「中将姫草子」(山上嘉久氏蔵)の二巻の絵巻は、現在まで存在が確認されている中将姫物語の写本の中ではかなり初期のもので、室町時代に書き写されたものと見られている。
室町時代のお伽草子として本文も形態も古態を示している。絵は、素朴でかつ大胆な画風で稚拙なようであるが味があり非常に興味深い感じがする。また詞書(ことばがき)は流れるような達筆で文字の抑揚に物語のドラマチックさを感じさせるようだ。
江戸時代の「中将姫本地」(慶安四年刊)と比べると、詞書もかなり抑えられており、のちの刊本に物語の枝葉がかなり付いていったことが感じられる。
私はかって資料を探しに国立国文学資料館(当時は品川区戸越、平成20年立川市に移転)に通っていて、そこで見つけたもので、マイクロフィルムで所蔵されている資料をコピーしたものである。そのコピーを絵巻物に切り貼りして復元したもので、おそらくこのようにつなげて絵巻風に仕立ててあるのは、他にないだろうと想像される。
小さな絵巻物で上下2巻に分かれている。
上巻・下巻それぞれ全ての絵図を紹介し、詞書は一部のみ紹介することにしたい。
<上巻巻頭>
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/02/13/7114d5d2a1d8572dfe92b7bc893932df.jpg)
「それ、人わう四十七代の、御かとをは、はひたゐ天わうと申たてまつる。
しかるに、かの御かとに、天下ふさ□の、しんかあり、御名をは、よこはきの、う大しん、とよなりと、申たてまつる、しかるに、とよなり、子のなき事をかなしみ、かすか大明神に、申子を、し給ひける。
やかて、りしやう、ましまして、七月のくるしみ、十月はんと申に、玉をのへたる、ことくなる、ひめ君を、まうけ給ふ。
とよなりふうふの御悦、たとえむかたは、なかりけり。」
(要約:横佩右大臣豊成は子がいないのを悲しみ春日大明神に祈願し、そのおかげで姫を授かることができた)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/42/50/4d0ad35be52e740eb23618f9d0c908d6.jpg)
(第1図:姫、誕生の場面)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/6c/f3/2f4c758e804fa9f4b3974ae3fe0c1829.jpg)
(第2図:姫三歳の時、母君重い病気になり高僧を招き法要を執り行う)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/0f/e4/8498bc1542163ee9a0cb270098dd3a98.jpg)
(第2図続き:効果なく母君亡くなり、嘆き悲しむ)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/16/6f/268ab3a0656b6f36377182d14c6c4191.jpg)
(第3図:法事や供養を営み、寺院にお供え物を送る)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/54/fa/2a6d1f02eb7f6af13302466169a29910.jpg)
「ある時、ひめ君、たつときそうを、しやうして、せうさんしやうときやうを、うけ給ひけり。
ちち大しん、これを御らんして、いよいよ、御いとしみふかくして、過させ給ふ程に。
ままはは、これを、やすからぬ事に思て、つねには、ちち大しんに、中将ひめの、あしきさまの事を、申させ給ひけれとも、とかく、おほせもなし。
いかにもして、うしなひ、たてまつらむと、おもはれけるほとに、ひめ君、十三に成給ふ。
ことさら、ようかん、ひれゐにして、天下に、きこえさせ給ふ、きさきに、たてまつるへき、せんしありけれは、大しん、悦給ひ、きさきにたて給ふへき、御いとなみ、ましましけり。
ままはは、これをきき、いよいよ、やすからすそ、おもはれけり。」
(要約:中将姫は貴い僧を招き、「称讃浄土経」を受け、母の菩提を弔われたので、父豊成も姫をいとおしまれた。継母はこの姫を憎まれて姫を亡き者にしようと謀略に明け暮れる。姫十三歳になると、顔立ちが大変美しく、天皇より后に立たれるようにとの勅使が何度も来られた。豊成も喜ばれたが、継母は心安らかでなかった。)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/1c/da/cba68545d2899e4b83f015a5e057ebd4.jpg)
(第4図:姫七歳の時、子供二人が遊んでいるのを見て、乳母から母が亡くなった事を始めて聞く)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/61/6a/67fa4c7d055cf0c0803aa896d61c88cc.jpg)
(第5図:姫十三歳になると容顔美麗になり、天皇より后に立たれるようにと勅使が来る)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/0d/7f/8f0500f0665b8324356cbef30cbb7d4d.jpg)
(第6図:姫のもとに男や坊主が出入りしていると、継母が偽って豊成に告げ口する)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/00/dc/3355aa8f26e53c204dc5dd102d725290.jpg)
(第7図:姫がひばり山に捨てられ、武士に討たれんとする場面)
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<拡大図>
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/5e/aa/421b22f86f7db12860a254b950311f16.jpg)
(第1図拡大:奥方) (第7図拡大:姫君と武士)
室町時代のお伽草子として本文も形態も古態を示している。絵は、素朴でかつ大胆な画風で稚拙なようであるが味があり非常に興味深い感じがする。また詞書(ことばがき)は流れるような達筆で文字の抑揚に物語のドラマチックさを感じさせるようだ。
江戸時代の「中将姫本地」(慶安四年刊)と比べると、詞書もかなり抑えられており、のちの刊本に物語の枝葉がかなり付いていったことが感じられる。
私はかって資料を探しに国立国文学資料館(当時は品川区戸越、平成20年立川市に移転)に通っていて、そこで見つけたもので、マイクロフィルムで所蔵されている資料をコピーしたものである。そのコピーを絵巻物に切り貼りして復元したもので、おそらくこのようにつなげて絵巻風に仕立ててあるのは、他にないだろうと想像される。
小さな絵巻物で上下2巻に分かれている。
上巻・下巻それぞれ全ての絵図を紹介し、詞書は一部のみ紹介することにしたい。
<上巻巻頭>
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/02/13/7114d5d2a1d8572dfe92b7bc893932df.jpg)
「それ、人わう四十七代の、御かとをは、はひたゐ天わうと申たてまつる。
しかるに、かの御かとに、天下ふさ□の、しんかあり、御名をは、よこはきの、う大しん、とよなりと、申たてまつる、しかるに、とよなり、子のなき事をかなしみ、かすか大明神に、申子を、し給ひける。
やかて、りしやう、ましまして、七月のくるしみ、十月はんと申に、玉をのへたる、ことくなる、ひめ君を、まうけ給ふ。
とよなりふうふの御悦、たとえむかたは、なかりけり。」
(要約:横佩右大臣豊成は子がいないのを悲しみ春日大明神に祈願し、そのおかげで姫を授かることができた)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/42/50/4d0ad35be52e740eb23618f9d0c908d6.jpg)
(第1図:姫、誕生の場面)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/6c/f3/2f4c758e804fa9f4b3974ae3fe0c1829.jpg)
(第2図:姫三歳の時、母君重い病気になり高僧を招き法要を執り行う)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/0f/e4/8498bc1542163ee9a0cb270098dd3a98.jpg)
(第2図続き:効果なく母君亡くなり、嘆き悲しむ)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/16/6f/268ab3a0656b6f36377182d14c6c4191.jpg)
(第3図:法事や供養を営み、寺院にお供え物を送る)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/54/fa/2a6d1f02eb7f6af13302466169a29910.jpg)
「ある時、ひめ君、たつときそうを、しやうして、せうさんしやうときやうを、うけ給ひけり。
ちち大しん、これを御らんして、いよいよ、御いとしみふかくして、過させ給ふ程に。
ままはは、これを、やすからぬ事に思て、つねには、ちち大しんに、中将ひめの、あしきさまの事を、申させ給ひけれとも、とかく、おほせもなし。
いかにもして、うしなひ、たてまつらむと、おもはれけるほとに、ひめ君、十三に成給ふ。
ことさら、ようかん、ひれゐにして、天下に、きこえさせ給ふ、きさきに、たてまつるへき、せんしありけれは、大しん、悦給ひ、きさきにたて給ふへき、御いとなみ、ましましけり。
ままはは、これをきき、いよいよ、やすからすそ、おもはれけり。」
(要約:中将姫は貴い僧を招き、「称讃浄土経」を受け、母の菩提を弔われたので、父豊成も姫をいとおしまれた。継母はこの姫を憎まれて姫を亡き者にしようと謀略に明け暮れる。姫十三歳になると、顔立ちが大変美しく、天皇より后に立たれるようにとの勅使が何度も来られた。豊成も喜ばれたが、継母は心安らかでなかった。)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/1c/da/cba68545d2899e4b83f015a5e057ebd4.jpg)
(第4図:姫七歳の時、子供二人が遊んでいるのを見て、乳母から母が亡くなった事を始めて聞く)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/61/6a/67fa4c7d055cf0c0803aa896d61c88cc.jpg)
(第5図:姫十三歳になると容顔美麗になり、天皇より后に立たれるようにと勅使が来る)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/0d/7f/8f0500f0665b8324356cbef30cbb7d4d.jpg)
(第6図:姫のもとに男や坊主が出入りしていると、継母が偽って豊成に告げ口する)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/00/dc/3355aa8f26e53c204dc5dd102d725290.jpg)
(第7図:姫がひばり山に捨てられ、武士に討たれんとする場面)
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<拡大図>
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![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/5e/aa/421b22f86f7db12860a254b950311f16.jpg)
(第1図拡大:奥方) (第7図拡大:姫君と武士)