飛鳥への旅

飛鳥万葉を軸に、
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中将姫説話 インターネットの世界:電子化された和古書

2009年12月26日 | 中将姫伝説を訪ねて
 大学の付属図書館などで所蔵している和古書などの電子化が進められて、一部インターネット上で公開されている。
この中から、中将姫説話に関する電子化された和古書を調べた結果、以下のサイトから見つけることができた。
 特に1.広島大学所蔵 奈良絵本「中将姫」は、画像のほかに本文および翻刻(崩し字で書かれた文献を楷書になおして一般に読める形式にすること)も表記されているので、親切でわかりやすい。
電子化されている14点程の奈良絵本も同様の試みがされている。

1.広島大学所蔵 奈良絵本「中将姫」

 広大本は奈良絵本2冊。諸本は写本の形で伝わるものと、慶安4年に出された絵入り版本とが見られる。広大本と同じく写本2冊で伝わるものに国会図書館蔵本、慶應義塾大学斯道文庫蔵本(下巻のみ存)などがある。
 お伽草子、曼荼羅の絵解きの語り口をそのまま取り入れている。良家の婦人たちの娯楽教訓的なものだったようだ。

2.九州大学付属図書館所蔵 奈良絵本「ちうしやうひめ」

 近世初期写、上中2巻2冊(下巻欠)
 本書は広島大、実践女子大、多久市立図書館等に蔵される近世初期の書写になる奈良絵本に近い体裁を持つが、本文はやや異なる。

3.奈良女子大学附属図書館所蔵 「中将姫一代記」

5巻5冊。絵入の読本。刊記は寛政13(1801)年。権河道人による序文。書肆は、須原茂兵衛(江戸)・大野木市兵衛(大坂)・脇坂僊治郎(京都)・吉田新兵衛(京都)。「中将姫行状記」(享保15-173 0)を改題したもの。
このサイトには翻刻文が別ブラウザで開く機能がついている。
この版本は私が所蔵しているものと同じものである。
  →中将姫説話コレクション4 および 中将姫説話コレクション5

4.東京大学附属図書館霞亭文庫 「中将姫本地」

 お伽草子の再生品。武家対象の啓蒙教訓もの。

5.東京大学附属図書館霞亭文庫 「ちうじやうひめの本地」

 4.と類似の内容のものであろう。

6.大阪大学附属図書館赤木文庫 古浄瑠璃「中将姫御本地」

 江戸、鱗形屋孫兵衛板。
鳥居清信の挿絵をもつ説経半紙本のシリーズの一本と考えられる。
謡曲「当麻」と語句の類似あり、能の存在が浄瑠璃の源流のひとつの例。

7.野田市立図書館蔵 読本「中将姫物語」

 刊行年:嘉永5年(1852年)

中将姫説話 インターネットの世界:明治の錦絵

2009年12月25日 | 中将姫伝説を訪ねて
浮世絵で見る奈良大和の歴史と伝説サイトの中に、
以下の中将姫説話に関する明治時代に発行された浮世絵が載せられているので紹介する。
 中将姫説話も江戸時代後半から歌舞伎・文楽などで取り上げられるようになり、また子女向けに物語版本が多く出版された。
これらは説話当初の内容に、その後に興味を引くような物語が多く追加されてきている。
ここに紹介する明治の錦絵も一見して大きく変貌している形が想像できるものである。


歌川国芳:「本朝二十四孝」
中将姫を描く。弘化頃(1844~48年)中判錦絵


歌川芳虎:「横佩右大臣豊成と中将姫」
文久~慶応頃(1861~68年) 小判錦絵2枚組
版本だったものが後にバラされたもの


揚州周延:「雪月花」
大和:歌比子 照日前 中将姫 明治17年(1884年) 大判錦絵
継母らに折檻される中将姫を描いたもの。


月岡芳年:「皇国二十四功」
當麻寺の中将媛 明治20年(1887年) 大判錦絵

中将姫説話コレクション9:評論 その他

2009年12月10日 | 中将姫伝説を訪ねて

田中貴子著「聖なる女 斎宮・女神・中将姫」(人文書院、1996年)

 「奈良宇陀郡にある青連寺、ここは中将姫ゆかりの寺で、この中将湯の発売元である津村順天堂創業者が大檀那となっている。
ここ青連寺は姫が捨てられた場所で、最初に身を寄せた藤村家に、かくまってくれたお礼として秘伝の薬の処方を伝えたという。この藤村家が津村重舎の母の実家である。その家伝の秘薬をもとに中将湯を開発したのである。・・・

藤村家が婦人病の名前として中将姫を選んだのは、中将姫の物語じたいに「女の病」を連想させるような要素が潜んでいたからではないかと思う。・・・

また岐阜県の「中将姫誓願桜」について、
恵美押勝の乱の際に当麻から観音の霊験を慕って避難してきた中将姫が病にかかり、観音の力によって平癒したため、「男女の下の病、難産の患」を救おうと植えた桜と伝えられている。・・・」

 中将姫は血の病を克服した「聖なる女」であるとしている。


梅澤恵美子著「竹取物語と中将姫伝説」(三一書房、1998年)

 「権力掌握を狙う藤原氏は、持統天皇とくみし、アマテラス神話の天孫降臨を創作することで、あまたいた天武の後継者である皇子達から、皇位継承権を剥奪し、しかもその命までも奪っていった。・・本来の大和朝廷の神・ニギハヤヒは姿を消された。・・神をも恐れぬこの藤原不比等と持統の所業は、新しい神を黙認してしまった者達に、この後消えることのない恐怖を与えていくのである。」
 「かぐや姫の生涯は、現世においてただひたすら、人を遠ざけるためだけの生涯であった。中将姫もまた、かぐや姫同様、人の世から離れることでしか、現世での生きる道は見出せなかった。
 「竹取物語」の作者は、この藤原氏の娘の生涯を見て、この物語を書いたのであろう。中将姫の因果応報に苦しむ姿を逆転して、罰を与える側としてかぐや姫を創り出したのである。・・」

 藤原氏への悔恨が新しい神を創作したことによるものだとしている点、藤原氏悔恨の娘として中将姫と竹取物語を逆説的に捉えた点、が注目される。


阿部泰郎著「湯屋の皇后 中世の性と聖なるもの」(名古屋大学出版会、1998年)

 「序章 越境する女人-『死者の書』と中将姫物語をめぐりて・・・
かの女のまことの名前は、ついに知られることは無かった。ただ、南家郎女とばかり、その作品世界のなかで仮の称を与えられている女は、或る境界を越える、決定的な一歩を踏み出す。
かの女は、寺の大門の敷居を越え、その境内に這入った。・・・
 折口信夫の小説「死者の書」は、この一瞬をめぐって、前後数節にわたり複雑に展開されている。・・・
 「死者の書」において、作品を生成していく動機というべき”越境”、ひいては”結界破り”のしわざとは、何であったか。・・・・
”女人禁制”とは、それを誘いだし、行動をいながす壮大なしかけかと思われるばかりである。・・・」

 女人禁制の結界を破る行為、聖と俗の間に立って何ものかに突き動かされる、それは<聖なるもの>の力である、と論じている。 <聖なるもの>は性による疎隔や媒介の亀裂に垣間見られるいう。

中将姫説話コレクション8:現代のもの

2009年11月30日 | 中将姫伝説を訪ねて

「中将姫物語」、昭和53年初版、当麻寺住職編集。
「中将姫絵伝」四幅(当麻寺奥院蔵)をもとに、「中将姫行状記」(享保十五年版)等を参考にして編集したものである。
物語にあわせて「中将姫絵伝」の絵をひとつひとつ掲載している。
表紙絵は「中将姫絵伝」の一部である。


わかやま絵本の会 紀州寺社縁起絵本 No.2「中将姫物語」(1991年発行)
中将姫の一生を絵本にしたもの、後半に「中将姫伝説の原像を追って」(松原右樹)で、得生寺と糸我雲雀山の伝承を紹介している。

 その中に「橋本市恋野地方の手まり唄」が載っているので紹介しよう。

紀伊の川上大和の境 人も通わぬ深山の奥で
かくれ住いの中将姫さんは 母よ恋しと野に出てくれば
山の雲雀は天まで上り 何を知らすかチチクル雲雀
父の朝臣(あそん)は迎えにきたが 姫はかくごの当麻の寺で
髪をおとして比尼(びく)になる 比尼になる。


「当麻曼荼羅絵解き」、1987年初版発行 当麻寺住職川中光教編集。
当麻曼荼羅の詳細な内容を絵解きしたもの。
証空上人の「当麻曼荼羅註記」十巻を底本としてまとめたと記している。

中将姫説話コレクション7:明治期以降

2009年11月19日 | 中将姫伝説を訪ねて

「中将姫」、明治43年6月発行、講談師田辺南麟の講談を速記したとある。
講談の語り口の雰囲気が感じられる記述である。
表紙は中将姫の雪責めのシーン。
明治時代には仏教の説教が講談に取り入れられる例が多かったのである。


「当麻寺中将姫蓮糸の栞」、明治29年発行、当麻寺住職が記したもの。
中将姫の一生を記したもので、現代に改編されて領布されている。

中将姫説話コレクション6:「菱川師宣美人絵」(一部)

2009年11月02日 | 中将姫伝説を訪ねて
 天和3年(1683)の「菱川師宣美人絵」の一部。(大正3年摺りの複製)
 菱川師宣(ひしかわもろのぶ ?~1694)は江戸前期の浮世絵師。 
若いころに江戸にでて、隆盛期の江戸の出版界で版本の挿絵画家として活躍をはじめ、1672年(寛文12)、最初の署名本として「武家百人一首」を刊行。「浮世絵」という言葉がはじめて登場する80年前後に、その中心的な作家として、100種以上の絵本、挿絵本、50種以上の枕絵本をのこした。肉筆画には有名な「見返り美人図」がある。


(詞書:大和たへま山中将姫と申奉るはかくれ美女の宮にてましますが若き御時より仏法修行におもむかせ給ひつつ・・・)
中将姫が蓮糸で曼荼羅を織る場面。飛天や迦陵頻伽(かりょうびんが)が周りを飛んでいる。

中将姫説話コレクション5:「中将姫一代記」下巻(読本)

2009年10月22日 | 中将姫伝説を訪ねて





(中将姫継母のはからひにて雲雀山にて殺害にあわんし給ふ)
14才-継母が姫に男があると讒言し、父豊成が怒り留守中に松井嘉藤太に命じひばり山で殺させようとする。しかし嘉藤太は姫を助け、瀬雲が身代わりになる。

(豊成公雲雀山に猟し給ひ中将姫に逢給ふ)
15才-嘉藤太死す。豊成が国岡将監にさそわれてひばり山に狩りをし、姫に会う。姫帰京し照夜の前は投身自殺する。


(中将姫当麻寺にて剃髪し給ふ図)
16才-入内の噂さに、姫当麻寺へ行く。
17才-天平宝字7年6月15日出家して法如と名乗る。


(弥陀観音の二大聖蓮の糸を以て大曼荼羅を織給ふ)
蓮茎を集め糸を繰り井戸を掘って染色し曼荼羅を織る。
28才-宝亀5年、母の供養を行う。


(岩井新七 清女にれんぼの図)


(法如禅尼臨終廿五菩薩迎接)
29才-宝亀6年3月14日来迎をうけて往生。
   終わりに練供養のことが書かれている。

中将姫説話コレクション4:「中将姫一代記」上巻(読本)

2009年10月19日 | 中将姫伝説を訪ねて
「中将姫一代記」(ちゅうじょうひめいちだいき)。寛政13(1801)年刊行の絵入の読本。
5巻5冊からなるが、私蔵のものは巻1・巻2を上巻、巻3から巻5を下巻として和綴じされている。





巻頭に権河道人による序文がある。享保15年(1730)に致敬が編集出版した「中将姫行状記」を改題したものといわれている。 。
「中将姫行状記」はその後寛政元年(1789)・嘉永元年(1848)にも出版され流布しており、中将姫の伝記としては集大成されたものと評価されている。
これを絵入本として刊行したのが「中将姫一代記」であり、一巻に2~3丁の挿し絵入が挿入され、序文でも仮名文によって童にもわかるような説話とした、と説明があり、多くの読者層特に少年少女に読まれたようだ。


 本書は、中世で一般的であった継子の受難と救済を主題とする仏教説話の系譜を引いている。当麻寺の『当麻曼荼羅』の発願者とされる禅尼、元中将姫の、747(天平19)年の生誕から775(宝亀6)年の死まで年代をおっての一代記。随所に仏教説話が挿入されている。大筋を記しておくと、豊成卿とその北の方紫の前が長谷寺に祈願して授かった子中将姫は、実母の死後、実子に家を継がせようとする継母照夜御前に疎まれる。何度か命を狙われた後、奉行の武士松井嘉当太とその妻は自分の娘を身代わりにして姫を助けかくまった。やがて狩りに訪れた父と雲雀山中で父と再会を果たし、后にと望まれるがこの世の栄耀栄華に無常を感じた姫は、出奔して17才で仏門に入り、当麻寺で法如比丘尼として曼荼羅を発願し、その人生を捧げるというものである。
 なお、中将姫の説話は歌舞伎・浄瑠璃などでも主題化され、人気のあったモチーフの一つであり、ことに姫と父豊成との再会は劇化される場面の一つである。

 全編中将姫の年令を追って展開されている。(口絵は全て掲示、詞書は一部のみ掲示)

(豊成卿御夫婦長谷寺に参篭し給ふ図)
1才-長谷観音に祈って天平19年8月18日に中将姫生れる。家臣国岡将監にも女子瀬雲生れる。

(北の方病に臥し給へは姫君臨終の念仏をすゝめ給ふ)
3才-姫が3歳になった時夫婦のどちらかが死ぬといわれていた。出生の時には産室が光り輝き,薫香が薫った。また,その夜帝に夢告があり,僧に現じた千手観音が中将姫誕生の意義を説いた。姫は2歳の初言で女人成仏を予言し,3歳で勢至菩薩から直接仏道を伝授された。
5才-実母紫の前、長谷観音を誹謗したことにより死去する。
7才-父豊成橘諸房(諸兄)の娘照夜の前と再婚する。
8才-桃の節句に姫琴を弾じる。継母に豊寿丸が生れる。

(山下藤内中将姫を殺さんと忍ひ入倅小治良をきる)
9才-称讃浄土経を読む。継母が姫を山下藤内に殺させようとして、誤って藤内が我が子である則重を殺す。

(継母毒酒を以て姫を害せんとして実子を殺す)
10才-継母毒酒で姫を殺そうとし、誤って豊寿丸が毒死する。
11才-一家で長谷寺参詣。悪僧の呪いがある。
13才-姫後宮へ招かれるが辞退する。竜田川の川鳴りを静める。

中将姫説話コレクション3:「当麻曼荼羅捜玄疏図本」

2009年10月12日 | 中将姫伝説を訪ねて
 「当麻曼荼羅捜玄疏図本」(たいままんだら そうげんそ ずほん)、安永3年(1774)の刊本。
伊勢天然寺の震誉大順が明和7年(1770)に著した当麻曼荼羅の註釈本として「当麻曼荼羅捜玄疏」七巻が浄土宗で権威書とされ、版を重ねており、より普及のために当麻曼荼羅をわかりやすく図解した「当麻曼荼羅捜玄疏図本」を出した。
各地に広まった当麻曼荼羅絵解きの貴重な参考書になり、また浄土宗関係者に読まれ尊重されていたかがわかる。
 この私蔵本には熱心な読者自ら書かれた注釈が細かく几帳面に記述されている。いつの頃の注釈かは不明だが、この図本を繰り返し繰り返し熟読して絵解きを行なっていたことが想像できる。

表紙                                安永3年と記してある前書き


中央六重楼観


観音・勢至菩薩
丁寧な注釈の書き込みがされているのがわかる。


九品(きゅうほん)について記されている。
九品は『観経』に説く九つの階位。阿弥陀仏の浄土へ往生を願う衆生を、修めるべき行法(ぎょうぼう)の程度によって九種に分類したものとされる。


上品上生(じょうぼんじょうしょう)。
至誠心、深心、廻向発願心の3種の心を発して往生する者。
これには3種類の者がいるという。
慈心をもって殺生を行わず戒律行を具足する者
大乗方等経典を読誦する者
六念処を修行する者
その功徳により阿弥陀如来の浄土に生じることを願えば、1日もしくは7日で往生できるという。この人は勇猛精進をもち、臨終に阿弥陀や諸菩薩の来迎を観じ、金剛台に載り浄土へ往生し、即座に無生法忍を悟るという。


下品下生(げぼんげしょう)。
五逆罪・十悪を所作し、不善を行って地獄に堕すべき者。
臨終の時に善知識に遇い、仏の微妙なる法を聞いて、仏を念じようとしても、苦しみに喘ぎ念じることができない、ただただ十念を心から具足して阿弥陀の名号を唱える(称名念仏)と、念々に80億劫の生死の罪業を滅除し、金の蓮華を見て往生することができ、12大劫を経て蓮華が開敷し、観音や勢至の説法を聞いて、無上の菩提心を起すという。


白雉、鸚鵡(オウム)、迦陵頻伽(かりょうびんが)

中将姫説話コレクション2:「中将姫草子・下巻」(絵巻)

2009年10月01日 | 中将姫伝説を訪ねて

「下巻巻頭:しかるへき所に、しはのいほりむすひ、我とし比の、さいし、よひこし、ともに、このみをひろはせて、さとに出て物をこゐ、きの路にこえては、くま野たうしやに、物をこひ、よし野さんけゐの、たうしや、あはれみをこひて、ひめ君を、やしなひまいらせける程に。
ひめ君、十四さひに成給ふ、春のころ、かの物のふ、ちうひやうをうけて、七日と申に、はかなく成にけり、ひめ君なけき給へとも、かひそなき、いほりのかたはらに、けうやう、したまひけり。・・・」
(要約:柴の庵を結び、自分の妻を呼び寄せ、木の実を拾わせたり里へ物乞いに出たり、紀伊路で熊野道者に物乞いし、吉野参詣の道者に憐れみを乞い、姫を養い続けた。姫十四歳になった春の頃、武士は病気になり、とうとう亡くなってしまった。姫君は大変嘆かれ悲しまれたが、そのかいがあって生き返るわけでもなく、庵のそばに供養なさった。・・・)


(第8図:姫14歳、武士女房に里に出て料紙を求めさせ、称讃浄土経千巻を書き写す。)


(第9図:姫15歳、都から父豊成が狩りに来て、偶然に姫と再会する。)


(第10図:姫が父豊成に出家して尼になりたいことを話す。)


(第11図:姫が当麻寺に来て、出家を申し出、剃髪剃刀され、名をせんに比丘とされた。)


(第12図:せんに比丘は当麻寺に籠り、大誓願を起こし祈念する。)


(第13図:化尼が現われ、蓮の茎を百駄ほど届け、寺の北に染の井を掘り、蓮の糸を染める。)


(第14図:天女が現われ、寺の南西の隅に機織り機を置き、曼荼羅を織りはじめた。)


(第15図:西方から阿弥陀仏が現われ、せんに比丘に十三年後に迎えに来ることを告げる。)


「ここに、せんに、たましい、こつせんとして、思、せうせんたり、せんよふ、さりて返らす、たた思ひを、さひはうの、れん大の、夕へのくもによす。
せんに、そののち、十三ねんをへて、くわう人天わうのきよふに、六年、きのへう、六月二十三日、やくそくのことくいきやうくんし、おんかくきこへ、わうしやうの、そくわひを、とけ給ふ。」
(要約:せんに比丘はたちまちに思いを西方の空にお寄せになった。その後、せんに比丘は十三年を経て、宝亀六年(775)六月二十三日に、異香が草庵にかおり、音楽が響き、往生の素懐を遂げることができたのである。)


(第16図:十三年後、二十五菩薩が来迎し、中将姫を迎えにきて、往生を果たす場面。)

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<拡大図>
 
(第10図拡大:姫君)           (第12図拡大:姫君当麻寺へ)

中将姫説話コレクション1:「中将姫草子・上巻」(絵巻)

2009年09月25日 | 中将姫伝説を訪ねて
 「中将姫草子」(山上嘉久氏蔵)の二巻の絵巻は、現在まで存在が確認されている中将姫物語の写本の中ではかなり初期のもので、室町時代に書き写されたものと見られている。
 室町時代のお伽草子として本文も形態も古態を示している。絵は、素朴でかつ大胆な画風で稚拙なようであるが味があり非常に興味深い感じがする。また詞書(ことばがき)は流れるような達筆で文字の抑揚に物語のドラマチックさを感じさせるようだ。
 江戸時代の「中将姫本地」(慶安四年刊)と比べると、詞書もかなり抑えられており、のちの刊本に物語の枝葉がかなり付いていったことが感じられる。

 私はかって資料を探しに国立国文学資料館(当時は品川区戸越、平成20年立川市に移転)に通っていて、そこで見つけたもので、マイクロフィルムで所蔵されている資料をコピーしたものである。そのコピーを絵巻物に切り貼りして復元したもので、おそらくこのようにつなげて絵巻風に仕立ててあるのは、他にないだろうと想像される。
 小さな絵巻物で上下2巻に分かれている。
上巻・下巻それぞれ全ての絵図を紹介し、詞書は一部のみ紹介することにしたい。

 <上巻巻頭>

「それ、人わう四十七代の、御かとをは、はひたゐ天わうと申たてまつる。
しかるに、かの御かとに、天下ふさ□の、しんかあり、御名をは、よこはきの、う大しん、とよなりと、申たてまつる、しかるに、とよなり、子のなき事をかなしみ、かすか大明神に、申子を、し給ひける。
やかて、りしやう、ましまして、七月のくるしみ、十月はんと申に、玉をのへたる、ことくなる、ひめ君を、まうけ給ふ。
とよなりふうふの御悦、たとえむかたは、なかりけり。」
(要約:横佩右大臣豊成は子がいないのを悲しみ春日大明神に祈願し、そのおかげで姫を授かることができた)


 (第1図:姫、誕生の場面)


 (第2図:姫三歳の時、母君重い病気になり高僧を招き法要を執り行う)


 (第2図続き:効果なく母君亡くなり、嘆き悲しむ)


 (第3図:法事や供養を営み、寺院にお供え物を送る)


「ある時、ひめ君、たつときそうを、しやうして、せうさんしやうときやうを、うけ給ひけり。
ちち大しん、これを御らんして、いよいよ、御いとしみふかくして、過させ給ふ程に。
ままはは、これを、やすからぬ事に思て、つねには、ちち大しんに、中将ひめの、あしきさまの事を、申させ給ひけれとも、とかく、おほせもなし。
いかにもして、うしなひ、たてまつらむと、おもはれけるほとに、ひめ君、十三に成給ふ。
ことさら、ようかん、ひれゐにして、天下に、きこえさせ給ふ、きさきに、たてまつるへき、せんしありけれは、大しん、悦給ひ、きさきにたて給ふへき、御いとなみ、ましましけり。
ままはは、これをきき、いよいよ、やすからすそ、おもはれけり。」
(要約:中将姫は貴い僧を招き、「称讃浄土経」を受け、母の菩提を弔われたので、父豊成も姫をいとおしまれた。継母はこの姫を憎まれて姫を亡き者にしようと謀略に明け暮れる。姫十三歳になると、顔立ちが大変美しく、天皇より后に立たれるようにとの勅使が何度も来られた。豊成も喜ばれたが、継母は心安らかでなかった。)


 (第4図:姫七歳の時、子供二人が遊んでいるのを見て、乳母から母が亡くなった事を始めて聞く)


 (第5図:姫十三歳になると容顔美麗になり、天皇より后に立たれるようにと勅使が来る)


 (第6図:姫のもとに男や坊主が出入りしていると、継母が偽って豊成に告げ口する)


 (第7図:姫がひばり山に捨てられ、武士に討たれんとする場面)

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<拡大図>
 
(第1図拡大:奥方)          (第7図拡大:姫君と武士)

中将姫伝説の広がり4:神奈川県鎌倉市光明寺

2009年09月18日 | 中将姫伝説を訪ねて

 光明寺(こうみょうじ)は神奈川県鎌倉市材木座にある浄土宗関東大本山の寺院である。
鎌倉幕府4代執権北条経時が法然の流れを汲む浄土宗の高僧・然阿良忠(1199-1287)を開山として、仁治元年(1240年)、鎌倉の佐助ヶ谷(さすけがやつ、鎌倉市佐助2丁目)に開創した蓮華寺が当寺の起源とされる。
近世には、浄土宗の関東十八檀林の第一位の寺として栄えた。「関東十八檀林」とは、浄土宗に帰依していた徳川家康が定めた、浄土宗の学問所18か寺のことで、光明寺はその筆頭であった。

 「当麻曼荼羅縁起」(紙本著色当麻曼荼羅縁起 2巻-鎌倉時代制作の絵巻物で国宝、上下2巻に分かれる)がここ光明寺に伝わる(現在は鎌倉国宝館に寄託され特別展などで公開されている)。
 この絵巻は奈良・当麻寺に伝わる著名な当麻曼荼羅と中将姫の説話を絵解きしたもので、奈良時代、藤原豊成の姫が極楽往生を祈念し、蓮糸で曼荼羅を織りあげ、やがて阿弥陀如来に迎えられ、極楽へ旅立ったという物語。延宝三年(1675)、光明寺の大檀越であった内藤義概(ないとう よしむね)により寄進されたものといわれている。


 「当麻曼荼羅縁起」の一部
 横佩大臣家の一角、りっぱな四脚門は檜皮葺き。
 右:蓮糸を紡ぐ姫君たち、左:蓮茎を運び込む人々

 右:出来上がった曼荼羅の前で往生を待つ姫君。
 左:二十五菩薩の来迎。

 いかにして「当麻曼荼羅縁起」が鎌倉の光明寺にもたらされたのであろうか。
仁治三年(1242)、当麻寺の大曼荼羅堂の修理工事の際し、当麻曼荼羅を掛ける大厨子の改修が行なわれた。この厨子修理における結縁歴名の中に鎌倉幕府第4代将軍の藤原頼経(よりつね)(九条頼経)の名が見られるのである。源実朝(さねとも)が暗殺された後に実朝の弟・頼家の娘婿に迎えられたのである。頼経の父・九条道家の母が頼朝の縁戚に当たることからであった。
 厨子の改修には、将軍頼経を中心としての結縁にささえられており、父方の九条家一族と母方の藤原家一族の名が見られ、さらにこの時期にあわせて作成された「当麻曼荼羅縁起」の詞書は母方の叔父にあたる西園寺実によって書かれているという。

 第2代将軍頼家は伊豆国修禅寺に幽閉されたのち、北条氏の手により暗殺された。さらに第3代将軍実朝は鶴岡八幡宮で頼家の子公暁に暗殺された。子は無く、源氏将軍は三代で絶えた。第4代将軍藤原頼経が北条義時・政子姉弟の担ぎ挙げた傀儡将軍となったのは、わずか8才であった。 
 暗殺が絶えなかったことから、将軍頼経に強い信仰心が芽生え、母方の結縁の藤原家に相応しい鎮魂の寺である当麻寺の縁起を作成するに至ったのであろう、と私は考える。鎌倉にもたらされた「縁起」がその後に鎌倉一の浄土宗の光明寺に寄進されたのは自然の流れであろうと思う。
 その後の頼経は28才で将軍職を解かれ出家。しばらく鎌倉に留まったがのち京都へ送還させられ39才で死去している。

 (関連ブログ)→鎌倉ドライブ 光明寺-鶴岡八幡宮-長谷寺

中将姫伝説の広がり3:神奈川県藤沢市

2009年09月06日 | 中将姫伝説を訪ねて
 藤沢市の北西部御所見の用田字中条(あざちゅうじょう)には、中將姫がかつてここに住んだことがあるという伝承が残されていて、姫を祀(まつ)る小さな祠(ほこら)が建てられ、現在でも、姫の命日と伝えられる3月の14日には、この地区の人々が集まり、姫を偲んでのお祭りを行っている。

中将姫祠

<用田の中条に伝わる伝承>
 いつの頃か中將姫が中条に居られたことがあり、姫は見つかるのを恐れて、お面をかぶっていた。
 そのお面は、集落のお寺である寿昌寺(じゅしょうじ)に預けてあったが、住職がうなされるので、用田の寒川神社に納めたが盗まれてしまい現存しない。
 姫が馬に乗って散歩したという所には、『馬場』の地名が残り、かつては、姫のものだという五輪塔もあったとの言い伝えが残されている。用田中条の伝承は、わずかこれだけである。

中將姫の伝承がなぜここに?
いつの頃か(多分中將姫の伝承が広まる江戸時代)に、地名が同じであると言う理由から、女性のための信仰の対象として、姫を祀ることを始めたのではないかと考えざるを得ない。また、地区の言い伝えとして、初めの地名は中將と書いたが難しいので、何時の頃からか中条と改めたとも言われている。

川の駅「中将姫」
川の駅「中将姫」
藤沢市との境の神崎橋に出る。藤沢市側には「川の駅 中将姫」という休憩所が出来ていた。中将姫は藤原鎌足の孫娘で五歳のとき継母の迫害から逃れてこの地に隠れたことからその史跡がこの先の丘の上に小さな庵として残っている。さらに進むと中原街道へ出る。ちょうど新幹線のガードの付近だ。姫は後に父親の藤原豊成に救出されたと案内板に書かれていた。
 
その他、藤沢の遊行寺の宝物の中にも、中將姫縫仏(ぬいぼとけ)と伝える阿弥陀如来迎図があり、箱表には金泥で『中將姫繍佛』と書かれ、40世遊行上人が泉州の堺で賦算(ふさん)の折り寄進された者と伝えられている。

中将姫伝説の広がり2:岐阜県岐阜市大洞 願成寺

2009年08月20日 | 中将姫伝説を訪ねて
願成寺(がんじょうじ)は、岐阜県岐阜市大洞にある真言宗智山派の寺院である。
寺伝によると、養老5年(721年)、越前の国から泰澄という坊さんがやって来て、山間堂を現在の願成寺のある場所に移して寺を建て、大洞山清水寺としたとある。


この願成寺には国の天然記念物の「中将姫誓願桜」がある。

継母(ここでは照日の前)に追われた姫は長谷寺、當麻寺を転々としたが、
風の便りに、美濃の国大洞の里の願成寺の噂を耳にした。東大寺大仏建立の折りに、いろいろ霊験があったという話で、特にそのご本尊は、日頃尊信する長谷観音と同じ十一面観世音菩薩であると聞き、姫はその参詣を思い立って、はるばるこの地を訪れたのである。ところが、長い旅の疲れと折からの冷え込みのために婦人病にかかって苦しみ、なかなか治らないので困り果てた姫は、この寺の観音様に救いを求め、一心に祈った。すると不思議なことに、病気はたちまち快癒してしまった。姫は大層喜び、境内に一本の桜を植えて、真心を込めて祈ったということである。


天然記念物「中将姫誓願桜」


 誓願桜は、樹齢1200年といわれるヤマザクラが変異した珍種で、国の天然記念物に指定されている。
同種の桜は確認されていないらしく、そのためこの桜はプルヌス・フロリドラ・ミヨシという学名で世界に発表されている。樹高も8.1mとそれほど高くはない桜だが、淡い桜色の花をよく見ると花弁が20~30弁ほどあり、ヤマザクラよりも多い。見慣れた桜の花とはまったく違う桜とひと目でもわかるようだ。それも千二百年もの間風雪に耐えてきた桜なので何ともいえない風格が漂っている。

中将姫伝説の広がり1:和歌山県橋本市恋野

2009年07月30日 | 中将姫伝説を訪ねて
橋本市は紀ノ川の上流、和歌山県の北東端に位置し、東は奈良県五条市と接し交通の重要地点として栄えたところである。

橋本市の紀ノ川南岸、奈良県に隣接した恋野地区の地名は、中将姫伝説から生まれたと伝えられている。中将姫は奈良時代の権力者のひとり、右大臣藤原豊成の娘として生まれたが、5歳の時母を亡くした。豊成は後妻に照夜と言う女性を迎えたが、 中将姫は成長するにつれ容姿端麗、英知にも富み何事にも優れた女性になった。継母の照夜はこうした中将姫に嫉妬し、憎むようになった。その嫉妬心がますます強まり命をも狙われそうになり、姫は恋野の雲雀(ひばり)山に逃れ、仏に仕えて住むようになったという。
 だが、奈良の都や亡き母を思う心は募るばかりで「母恋し 恋しの野辺や…」と中将姫が詠んだ歌から恋野の地名が生まれた。中将姫は後に奈良・当麻寺に移り、ハスの茎の糸で曼荼羅(まんだら)を織り、その後成仏したと伝えられている。

 恋野の里にはこの中将姫にまつわる伝説の旧跡が数多くある。

中将倉
中将倉は姫が身を隠していた洞窟。父の豊成がこの里へ狩りに来て、この洞窟で一心に読経するやつれた女性に出合った。初めはお互いに父娘とわからなかったが、そのうち姫が気づき涙を浮かべ父のふところに飛び込んだと伝えられている。

中将の森
中将の森は中将姫が観音様を祀ったところといわれている。

観音堂姿見の池
中将の森には中将姫が姿を映したといわれる「姿見の池」や恋野の里の繁栄を祈り別れを惜しんだといわれる観音堂がある。

糸の懸橋
 このほか姫の命を救うため姫は昨年亡くなったと報告したことにちなむ去年川(こぞがわ)、姫がこの橋にかけた糸の懸橋、亡き母を思って通ってきた峠の三本松の布経(ぬのへ)の松、などの旧跡がある。