飛鳥への旅

飛鳥万葉を軸に、
古代から近代へと時空を越えた旅をします。
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万葉アルバム(明日香):軽の里

2010年04月29日 | 万葉アルバム(明日香)

天(あま)飛(と)ぶや 軽(かる)の社(やしろ)の 斎(いは)ひ槻(つき)
幾代(いくよ)まであらむ 隠(こも)り妻(づま)ぞも
   =巻11-2656 作者未詳=


 軽(かる)の社(やしろ)の神聖な槻(つき)の木のように、いついつまでもこのように隠(こも)り妻(づま)でいるのでしょうか。という意味。

 軽(かる)の社は、おそらく明日香の地、現在の橿原市大軽町の春日神社と推定される。
万葉歌碑は大軽町の法輪寺(軽寺跡)のちょうど後にある春日神社(応神天皇軽島豊明宮跡)に建っている。この付近が軽の里にあたるのだろう。

 軽の里は柿本人麻呂の妻が住んでいたところで、妻が亡くなった時の、人麻呂の慟哭の歌はすばらしい歌であることで知られている。長歌の一部をのせる。

天飛ぶや 軽の路は 我妹子(わぎもこ)が 里にしあれば
ねもころに 見まく欲しけど やまず行かば 人目を多み
・・・・・・
我妹子が やまず出で見し 軽の市に 我が立ち聞けば
玉たすき 畝傍の山に 鳴く鳥の 声も聞こえず
玉鉾の 道行く人も ひとりだに 似てし行かねば
すべをなみ 妹が名呼びて 袖ぞ振りつる
   =巻2-207 柿本人麻呂=


 軽の路は吾妹子の里であるから、よくよく見たいと思うけれど、いつも行ったら、人目が多いので人目につくし・・・・
道行く人も、一人も似た人が通らないので、何とも仕方がなく、妹の名を呼んで、袖を振ったことである。という意味。

 いつも逢いたくてしょうがない、でも逢えない。なぜか、人目をしのんで逢わなければならない妻、そんな愛する妻の突然の訃報。いてもたってもいられず、人麻呂は妻の姿を求めて妻がよく出かけていた軽の市をさまよう・・・
人でにぎわう軽の市、物売りの声や笑い声、話し込む人々。しかし妻に似た声は聞こえない、妻に似た人にさえあわない。どうしょうもない悲しみ・・・
軽の市の喧騒の中に立ちつくし、思いあまり人麻呂は愛する妻の名を呼び、何度も何度も袖を振る。


槻(つき)と呼んでいるのは、今いうケヤキのことである。
ツキはケヤキの古名である。

ケヤキ

万葉アルバム(関東):府中、大国魂神社

2010年04月25日 | 万葉アルバム(関東)

武蔵野の草は諸向(もろむ)き かもかくも
君がまにまに 吾(あ)は 寄りにしも
   =巻14-3377 東歌=


 武蔵野の草が、あちらへもこちらへもそれぞれになびくように、あなたのお心のままに私は寄り添いましたのに・・・。という意味。

 府中市の大国魂神社けやき通りの一隅にこの歌碑がある。そこには、
「草が風に靡(なび)くよう、私は貴方にひたすら心を寄せたのに」という意味の歌で、自然と共に生きた女心を歌ったものです。碑文は万葉集古写本中、全巻を完備している西本願寺本に拠りました。とある。

 大国魂神社では5月初旬、年に一度の祭り「くらやみ祭」が行われ、大太鼓・山車・万灯などが登場し8基の神輿でクライマックスに達する。      

1987年8月 奈良の明日香

2010年04月22日 | 思い出の大和路探訪
 奈良市奈良町、奈良の明日香を散策した。


瑜伽(ゆか)神社
飛鳥神奈備に飛鳥京の鎮守として祀っていたのを、平城遷都と共にこの地に遷した。この山を平城(なら)の飛鳥山と云い、辺りを奈良の飛鳥と云う。


瑜伽(ゆか)神社社殿
社は飛鳥の元宮に対し「今宮」と呼ばれていた。また、元興寺禅定院の鬼門除け鎮守として崇められ、後に興福寺の大乗院がこの西山麓に建つに及んでその守護神として藤原氏の厚い崇敬を受ける様になって、その頃、山と社の名を宗論の「瑜伽」に替えた。


大伴坂上郎女の歌碑
「ふる里の 飛鳥はあれど 青丹よし
平城の明日香を 見らくしよしも」  →万葉アルバムへ


写真では見えないが、遠くかすかに飛鳥の大和三山が見える。


神社のたもとの飛鳥橋


元興寺


元興寺東門


元興寺極楽堂(国宝)
元興寺は南都七大寺の1つ、興福寺の「北寺」に対し「南寺」と称した。


元興寺東塔跡


東塔の礎石


高林寺:中将姫が住んでいた屋敷あと  中将姫についての詳細は→中将姫伝説を訪ねてリンクメニュー


誕生寺:中将姫誕生の地




徳融寺:藤原豊成公(中将姫の父)の邸跡


豊成公と中将姫の御廟と伝える二基の宝きょう印塔


奈良の明日香の里の家並み


万葉アルバム(奈良):奈良、三笠山

2010年04月19日 | 万葉アルバム(奈良)

春日(かすが)なる 三笠の山に 月の舟出(い)づ
風流士(みやびを)の 飲む酒坏(さかづき)に 影に見えつつ
   =巻7-1295 作者未詳=


 春日の三笠の山に、船のような月が出た。風流な人たちが飲む酒杯の中に映り見えながら。という意味。

七夕の夜の宴で詠まれた歌と見る説があり、この月の船を漕ぐ月人壮士は、七夕の夜に彦星を乗せて天の川を渡す、渡し守であろうとしている。
いずれにしろ風流心をくすぐる歌であるといえる。

 三笠の山は万葉以降も歌に読まれ、有名な
「天の原ふりさけ見れば 春日なる三笠の山に出でし月かも」(安倍仲麿・古今集406)
は百人一首の中に採用されている。

 万葉歌碑は明日香の万葉文化館の庭に置かれている。

1987年7月 吉野・宮滝

2010年04月15日 | 思い出の大和路探訪
<1987年7月5日 万葉の大和路を歩く会「水たぎつ吉野宮滝」>

 吉野山を登り峠から喜佐谷を下って宮滝に至るハイキングコースで、
ふたりの万葉学者の先導で充実した万葉の旅であった。

コース:近鉄吉野駅・・・金峯山寺・蔵王堂・・・稚児松地蔵・・・喜佐谷・・・象の小川・・・宮滝-近鉄大和上市駅

講師:武庫川女子大教授 清原和義氏、大阪大学名誉教授 犬養孝氏



近鉄吉野駅


金峯山寺仁王門
額に「金峯山」と書かれた「仁王門」は、重層入母屋造、三間一戸瓦葺です。建立後、南北朝1348年(正平3年)に足利尊氏の執事・高師直(こうのもろなお)の兵火で焼かれたが、1455年(康正元年)再建された。


金峯山寺蔵王堂
1586年(天正14年)焼失後6度目、1591年(天正19年)東大寺大仏殿に次ぐ棟高34mの国宝・蔵王堂が再建された。重層入母屋造、桧皮葺で日本最大の建物。


吉野朝址
京都花山院を抜け出し、導かれて吉野へ入った後醍醐天皇は、始め吉水(きっすい)院を行宮とされていたが、そこが手狭になり、蔵王堂の西下に在った実城寺(じつじょうじ)を行宮にされ、寺名を金輪王寺(きんりんおうじ)と改め、終始京都へ帰還する事を願いながら、ついに1339年(延元4年)ここで亡くなった。


金峯山寺蔵王堂から中千本へ向かう途中のみやげ店がつづく道


上千本より蔵王堂を下に見る


万葉の忘れ草(現在のカンゾウ)
「忘れ草 我が下紐に 付けたれど
醜(しこ)の醜草 言(こと)にしありけり」(大伴家持)


稚児松地蔵 上千本から喜佐谷へ峠付近にある


象(きさ)の小川の源流
「吉野宮滝万葉の道」の祠の背後に「象の小川」が流れており、丁度そこは写真の様な「高滝」で、落差約10m、清洌な飛沫を上げている。


前夜の雨で増水している川を渡る


滝の上の三船の山は恐(かしこ)けど
思ひ忘るる時も日もなし


象(きさ)の小川
谷を埋めつくすばかりの杉と桧の美林を抜けると、喜佐谷(きさたに)の集落で、上千本から下って来た「象(きさ)の小川」は、青根が峰を源とする「喜佐谷川」と合流するが、万葉時代には今の「喜佐谷川」も「象の小川」として歌に詠まれている。

「昔見し 象の小川を 今見れば
いよよさやけく なりにけるかも」(大伴旅人)  →万葉アルバム


左:象山、右:三船山


喜佐谷の集落(右奥が吉野)


桜木神社(天武天皇を祀る)
「喜佐谷川」に沿って舗装されてなだらかな平坦の道を下ると、「桜木神社」がある。天武天皇が、まだ大海人皇子(おおあまノおうじ)と云われていた頃、兄の天智天皇の近江の都を去って、吉野に身を隠していたが、ある時、兄の子(甥)大友皇子の伏兵に攻められられると、傍らの大きな桜の木に身をひそめ危うく難を逃れたという。


「み吉野の 象山のまの 木末(こぬれ)には
ここだも騒ぐ 鳥の声かも」(山部赤人) →万葉アルバム


吉野川 夢のわだ付近
「桜木神社」から「喜佐谷川」に沿って下って来て 「喜佐谷川」が「吉野川」に流れ込むところが「夢のわだ」、写真の左で白くなっているところ。

「我が行きは 久にはあらじ 夢のわだ
瀬にはならずて 淵にありこそ」(大伴旅人) →万葉アルバム


「見れど飽かぬ 吉野の川の 常滑の
絶ゆる事なく またかへり見む」(柿本人麻呂) →万葉アルバム


犬養孝氏による説明風景


左:犬養孝氏、右:清原和義氏


吉野離宮址の中荘小学校
「柴橋」を渡ると吉野町宮滝で、橋のたもとに石碑が建ち、中荘小学校の校庭が見え、校舎の裏に吉野川流域で最大の「宮滝遺跡」が在り、また遺跡の北側から飛鳥時代以後~平安時代初期の建物跡も発見され、656年女帝斉明天皇が「吉野宮」を造ると「日本書紀」に記された「吉野離宮」と推定されている。


柿本人麻呂の歌碑
「見れど飽かむ・・・」 →万葉アルバム

1987年6月 磐余・上の宮

2010年04月12日 | 思い出の大和路探訪
<1987年6月 磐余・上の宮>
 桜井駅の南方周辺に広がる旧跡遺跡を訪ねた。古代の多くの旧跡が点在している。
途中偶然に聖徳太子関係遺跡の発掘現場に出くわした。ちょうど現地説明会が開かれている矢先で、見学者も多く熱気でムンムンしていたのを覚えている。 

コース:近鉄桜井駅-桜井戒重-土舞台-安倍文殊院-安倍寺跡-上の宮遺跡(メスリ山古墳付近)-等弥(とみ)神社-近鉄桜井駅


春日神社(桜井市戒重):大津皇子の訳語田(おさだ)の家がこのあたりにあった。


春日神社


若桜神社(桜井市市谷)
履中天皇の磐余稚桜宮跡(いわれわかざくらのみやあと)だとする説がある。
延喜式内社「磐余稚桜神社」とされる、旧村社。
多くの石灯籠が有り、古いものは宝暦10年(1761)のものが有る。
伝承では、
 履中天皇が皇后と、船を磐余市磯池(いわれいちしのいけ)に浮かべて遊宴されていた時、盃に時ならぬ桜の花びらが散りかかりました、この奇譚をめでて、この宮を磐余稚桜神社と改めたということである。
 桜井の地名の起こりの伝承:その桜を探しだし、桜樹を清水の湧く和泉のほとりに移し植えさせた、この泉は、大和の七つ井戸のひとつであったという、若桜神社の北50mほどにある「桜の井」だという。


若桜神社のうら土山より


土舞台への道


芸能発祥の地「土舞台」
西側に「土舞台」顕彰碑が建っている。「日本書紀」によると、612年(推古天皇20年)の記事に百済人からの帰化人、味摩之(みまし)が呉(くれ)で「伎楽の舞」を習得したというので、聖徳太子が彼を桜井に住まわせ、少年たちを集めて、その「呉伎楽舞(くれうたノまい)」を少年達に伝習させた所。即ち、我が国初の国立演劇研究所と国立の劇場が置かれた場所である。




土舞台からの展望、倉橋山を望む


石寸(いわれ)山口神社
『大和志』に双槻(なみつき)神社と呼ばれていたこともあり、用明天皇の磐余池辺雙槻宮(いわれいけべのなみつきのみや)の跡地であるとする説がある。


文殊池から安倍文殊院全景
「土舞台」から南へ下りて車道を1つ越すと、大和十五寺の1つ「安倍文殊院」で、安倍山崇敬寺(すいきょうじ)文殊院と号し、東大寺と同じ華厳宗。安倍氏の氏寺である。
 手前のお堂は、金閣浮御堂(仲麻呂堂)で、昭和60年(1985年)に建立された文殊池の中に建つ金色の六角堂で、安倍仲麻呂像、安倍晴明像などを祀る。


安倍文殊院本堂
本尊は「三人寄れば文殊の智恵」で知られる文殊菩薩。安倍文殊院の文殊菩薩は、京都府天橋立の切戸文殊、山形県亀岡文殊と並ぶ、日本三大文殊のひとつに数えられている文殊さんである。


西古墳
「安倍文殊院」の境内には二基の古墳があり、本堂に近い方の文殊院西古墳は、高さ6.6mの円墳である。


東古墳
更に東へ50m行った所に文殊院東古墳があり、南に開口した横穴式石室の羨道に井戸があるので閼伽井窟(あかいくつ)とも呼ばれて、玄室内に「不動明王坐像」を刻んだ石仏が安置されている。


白山神社
室町時代に建立された白山堂は、加賀の国(石川県)の霊峰「白山」をご神体とする白山神社の末社で、菊理媛命(くくりひめのみこと)が祀られている。菊理媛命は、伊邪那岐命と伊邪那美命の縁を取り持ったことで知られ、縁結びの神様として崇敬を集める神様。
白山堂は特に縁結びにご利益があると信仰を集めている。


ウォーナー碑
ウォーナー博士は1881年アメリカ生まれ。東洋芸術史家で日本美術をこよなく愛していたとある。第二次大戦、日米開戦において戦争防止を進言し、開戦となると、アメリカ政府、軍上層部に辛抱強く、奈良、京都をはじめとする古都の文化的価値の説得した。
その甲斐あって、アメリカ軍の日本本土空襲の空爆リストから外されたのであった。
桜井市の市民が、その感謝の気持ちとして、ここに「ウォーナー博士報恩供養塔」を建立したという。


安倍寺跡
バス停「生田」の直ぐ北西が「安倍寺史跡公園」で、草がぼうぼうと生えた「仲麻呂屋敷」と呼ばれる一辺15mの方形の土壇があり、昭和41年と43年の調査で出土した瓦等から昔は崇敬寺とも呼ばれた「安倍寺」の塔跡で、また、東方にある土壇は、金堂の跡と推定され、北方にある土壇は、講堂の跡と推定され、おそらく、安倍寺も法隆寺式伽藍配置だという。




瓦窯跡(鎌倉時代)


白壁の美しい民家


上の宮遺跡 左手:天満神社


遺構北方 右手:鳥見山


上の宮遺跡 石敷き遺構


石敷遺構
左上に土杭状遺構がみえる、ここから櫛が見つかった。


石組み溝の遺構

(現在の状況:奈良観光サイトより)
ここは現在は整備されて、「上之宮庭園遺跡」(桜井市文化)となっている。
古墳時代末期から飛鳥時代初期にかけての豪族居館の跡と考えられ、同時に出土した木簡、琴柱、ベッコウ等の貴重品や、ここの地名上之宮(うえのみや)から聖徳太子の上宮(かみつみや)と考えられている。


遺構南方 メスリ山古墳
古墳時代前期初頭の前方後円墳。特徴的なのは、埋葬施設の副石室がまるで遺品庫の様相を呈していることであり、規模・埋葬品とも大王墓級だが、記紀や『延喜式』などに陵墓としての伝承がなく、謎の古墳といわれている。


等弥(とみ)神社
なだらかな山容の鳥見山(標高245m)が広がり、その西麓の能登山に「等弥(とみ)神社(能登宮)」が鎮座している。


等弥神社「上社(上津尾社)」


大伴坂上郎女の歌碑
「妹が目を 跡見(とみ)の崎の秋萩は
この月ごろは 散りこすなゆめ」 →万葉アルバム


射目(いめ)立てて 跡見の岳辺の なでしこの
花ふさ手折り われは持ち行く 奈良人のため
紀鹿人 8-1549  →万葉アルバム


万葉アルバム~草木、やなぎ

2010年04月08日 | 万葉アルバム(自然編)

春柳 葛城山に 立つ雲の
立ちても居ても 妹をしぞ思ふ
   =巻11-2453 柿本人麻呂歌集=


 葛城山に立つ雲のように立っても座ってもあなたのことが思われる。という意味。

万葉で詠われた葛城山は、奈良県と大阪府の県境にある葛城連山の総称で、南は金剛山、北へ葛城山、二上山に連なる。

「春柳」(はるやなぎ)は、春芽を出し始めた頃の柳のことをいう。
春柳の枝を髪に挿して葛(かずら)にすることから葛城山の枕詞としている。

この歌は、最も短い万葉歌として大変有名。万葉仮名字の原文で表すと、
「春柳 葛山 發雲 立座 妹思」 と、10字にしかならないからである。
いわゆる「略体歌」と呼ばれる初期万葉歌の形式で表現されている。

「やなぎ」は、一般的にはシダレヤナギが普通で、奈良時代に朝鮮を経て渡来したといわれる。
高さ10~20㍍になり、細い枝がしだれるのが特徴。
3~5月、葉より早くまたは同時に基部に3~5個の小さな葉をつけた尾状花序をだす。
『万葉集』に詠まれた「やなぎ」は三十六首にのぼる。

1987年5月 近江・蒲生野

2010年04月05日 | 思い出の大和路探訪
<1987年5月 近江・蒲生野>

近江鉄道市辺駅・・・船岡山・・・蒲生野・・・太郎坊・・・近江鉄道太郎坊宮前駅

息子を連れて滋賀県の蒲生野へ散策に出掛けた。



市辺駅


阿賀神社
天智天皇が大津から大勢を引き連れて猟にあそんだという、古代朝廷の遊猟の地、蒲生野の中心は近江鉄道の市辺駅近くの船岡山あたりと想定されている。その地を万葉の森となづけ、昭和43年に頂上に万葉歌碑が建てられた。
阿賀神社の境内うしろに万葉の森・船岡山がある。


船岡山山麗 万葉の森


船岡山の万葉歌碑
自然の巨岩に「元暦校本万葉集」の原本そのままの文字を彫りこんだ石板がはめこんである。有名な万葉歌2首だ。


あかねさす 紫野行き 標野行き
野守は見ずや 君が袖振る
(卷1-20 額田王) 
紫の にほへる妹を 憎くあらば
人妻ゆゑに 我恋ひめやも
(卷1-21 大海人皇子) →万葉アルバム


船岡山から眺めた蒲生野


うしろが船岡山


赤神山


道沿いに建つ石灯籠


赤神山の中腹に太郎坊宮がみえる
太郎坊宮(阿賀神社)
近江鉄道太郎坊駅から北へ約1km、標高350mの巨岩が露出した赤神山の中腹に、「太郎坊さん」の名で親しまれている「太郎坊宮」がある。「太郎坊」とは京都鞍馬の次郎坊天狗の兄天狗で、この社を守護していると言われている。約1400年前の開基と伝えられ、天照大神の子を祀る原始信仰の神社である。勝運授福の神として崇められ、厄除け・開運・商売繁盛にもご利益があるとされる。その昔には、聖徳太子や最澄も参拝したと言われ、また神秘的な霊山として修験者の修行の場でもあった。


太郎坊宮の石鳥居
参道から約740段の階段を登ると本殿にたどり着く。


太郎坊宮の千本鳥居


本殿前にある夫婦岩
本殿前に夫婦岩とよばれる高さ数十メートルの巨岩がある。神力によって左右に開いたといわれ、巾80cm、長さ12mの巨岩の隙間を嘘つきな人間が通ると途端に岩に挟まれてしまうといわれる。


本殿前から眼下に広がる蒲生野の眺めがすばらしい。

万葉アルバム~花、おみなえし

2010年04月01日 | 万葉アルバム(自然編)

手に取れば 袖さへにほふ をみなへし
この白露に 散らまく惜しも  
   =巻10-2115 作者未詳=


 袖までも黄色に染まるような美しい女郎花(おみなえし)が、この白露で散ってしまうのは惜しいことだ。という意味。

にほふ、とは「美しい色に染まる」とか「あざやかに色づく」といようなこと。

女郎花(おみなえし)は秋の七草の一つ。美女のなかでもひときわ美しい姿であるとの意味でつけられた名。オミナエシ科の多年草。日当たりの良い山地や草原に生え、初秋に黄色い小さな花を咲かせる。粟花(あわばな)ともいい、原産地は、日本。

『万葉集』に詠まれた「をみなへし」は十四首ある。