飛鳥への旅

飛鳥万葉を軸に、
古代から近代へと時空を越えた旅をします。
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絵と語りの芸能1:のぞきからくり

2009年05月28日 | 絵と語りの芸能
江戸時代(享保5年=1720年)に西洋から線遠近画法が伝えられると、浮世絵を「覗き眼鏡」(正保3年=1646年には伝来している)というレンズを通して観賞されるようになった。
 はじめは「おおのぞき」と呼ばれ、一個の箱に1個のレンズで一枚の絵を見る形式だったが、後にはこの箱を数個並べて順次覗き、一連の物語が構成される仕組みに発展し、江戸時代後期(1760年代)に改良されて現在の型になったものと思われる。
 そして、文明開化の波に乗り、大衆娯楽施設の充実と共に一層の改良が加えられ、ガス灯やカーバイトランプ、更に電灯とその光源の発達変化によって、より華麗に画かれ立体感を深めるように工夫されるようになった。
 やがて、活動写真(映画)の登場と、子供達に紙芝居が巡回すると衰退がはじまり、昭和初期(10年頃)まではまだ祭礼、縁日などの演し物として命脈を保ってきたが、戦後まもなくしてその姿を消してしまったのである。

 私は昭和20年代後半の子供の頃に神社仏閣の祭礼で観た懐かしい記憶がある。
その後、昭和60年代に大阪豊中にあった原野農芸博物館の展示と大阪天満橋でのイベントで実演を観る機会を得た。
のぞきからくりは、絵を移動させながら独特の節回しの口上で、戦前までは縁日の花形的存在であった。江戸時代からあったのぞきからくりの口上が発展したのが現代に残る浪曲といわれている。

 小沢昭一の「日本の放浪芸」音盤には大阪天王寺でかつて行われていたのぞきからくりの口上が残っているが、これは現在行われていない。また、「日本の放浪芸」DVD版にはこれとは別に、新潟県巻町の「幽霊の継子いじめ」と佐賀の北園氏による「不貞の末路」というのぞきからくりの実演がおさめられている。
  また「音と映像と文字による【大系】日本歴史と芸能  日本ビクター+平凡社 第13巻:大道芸と見世物」で、のぞきからくり(4分)興行師(北園忠治・北園みつる)の実演映像がおさめられている。


《古文書に記された、のぞきからくり》
 <黄表紙『御存商売物』 >
京伝の「御存商売物」(1782)に収められた「おらんだ大からくり(のぞきからくり)」の図。

 <守貞漫稿>
江戸時代に書かれた喜多川守貞「守貞漫稿」という風俗、生活を説明した一種の百科事典に、のぞきからくりが描かれている。


《懐かしい実演写真》

大阪ののぞきからくりは、現在は<奄美アイランド>に保存展示されている。
巻町ののぞきからくりは、<新潟県巻町郷土資料館>に保存展示される前の、最後の公演のもようであろう。

《保存展示されているところ》
 <新潟県巻町郷土資料館>
巻町の旧家の蔵の中から見つかったものが、大切に保存されており、また、蒲原一と謳われた語り大夫も健在だった。
演題「幽霊の継子いじめ」が現在も実演されている。

 <金沢からくり記念館>
館内の「のぞきからくり」は実際にのぞき観ることができる。

 <千葉県佐倉市国立歴史博物館>
羽子板などにも見られる押し絵と呼ばれる布細工の立体絵で本物を忠実に再現している。
テープの歌にあわせて絵が変わっていく。「奄美アイランド」の舞台を復元、展示したもの。

 <神戸市立博物館>
実際に屋外で用いられたのではなく、当時の興行用のものを模して縮小した高級玩具である。側面のひもを上下させ箱の中に1枚ずつ絵を落として鑑賞するもの。
看板は江戸と京都の名所の浮絵を収おり、からくりの制作は明和末~安永ごろと特定されている。

 <広島県三原市歴史民俗資料館>
これは大正後期に作られたもので演目は俊徳丸である。ナカネタは一枚一枚ひもでつるされておりひもを下ろすことによって絵が変わる。縁日や祭りの花形であった。これはこの世界の大物だった四国の興行師・辻本友吉氏の屋台だったもの。

 <奄美アイランド>
大阪で最後まで営業をつづけていた「のぞきからくり師」の黒田種一氏が昭和55年の野崎観音での公演を最後に屋台をたたんだ。その黒田氏の所蔵品であった「地獄極楽」は屋台とともに大阪豊中市の原野農芸博物館に所蔵されしばらく展示されていたが、昭和63年に鹿児島県奄美大島住用村に移設した。
なお、これをモデルにして、佐倉市の国立歴史民俗資料館が複製、展示している。

 <岐阜県瑞浪市博物館>
忠臣蔵を題材にしたもので、討ち入りの場面などが鮮やかな色彩で再現されている。顔の表情も布を膨らませて立体的にしている明治期の姫路押し絵の第一人者である宮澤由吉制作で、目はガラス玉を半分に割ったものに彩色するなど迫力のある押し絵になっている。

《今でも実演が観れるところ》
 <長崎県深江町郷土資料館>
島原お糸事件,地獄極楽,八百屋お七,武夫と浪子,先生と生徒,平成新山物語〔公演の特徴〕
・箱型の屋台の内部に大型の紙芝居の絵を仕込み,絵をスライドするものを拡大鏡をはめたのぞき穴から見せる。

 <人形劇トムテ(大阪府松原市)>
のぞき穴から覗くと、子どもたちはみんな「おーー!」とか「わぉ!」とか言って驚く。前の扉を外して種を明かすと、笑いが起きる。「からからからくり、のぞきからくり。これよりいかなる物語」とリズムをつけて、演目「三角と四角」から始まる。

 <箕面平成のぞきからくり>
演目は「萱野三平物語」、「役の行者」、「空海物語」、箕面の民話 「新稲の大杉」「泣き地蔵」
ええみのお推進市民の会のメンバーと「のぞきからくり」に興味を持って参加した人で、箕面市を中心にイベントで公演。

《現代版のぞきからくり》
 <ギャラリー椿>
 京橋のギャラリー椿で桑原弘明展が開かれている。スコープを主として、さまざまな造形作品をつくっている。
スコープ(Scope)とは顕微鏡や、望遠鏡などの倍率などを変えてー部分をみる器具の名称。
手のひらに乗るくらいの大きさの金属の四角い箱の中に、小さな小さな世界が入っている。
箱の側面や上部、下部の穴があって、そこに懐中電灯をあて、覗き穴から覗くと、そのミニチュアの部屋や庭が浮かび上がる。
光をあてる穴によって、朝方、昼、夕方、夜、の光景のようにみえる。

《中国では・・・》
 <中国南東部の浙江省の省都は杭州>
中国では、17世紀に「のぞきからくり」に類するものがあったと推定される。
明清時代の古い街並みの残る清河坊街でみかけた「のぞきからくり」、ここでも子供に人気があるようである。通りの真ん中では飴細工や笛売りなども売っている。

 <上海ののぞきからくり>
杭州の、のぞきからくりが違う場所でも興行していたようだ。
装置、内容は同じ物とみられる。

《のぞきからくりリンク集》
のぞきからくりの歴史 のぞきからくりの詳しい歴史が記されている
「幽霊の継子いじめ」と継子譚 巻町ののぞきからくりで語られる演目が載っている
のぞきからくり 今日の外題 不如帰、地獄極楽、金色夜叉、八百屋お七 の語り言葉
リバティおおさか ほととぎす の題目の歌を聴くことができる

万葉アルバム(関東):市川、真間の継橋

2009年05月26日 | 万葉アルバム(関東)

足(あ)の音せず行かむ駒もが葛飾の
真間(まま)の継橋(つぎはし)やまず通はむ
   =巻14-3387 作者未詳=


足音がせずに行ける馬がほしい。そうすれば、葛飾の真間の継橋を通っていつも恋人のもとに行くものを。という意味。

「真間」はいまの千葉県市川市真間の地。
「真間の継橋」は、真間の地にある手児奈霊堂の入口にある。
昔の橋は入り江の杭(くい)に継ぎ板を渡したような簡単なものだったようで、現在の橋は写真のようにずいぶんと派手になっている。
この真間のあたりは、昔は近くを流れる江戸川河口の入江になっていて、いくつもの中洲ができていた。
継橋は洲から洲に渡る橋であり、何枚かの板を継いでいたのでこんな名称になったと思われる。

万葉学者の犬養孝先生は、今ある継橋は「後人の手児奈追慕の名残りか」と説いている。
真間の継橋と手児奈を結びつけると、ロマンチックな物語が想像できる。

万葉アルバム(奈良):奈良、元興寺跡

2009年05月22日 | 万葉アルバム(奈良)

故郷の明日香はあれど青丹よし
奈良の明日香を見らくしよしも
   =巻6-992 大伴坂上郎女=


古い飛鳥の里もよいけれど、今が盛りの奈良の明日香を見るのはすばらしいものです、という意味。

元興寺の里を詠んだ歌。「元興寺」は、蘇我馬子が建てた飛鳥の法興寺を平城京遷都後に移転した。そのため「奈良の明日香」と呼ばれた。

この歌の歌碑は元興寺跡の近くの瑜伽神社にもある。

万葉アルバム(奈良):奈良、奈良の明日香 を参照

万葉アルバム(関西):和歌山、得生寺

2009年05月19日 | 万葉アルバム(関西)

足代(あて)過ぎて糸鹿(いとか)の山の桜花
散らずあらなむ還(かへ)り来るまで
   =巻7-1212 作者未詳=


足代を過ぎてやって来たこの糸我(いとが)山の桜の花よ、私が帰ってくるまで散らないでいてくれ。という意味。

 「足代」は、和歌山県有田市を流れる有田川河畔。
糸鹿の山は、有田市糸我町の糸我山。JRきのくに線「紀伊宮原(きいみやはら)駅」で下車して、有田川に架かる宮原橋を渡って東南方向へ少し行くと得生寺(とくしょうじ)がある。この得生寺から南東に見えるのが雲雀山(ひばりやま)、真正面奧に嶺を東西に連ねるのが糸我山。この糸我峠を越えて、湯浅へと向かう道が熊野古道になっている。

この歌は糸我山を越えて湯浅あるいは栖原(すはら)に向かう旅人が、峠道にあでやかに咲く桜の花(万葉の桜はヤマザクラ)に心をなごませ、帰途ももう一度見たいと歌っている。また「帰り来るまで」という言葉には、旅の無事を祈る気持ちも託されている。

得生寺は、中将姫伝説ゆかりのお寺で、聖武天皇の御世、右大臣藤原豊成の娘中将姫が、継母に疎んぜられて紀伊国に追われて、かろうじて生き延びたのがこの雲雀山であった。

散りゆく山桜と中将姫伝説が交錯し合って、この万葉歌に一段と彩り濃いものとしているように感じる。
(リンク)中将姫伝説 得生寺


中将姫伝説を訪ねて9:石光寺(奈良県葛城市)

2009年05月16日 | 中将姫伝説を訪ねて
中将姫が当麻曼茶羅を織りあげた際、材料となる蓮糸を染めたのが、ここ石光寺の井戸である。


石光寺は近鉄南大阪線「二上神社口駅」下車、徒歩13分。
奈良県当麻町にある石光寺(せっこうじ)は山号を慈雲山と号する浄土宗の寺院である。當麻寺の北、二上山を背景に位置し、牡丹で有名な寺で、通称、染寺と呼ばれている。天智天皇の時代670年頃、染野の地に、不思議な光を放つ大石があった。その場所を掘ると弥勒三尊の石像が現れ、役行者(えんのぎょうじゃ)が開山となり天皇の勅願により寺院を建立することになった。このとき、天皇が石光寺と名づけ、今に至っている。


境内
山門を入った正面に本堂、並びに弥勒堂、奥に入ると鐘突き堂などがある。本堂には本尊の阿弥陀如来が安置している。弥勒堂を平成3年に建て替えたとき、堂の下から白鳳時代の弥勒石仏が出土し、現在、弥勒堂に安置している。当時の本尊で日本最古の石仏である。他に瓦や仏像を型押した、せん仏が出土している。

染の井
中将姫(747~775)ゆかりの「染の井」と「糸掛桜」がある。右大臣藤原豊成(704~765)の娘、中将姫は17歳で出家、当麻寺にこもるうち霊感を得て蓮の茎を集め、糸を採り出した。そして石光寺の庭に井戸を掘り、糸を浸したところ五色に染まった。それが染の井で、傍らの桜の枝にかけたのが糸掛け桜。中将姫はその蓮糸で一夜のうちに当麻曼茶羅を織りあげたという。


牡丹
ボタンの花で有名な石光寺。境内には約500種類、3000株ものボタンが植えられ、初夏には百花爛漫のにぎわいを見せる。また、11月から1月ごろ咲く、ワラ帽子に包まれた寒ボタンも見もので、冬咲きのボタンはここだけのものという。二上山を背景に牡丹の咲き乱れる様は格別である。


万葉アルバム(明日香):剣池

2009年05月13日 | 万葉アルバム(明日香)

軽の池の浦廻(うらみ)行き廻る鴨すらに
玉藻の上にひとり寝なくに
    =巻3-390 紀皇女=


軽の池の岸のところを泳ぎ回っているあの鴨さえも、藻の上に独りで寝たりはしないのに、私は独りぼっちで寝なければならない。という意味。

「軽の池」の「軽」は、奈良県橿原市大軽の辺り。現在の剣池がこの池だといわれている。
紀皇女は天武天皇の皇女で、穂積皇子の同母妹。恋多き皇女として知られ、
この歌は、恋人の高安王(たかやすのおおきみ)が伊予に左遷された時に作られたともいわれる。


万葉アルバム(関西):兵庫、須磨海岸

2009年05月09日 | 万葉アルバム(関西)

須磨の海女の塩焼き衣(きぬ)の慣れなばか
一日(ひとひ)も君を忘れて思はむ
   =巻6-947  山部赤人=


須磨の海女の塩焼き衣を着慣れるように、あなたに慣れ親しんでしまったら、一日でもあなたのことを忘れることができるでしょうか。という意味。

「塩焼き衣」は、海水から塩を取るために塩焼きをするときに着る作業着のこと。
塩の製法は古代から海藻を利用する「藻塩焼き」という方法だったが、やがて砂を利用して濃い塩水を採取して煮つめる方法に移行した。初めは海浜の自然のままの砂面で採かんを行う「自然浜」で、8世紀ごろにはこの方法による相当な規模の塩産地が存在するようになった。
山部赤人は聖武天皇代の下級官人で、行幸の供などで広く各地を旅して詠んだ歌が多い。

万葉アルバム(中部):高岡、二上山

2009年05月05日 | 万葉アルバム(中部)

玉くしげニ上山(ふたがみやま)に鳴く鳥の
声の恋しき時は来にけり
   =巻17-3987 大伴家持=


二上山に鳴く鶯の声が恋しくてならない時が、とうとう今年もやってきた、という意味。

二上山は越中国庁があった付近の小高い山で高岡市内から望むことができる。
「玉くしげ」は二上山にかかる枕詞。

大伴家持は29歳で越中守として単身赴任する。
一年後の30歳の時に、越中の二上山に春が近づくのを見ると、
なつかしい故郷大和から望んだ大和の二上山を思い出し、
置いてきた妻大嬢を恋しく思って歌ったのであろう。


中将姫伝説を訪ねて8:当麻寺 中之坊(奈良県葛城市)

2009年05月02日 | 中将姫伝説を訪ねて
当麻寺中之坊は、中将姫が剃髪して尼になった寺である。


当麻寺塔頭である中之坊は南大阪線「当麻寺」駅から徒歩約15分、当麻寺の境内にある。
當麻寺には現在、十数ヶ寺の塔頭寺院があるが、中之坊は白鳳時代(645-710)、役行者が開いた道場で、當麻寺創建当時からの歴史を持つ代表的な塔頭寺院である。創建当初は三論宗であったが弘仁14年(823)に弘法大師が真言宗を伝えたのがきっかけに改宗し、現在では高野山真言宗の別格本山になっている。
本堂である中将姫剃髪堂は中将姫が剃髪して尼になった場所である。
彼女の守り本尊の十一面観音菩薩(心身健康の徳)、大和13仏弥勒尊(禅定の徳)、大和七福神 布袋尊(家庭円満の徳)、を安置している。本尊は導き観音として信仰されている。


姫は都を離れ二上山の麓を訪れ、当麻寺に入門を願い出た。当時女人禁制であった当麻寺への入山はなかなか許されなかったが、姫は観音菩薩の加護を信じ、一心に読経を続けたところ、不思議にもその功徳によって岩に足跡が付いた(中将姫誓いの石)。姫の尊い誓願が認められ、翌年、入山が許された姫は、中之坊にて髪を剃り落とし、法如という名を授かって正式に尼僧となった。中将姫が下ろした髪で刺繍をしたという故事に因んで建立された髪塚が境内にある。
足利時代、世阿弥は尼の名前を中将姫として當麻曼荼羅の縁起に基づいて念仏の効力を説いた謡曲「當麻」を作曲し、今日に至っている。


宝物室に飾られている「幻想蓮糸曼荼羅」: 堀澤朱鷺(ほりさわとき)筆。


香藕園
本堂の左手にある庭は、片桐石州が改修したことで知られる大和三名園の「香藕園」(国保存指定名勝史跡)である。「回遊式庭園」であると同時に「観賞式庭園」二つの面を持たせる巧みな設計になっている。奥を見上げると東塔が目に入る。