参りして子宝に恵まれた人が奉納したものといわれ、現在も厚く信仰されている。
また、毎年2月に豊作と子孫繁栄を願う伝統の奇祭「おんだ祭り」が行われる。

万葉アルバム(明日香):飛鳥橋北

2010年10月11日 | 万葉アルバム(明日香)

明日香川 しがらみ渡し 塞かませば
流るる水も のどにかあらまし
   =巻2-197 柿本人麻呂=


明日香川にしがらみをかけ渡してせきとめんとしたら、流れる水もゆったりしているだろうに。という意味。

 奈良県高市郡の山中から、冬野川と合流して明日香村を北西に縦断するように飛鳥川は流れている。
「しがらみ」は、本来水量を調節したりする為のものだが、歌の中では「自然な流れを遮る物」として用いられる場合が多い。早世した皇女を悼んで、川にしがらみがあれば、流れはもっと緩やかであったであろうに、そのようにあってほしかったと詠っている。

この歌は、明日香皇女のきのへの殯宮の時、柿本朝臣人麻呂の作れる歌一首并に短歌とある。
明日香皇女(あすかのひめみこ、生年不詳 - 文武天皇4年4月4日(700年4月27日))は、天智天皇皇女。飛鳥皇女ともいう。母は橘娘(父:阿倍内麻呂)。同母の妹は新田部皇女。忍壁皇子の妻とする説がある。
文武天皇4年(700年)、浄広肆の位で4月4日に死去。もがりの折に柿本人麻呂が、夫との夫婦仲の良さを詠んだ挽歌を捧げた。
明日香皇女は、持統天皇の訪問を受けたり、彼女の病気平癒のために108人の沙門を出家させたりなど、他の天智天皇皇女に比べて異例の重い扱いを受けている。

 この万葉歌碑は高市郡明日香村飛鳥の飛鳥橋北に建つ。
写真の手前にあるのが槻の木、背後に見えるのが甘樫の丘である。(2011/11/14写す)

またこの橋のたもとに最近(平成23年5月)「槻の木広場」が整備された。
日本書紀に飛鳥寺に西門外にあった広場に槻(ツキはケヤキのこと)の大樹があり、さまざまな行事に使われたとある。ここで行われた有名な中大兄皇子と中臣鎌子の蹴鞠の会での出会いのエピソードは有名である。

万葉アルバム(明日香):大原の里

2010年09月27日 | 万葉アルバム(明日香)

大原の この市柴の いつしかと
わが思ふ妹に 今夜逢へるかも
   =巻4-513 志貴皇子=


大原の茂った雑木林の中でいつ逢えるかと思っていたが今夜やっと逢えたよ。という意味。

志貴皇子が歴史に登場するのは、679年天武天皇が皇后と6人の皇子たちを伴って吉野に行き誓いを交わした時。この6人とは、天武天皇の皇子4人(草壁、大津、高市、忍壁)と、天智天皇の皇子2人(川島、志貴)で、このとき、草壁が皇太子となったといわれているが、彼は天皇になることなく、この世を去ってしまう。志貴皇子の立場は微妙なものだったが、その警戒感からか、政治にタッチすることはほとんどなかったといわれている。大津皇子事件などから、身を守るために、目立たぬように一生を送ったが、後に彼の子の白壁王が光仁天皇として即位し、以後一貫して(現代に至るまで)その子孫が天皇となるわけだから、先見の明があったともいえそう。

 この万葉歌碑は明日香村・大原の里に建っている。

万葉アルバム(明日香):島の宮跡

2010年09月13日 | 万葉アルバム(明日香)

島の宮 上の池なる 放ち鳥
荒びな行きそ 君いまさずとも
   =巻2-172 草壁皇子の舎人=


島の宮の、上の池に放たれた水鳥よ。荒んだままで飛んでいかないで。皇子がいらっしゃらなくとも。という意味。

 日並皇子(ひなみしのみこ・草壁皇子のこと)に仕えていた女性(舎人)の歌。草壁皇子(天武天皇の子)はすでに亡くなっており、皇子の死を悼む歌。

 石舞台の北の方向にある島庄地区にある島の宮跡。ここは草壁皇子の住居があったところといわれている。
2004年3月11日、石舞台古墳の近くから大型建物跡が発見された。
小学校跡地で、石舞台古墳から西約200メートルの飛鳥川東岸。
7世紀前期、中期、後期の掘っ建て柱建物跡が重なって出土した。
大化の改新のあと、蘇我馬子邸は天皇家に没収され、その後草壁皇子の「嶋の宮」になっており、発掘された前期の大型建物跡は蘇我馬子邸、後期の建物跡が草壁皇子の「嶋の宮」である可能性が高いという。

万葉アルバム(明日香):飛鳥稲淵宮跡

2010年08月02日 | 万葉アルバム(明日香)

明日香川 七瀬の淀に 住む鳥も
心あれこそ 波立てざらめ
   =巻7-1366 作者未詳=


 明日香川の七瀬の淀に住んでいる鳥も、心があるからこそ波を立てずにじっとしているのでしょう。という意味。

 明日香村稲渕にいにしえからの明日香川が流れている。

万葉歌碑は明日香川に隣接する史跡「飛鳥稲渕宮跡」に建っている。後方には、棚田百選「稲渕の棚田」が広がる場所である。
稲渕宮殿跡は、1977年の発掘調査で4棟のコの字型の建物跡と、それに囲まれた石敷きの広場が確認されている。飛鳥河辺行宮跡と推定されているが、建物の配置が斑鳩宮のそれに類似していることから、いずれかの皇子の宮か、あるいは近くにあった島の宮の関連施設の可能性も指摘されている。

万葉アルバム(明日香):天香具山神社

2010年07月05日 | 万葉アルバム(明日香)

ひさかたの 天の香具山 この夕
霞たなびく 春立つらしも
   =巻10-1812 柿本人麻呂=


 天の香具山は、今日の夕方、霞がたなびいている。春がすがたを現したようであるよ。という意味。

ひさかたの(久方の)は「天」の枕詞。季節の到来を告げる山として仰がれたようだ。

香具山は大和三山の中で、唯一「天」の冠がついており、天から降ってきたとの伝承があるようだ。152m程の低山なのだが、霞がたなびく特別の存在だったのだろう。

天香山神社は香具山の北麓にある神社だが、ここまで登ってもむかし舒明天皇が国見をしたような見通しのよい景観がある場所は見当たらなかった。


霞たなびく香具山(1887/11) 写真の時期は春ではなかったが、霞がかった山は幻想的だった。

万葉アルバム(明日香):軽の里

2010年04月29日 | 万葉アルバム(明日香)

天(あま)飛(と)ぶや 軽(かる)の社(やしろ)の 斎(いは)ひ槻(つき)
幾代(いくよ)まであらむ 隠(こも)り妻(づま)ぞも
   =巻11-2656 作者未詳=


 軽(かる)の社(やしろ)の神聖な槻(つき)の木のように、いついつまでもこのように隠(こも)り妻(づま)でいるのでしょうか。という意味。

 軽(かる)の社は、おそらく明日香の地、現在の橿原市大軽町の春日神社と推定される。
万葉歌碑は大軽町の法輪寺(軽寺跡)のちょうど後にある春日神社(応神天皇軽島豊明宮跡)に建っている。この付近が軽の里にあたるのだろう。

 軽の里は柿本人麻呂の妻が住んでいたところで、妻が亡くなった時の、人麻呂の慟哭の歌はすばらしい歌であることで知られている。長歌の一部をのせる。

天飛ぶや 軽の路は 我妹子(わぎもこ)が 里にしあれば
ねもころに 見まく欲しけど やまず行かば 人目を多み
・・・・・・
我妹子が やまず出で見し 軽の市に 我が立ち聞けば
玉たすき 畝傍の山に 鳴く鳥の 声も聞こえず
玉鉾の 道行く人も ひとりだに 似てし行かねば
すべをなみ 妹が名呼びて 袖ぞ振りつる
   =巻2-207 柿本人麻呂=


 軽の路は吾妹子の里であるから、よくよく見たいと思うけれど、いつも行ったら、人目が多いので人目につくし・・・・
道行く人も、一人も似た人が通らないので、何とも仕方がなく、妹の名を呼んで、袖を振ったことである。という意味。

 いつも逢いたくてしょうがない、でも逢えない。なぜか、人目をしのんで逢わなければならない妻、そんな愛する妻の突然の訃報。いてもたってもいられず、人麻呂は妻の姿を求めて妻がよく出かけていた軽の市をさまよう・・・
人でにぎわう軽の市、物売りの声や笑い声、話し込む人々。しかし妻に似た声は聞こえない、妻に似た人にさえあわない。どうしょうもない悲しみ・・・
軽の市の喧騒の中に立ちつくし、思いあまり人麻呂は愛する妻の名を呼び、何度も何度も袖を振る。


槻(つき)と呼んでいるのは、今いうケヤキのことである。
ツキはケヤキの古名である。

ケヤキ