飛鳥への旅

飛鳥万葉を軸に、
古代から近代へと時空を越えた旅をします。
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中将姫説話コレクション1:「中将姫草子・上巻」(絵巻)

2009年09月25日 | 中将姫伝説を訪ねて
 「中将姫草子」(山上嘉久氏蔵)の二巻の絵巻は、現在まで存在が確認されている中将姫物語の写本の中ではかなり初期のもので、室町時代に書き写されたものと見られている。
 室町時代のお伽草子として本文も形態も古態を示している。絵は、素朴でかつ大胆な画風で稚拙なようであるが味があり非常に興味深い感じがする。また詞書(ことばがき)は流れるような達筆で文字の抑揚に物語のドラマチックさを感じさせるようだ。
 江戸時代の「中将姫本地」(慶安四年刊)と比べると、詞書もかなり抑えられており、のちの刊本に物語の枝葉がかなり付いていったことが感じられる。

 私はかって資料を探しに国立国文学資料館(当時は品川区戸越、平成20年立川市に移転)に通っていて、そこで見つけたもので、マイクロフィルムで所蔵されている資料をコピーしたものである。そのコピーを絵巻物に切り貼りして復元したもので、おそらくこのようにつなげて絵巻風に仕立ててあるのは、他にないだろうと想像される。
 小さな絵巻物で上下2巻に分かれている。
上巻・下巻それぞれ全ての絵図を紹介し、詞書は一部のみ紹介することにしたい。

 <上巻巻頭>

「それ、人わう四十七代の、御かとをは、はひたゐ天わうと申たてまつる。
しかるに、かの御かとに、天下ふさ□の、しんかあり、御名をは、よこはきの、う大しん、とよなりと、申たてまつる、しかるに、とよなり、子のなき事をかなしみ、かすか大明神に、申子を、し給ひける。
やかて、りしやう、ましまして、七月のくるしみ、十月はんと申に、玉をのへたる、ことくなる、ひめ君を、まうけ給ふ。
とよなりふうふの御悦、たとえむかたは、なかりけり。」
(要約:横佩右大臣豊成は子がいないのを悲しみ春日大明神に祈願し、そのおかげで姫を授かることができた)


 (第1図:姫、誕生の場面)


 (第2図:姫三歳の時、母君重い病気になり高僧を招き法要を執り行う)


 (第2図続き:効果なく母君亡くなり、嘆き悲しむ)


 (第3図:法事や供養を営み、寺院にお供え物を送る)


「ある時、ひめ君、たつときそうを、しやうして、せうさんしやうときやうを、うけ給ひけり。
ちち大しん、これを御らんして、いよいよ、御いとしみふかくして、過させ給ふ程に。
ままはは、これを、やすからぬ事に思て、つねには、ちち大しんに、中将ひめの、あしきさまの事を、申させ給ひけれとも、とかく、おほせもなし。
いかにもして、うしなひ、たてまつらむと、おもはれけるほとに、ひめ君、十三に成給ふ。
ことさら、ようかん、ひれゐにして、天下に、きこえさせ給ふ、きさきに、たてまつるへき、せんしありけれは、大しん、悦給ひ、きさきにたて給ふへき、御いとなみ、ましましけり。
ままはは、これをきき、いよいよ、やすからすそ、おもはれけり。」
(要約:中将姫は貴い僧を招き、「称讃浄土経」を受け、母の菩提を弔われたので、父豊成も姫をいとおしまれた。継母はこの姫を憎まれて姫を亡き者にしようと謀略に明け暮れる。姫十三歳になると、顔立ちが大変美しく、天皇より后に立たれるようにとの勅使が何度も来られた。豊成も喜ばれたが、継母は心安らかでなかった。)


 (第4図:姫七歳の時、子供二人が遊んでいるのを見て、乳母から母が亡くなった事を始めて聞く)


 (第5図:姫十三歳になると容顔美麗になり、天皇より后に立たれるようにと勅使が来る)


 (第6図:姫のもとに男や坊主が出入りしていると、継母が偽って豊成に告げ口する)


 (第7図:姫がひばり山に捨てられ、武士に討たれんとする場面)

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<拡大図>
 
(第1図拡大:奥方)          (第7図拡大:姫君と武士)

万葉アルバム(明日香):万葉記念館

2009年09月22日 | 万葉アルバム(明日香)

山振(やまぶき)の立ちよそひたる山清水(やましみず)
酌(く)みに行かめど道の知らなく
   =巻2-0158 高市皇子=


山吹の花が咲いている山の清水を汲みに行こうと思っても、どう通って行ったらよいか、道が分からないのです。という意味。

 十市皇女(とおちのひめみこ)が亡くなった時、高市皇子がつくった歌。十市皇女は天武天皇と額田王との娘。高市皇子は天武天皇の長子。ほぼ同年代の異母姉弟。山吹の花にも似た姉の十市皇女が急死し、どうしてよいのか分からないという心情を吐露している。一方、あざやかな黄色い花をつける山吹が咲いている場所の清水を汲みに行きたいという表現は、死者の赴く「黄泉国(よみのくに)」へ行きたいという思いを表現するものだ、とする説もある。

 万葉歌人である額田王の血を引いた十市皇女であるが、万葉集に一首も残していない。十市は父・天武の兄である天智天皇の後継者・大友皇子の元へ嫁ぐ。やがて、天武と天智の反目、そして天武と大友との戦争・壬申の乱が起こる。このとき十市は夫の元を離れ、父を頼り吉野軍下に身を寄せる。天武第一皇子として全軍を指揮していた高市と、十市の人生が交錯していくのはこの戦争が契機になったに違いない。しかし、壬申の乱から三年後、彼女は急死するのである。夫と父、さらに高市の間で揺れたプリンセス十市皇女の死因については、明らかになっていない。

 万葉記念館は、平成10年に亡くなった万葉学者犬養孝さんを記念して平成12年に明日香の地に開館した。記念館の中庭にこの万葉歌碑が建っている。

 ヤマブキ

万葉アルバム(奈良):山の辺、三輪山

2009年09月20日 | 万葉アルバム(奈良)

三輪山をしかも隠すか雲だにも
情(こころ)あらなも隠さふべしや
   =巻1-18 額田王=


なつかしい大和の国の三輪山を、なぜそのように隠すのか、せめて雲だけでも思いやりがあってほしい。隠したりなんかしないでほしい、という意味。

 この歌は天智6年(667)に都を明日香の地から近江に移す時に詠んだ歌である。

 三輪山は大神神社のご神体として往古から崇敬されてきた山だ。463㍍のさほど高い山ではないが、記紀にも登場する歴史を語る山である。大物主神の妻となった倭迹迹日百襲姫命(やまとととびももそひめのみこと)の話が日本書紀崇神天皇の条にある。大物主神の本体は蛇であったという話だが、現在も大神神社では供物に蛇の好物の卵が使われる。正体を知った倭迹迹日百襲姫命は驚いて亡くなってしまった。それが桜井市箸中にある箸墓といわれる。

 私が以前立ち寄った時、大神神社の摂社の周りの石垣の間にたくさんの白ヘビが住み着いているのを目撃した。参拝者が卵を供えると、白ヘビが顔を出し卵をくわえて穴に戻る。私は何枚か夢中になってカメラのシャッターを切った。
 帰宅してフィルムを現像に出したら、フィルム全部が真っ白くなっており何も映ってなかったのには、大変驚いた。フィルムに映らなかったのはこの時を除いて今まで一度もなかったことである。今でもしょっとするとこれは大物主神の怒りにふれたのかなと思っている。


この万葉歌碑は桜井市穴師の景行陵南に建っている。
山の辺の道を天理から南下して景行陵を過ぎると、視界が急に開けたところに出鵜る。
眼前に三輪山の雄姿を一望することができる絶好のアングル。その足元にこの万葉歌碑が建っているのである。
歌碑の揮毫は小説家・歌人の中河与一による。

中将姫伝説の広がり4:神奈川県鎌倉市光明寺

2009年09月18日 | 中将姫伝説を訪ねて

 光明寺(こうみょうじ)は神奈川県鎌倉市材木座にある浄土宗関東大本山の寺院である。
鎌倉幕府4代執権北条経時が法然の流れを汲む浄土宗の高僧・然阿良忠(1199-1287)を開山として、仁治元年(1240年)、鎌倉の佐助ヶ谷(さすけがやつ、鎌倉市佐助2丁目)に開創した蓮華寺が当寺の起源とされる。
近世には、浄土宗の関東十八檀林の第一位の寺として栄えた。「関東十八檀林」とは、浄土宗に帰依していた徳川家康が定めた、浄土宗の学問所18か寺のことで、光明寺はその筆頭であった。

 「当麻曼荼羅縁起」(紙本著色当麻曼荼羅縁起 2巻-鎌倉時代制作の絵巻物で国宝、上下2巻に分かれる)がここ光明寺に伝わる(現在は鎌倉国宝館に寄託され特別展などで公開されている)。
 この絵巻は奈良・当麻寺に伝わる著名な当麻曼荼羅と中将姫の説話を絵解きしたもので、奈良時代、藤原豊成の姫が極楽往生を祈念し、蓮糸で曼荼羅を織りあげ、やがて阿弥陀如来に迎えられ、極楽へ旅立ったという物語。延宝三年(1675)、光明寺の大檀越であった内藤義概(ないとう よしむね)により寄進されたものといわれている。


 「当麻曼荼羅縁起」の一部
 横佩大臣家の一角、りっぱな四脚門は檜皮葺き。
 右:蓮糸を紡ぐ姫君たち、左:蓮茎を運び込む人々

 右:出来上がった曼荼羅の前で往生を待つ姫君。
 左:二十五菩薩の来迎。

 いかにして「当麻曼荼羅縁起」が鎌倉の光明寺にもたらされたのであろうか。
仁治三年(1242)、当麻寺の大曼荼羅堂の修理工事の際し、当麻曼荼羅を掛ける大厨子の改修が行なわれた。この厨子修理における結縁歴名の中に鎌倉幕府第4代将軍の藤原頼経(よりつね)(九条頼経)の名が見られるのである。源実朝(さねとも)が暗殺された後に実朝の弟・頼家の娘婿に迎えられたのである。頼経の父・九条道家の母が頼朝の縁戚に当たることからであった。
 厨子の改修には、将軍頼経を中心としての結縁にささえられており、父方の九条家一族と母方の藤原家一族の名が見られ、さらにこの時期にあわせて作成された「当麻曼荼羅縁起」の詞書は母方の叔父にあたる西園寺実によって書かれているという。

 第2代将軍頼家は伊豆国修禅寺に幽閉されたのち、北条氏の手により暗殺された。さらに第3代将軍実朝は鶴岡八幡宮で頼家の子公暁に暗殺された。子は無く、源氏将軍は三代で絶えた。第4代将軍藤原頼経が北条義時・政子姉弟の担ぎ挙げた傀儡将軍となったのは、わずか8才であった。 
 暗殺が絶えなかったことから、将軍頼経に強い信仰心が芽生え、母方の結縁の藤原家に相応しい鎮魂の寺である当麻寺の縁起を作成するに至ったのであろう、と私は考える。鎌倉にもたらされた「縁起」がその後に鎌倉一の浄土宗の光明寺に寄進されたのは自然の流れであろうと思う。
 その後の頼経は28才で将軍職を解かれ出家。しばらく鎌倉に留まったがのち京都へ送還させられ39才で死去している。

 (関連ブログ)→鎌倉ドライブ 光明寺-鶴岡八幡宮-長谷寺

万葉アルバム(奈良):当麻、二上山

2009年09月15日 | 万葉アルバム(奈良)

うつそみの人なる我や明日よりは
二上山(ふたかみやま)を弟背(いろせ)と我(あ)が見む
   =巻2-165 大伯皇女=


生きて現世に残っている私は、明日からはあの二上山ををいとしい弟と思って眺めようか。という意味。

大津皇子(おおつのみこ)は天武天皇の御子(母は大田皇女)。大柄で容貌も男らしく人望も厚く、同じ天武天皇の御子である草壁皇子(母は大伯皇女の妹である鸕野讚良(うののさらら)皇女=のちに持統皇后)に対抗する皇位継承者とみなされていた。しかし686年、天武天皇崩御後1ヶ月もたたないうちに、反逆を謀ったとして24歳の若さで処刑された。草壁の安泰を図ろうとする皇后持統の思惑がからんでいたともいわれる。
 
 この歌は、大津皇子を葛城の二上山に葬った時に、姉の大伯皇女(おおくのひめみこ)が作った歌。二上山は奈良県と大阪府の境界をなす葛城連峰にある山で、雄岳と雌岳の二つの峰がある。大津の墓は、今も二上山の雄岳の山頂近くに、大和に背を向けるようにして建っている。

 大伯皇女は天武天皇の皇女として生れたが、十三歳で伊勢へ神に仕える斎王として赴いた。大津が処刑される直前に伊勢に行き大伯皇女に再開した。大津処刑から一ヵ月後、大伯皇女は斎王の任を解かれ十四年ぶりに都へ帰る。この時に目にした二上山に弟大津を重ねて見ていたのであろう。

 持統皇后は姉(大田皇女)の子(大津皇子)を謀反の罪におとし、自分の子(草壁皇子)を次期天皇へと目指すが、草壁の病死によりその夢は途切れたかにみえた。しかし今度は草壁の子・軽皇子が皇位に就くまでの間、自ら即位して持統天皇となったのである。
この持統女帝の波乱万丈の生涯は日本史の中でも屈指のものであろう。

 歌碑は当麻の当麻寺うらにある休養センター前に建てられている。

万葉アルバム(奈良):奈良、率川神社

2009年09月13日 | 万葉アルバム(奈良)

羽根かずら 今する妹(いも)を うら若み
いざ率川(いざかわ)の 音の清(さや)けさ
   =巻7-1112 作者未詳=


鳥の羽根や菖蒲(あやめ)で作った「羽根かずら」の髪飾りをした乙女が、率川の畔(ほとり)に佇(たたず)み、「いざ」と誘いたくなる様な雰囲気で、それにしても率川の水音の何と爽(さわ)やかなことよ。という意味。

女性への甘く切ない気持ちを、さらさらと流れる川に乗せて詠んだ万葉歌だ。
「羽根かずら」は、年ごろになった少女がつける髪飾り。
猿沢池の南側を流れる「率川」、今では率川は途中から暗渠になって奈良町の市街地を土管の中を流れ、姿を見る事が出来ない。

近鉄奈良駅のすぐ近くにある率川(いさがわ)神社は、推古天皇の勅命により593年に創建した古い歴史と由緒をもつ神社。この神社は3つの社が並んでおり、左から父神、姫神、母神と子供を見守るように並んでいることから子守明神とよばれ、安産、育児、息災延命の神として有名である。
また毎年6月17日の三枝祭(さいぐさまつり)は、別名「ゆりまつり」と呼ばれ有名な古式の神事で、三輪山より自生する三枝の花、(笹百合)を酒樽に飾りお供えされ巫女達により神楽が奉納される。

このお祭りには、次のような伝説がある。大物主大神の娘である五十鈴姫が三輪の里で百合を摘んでいた所に神武天皇が通りかかり、あまりに清らかで美しい姫をみそめ、皇后に迎え入れられたという。なんともロマンチックな話である。

絵と語りの芸能3:絵解き

2009年09月11日 | 絵と語りの芸能
 「絵解き」というのは、一般的には絵画を読み解いて説明することをいうが、
日本では古来から仏教の普及のために行なわれていたのである。
昔は文字が読めない人が多く、絵解きによって説教を行なう方法が広く各地で行なわれてきた。
「絵解き」を行なう説教者や比丘尼の語りが、後に「のぞきからくり」「写し絵」などの芸能に広がり、節談説教や浪曲へとつながっていく。
 ここでは「絵解き」にどのような種類のものがあるのかを、分類しながら見ていこうと思う。


1.曼荼羅絵解き
 当麻曼荼羅絵解き

 中世における絵解きの中で最も注目されるものは、奈良県当麻寺の「当麻曼荼羅絵解き」である。俗に「まんだら絵解き」といわれ、主として浄土宗の寺を中心として全国に広まった。この絵解きは、仏教界の絵解き説教の中でも特異なもので、「観無量寿経」の主旨を絵で説きながら、さらに中将姫の伝説を織り込んで近世にも広く発展し、文学や芸能に影響を及ぼした。
「観無量寿経」を最初に説いたのは法然門下の証空(1177~1247)で、その後多くの説教教化者に広まっていったのである。


2.絵伝絵解き
 聖徳太子絵伝の絵解き
 法然上人絵伝

 絵解きの中で、最も多くの人々に親しまれたのが、日本仏教各宗の宗祖の絵伝である。中でも「法然上人絵伝」「親鸞聖人御絵伝」は広く知られている。また宗祖ではないが、「聖徳太子絵伝」も多数みられる。
特に親鸞の絵伝は異本が多くあり、模本も相当数作られている。それに絵解きする人のアドリブが加わっていったようだ。
絵伝は生涯にわたっての事跡を絵で順番に表現したもので、複数幅に分けて描かれるのが多いようだ。


3.十界図絵解き
 熊野比丘尼の絵解き

 熊野観心十界図

 「熊野観心十界図」は、「熊野の絵」とか「地獄絵」「極楽地獄図」とも呼ばれている。中世の熊野は”蟻の熊野詣”といわれるように、熊野参詣は隆盛を極めていた。伝道絵解きの熊野比丘尼が、熊野に年籠りし、伊勢に詣でた後、諸国を巡り歩きながら、十界図の絵解きを行い、熊野信仰の伝播にあやかったのである。

 「熊野観心十界図」は、絵の上半分の半円弧には人が生まれてから死ぬまでの姿が、その下には地獄・餓鬼・畜生・阿修羅・人・天・声聞・緑覚・菩薩・仏の「十界」が描かれている。
これは、熊野比丘尼とよばれる女性宗教者が、絵をもちいて民衆にわかりやすく仏教の思想を教える絵解きに用いられたものとされており、地獄・餓鬼・畜生・阿修羅・人・天・声聞・緑覚・菩薩・仏の「十界」が描かれている。


4.参詣曼荼羅絵解き

 那智参詣曼荼羅

 参詣曼荼羅の中でも一番名高いものとして「那智参詣曼荼羅」があるが、これも熊野比丘尼が携えて説いたものであろう。那智参詣の宣伝に一役買ってこれが広まり、各地の寺院に参詣曼荼羅が作られ、比丘尼等によって広まっていったようだ。
 参詣曼荼羅は「社寺参詣曼荼羅」と言って高野山やお伊勢さんなど各霊場にあるが、 熊野には31本と飛び抜けて多い本数が存在している。 参詣曼荼羅は全国で百本あまりと言われているので、 そのうちの3分の1にあたる。 熊野はそれだけ全国的な勧進活動を行なっていたということである。


5.絵巻絵解き
 道成寺縁起絵巻の絵解き

 道成寺縁起絵巻の一部

 あまり多くは見られないが、和歌山県道成寺の「道成寺縁起絵巻」の絵解き説法は有名である。上下二巻の縁起らしからぬ縁起の絵巻で、手際よく巻き進めながら面白おかしく絵解きする。すでに江戸時代には定着していたようだ。
 のちにこの絵巻のストーリーは歌舞伎の”娘道成寺”として歌舞伎の看板出し物となったのである。

<参考サイト>
当麻寺 当麻曼荼羅
熊野本宮参詣曼荼羅
熊野新宮参詣曼荼羅
熊野観心十界曼荼羅
道成寺縁起絵巻

万葉アルバム(中部):高岡、勝興寺

2009年09月09日 | 万葉アルバム(中部)

海行かば 水漬く屍 山行かば 草むす屍
大君の 辺にこそ死なめ かえりみはせじ
   =巻18-4094 大伴家持=


大伴家の遠い祖先の神、その名を大来目主よ呼ばれてお仕えしてきた職であるため、海に行くなら水に浸かる屍となり、山を行くなら草むす屍となっても、大君のお側で死のう、自らを顧みるようなことはするまいと誓いを立て、立派な男として潔いその名を昔から今まで伝えてきた、その祖先の末なのだ。・・・という意味。

高岡市、小矢部川の河口、伏木港の近くにある浄土真宗本願寺派勝興寺が往時の越中国府址と伝えられる。大伴家持は養老2年(718)大伴旅人の子として奈良に生まれ、聖武天皇に仕え、天平18年(746)越中守としてここに赴任した。

歌碑は勝興寺の境内にある。万葉歌人大伴家持が越中国の任地でこの歌を詠んだのは749年、昇進の喜びをうたったもの。
陸奥の国より金を出せる詔書を賀(ほ)く長歌の一節。歌碑には昭和十二年、日支事変中、北京攻略を記念して建立したものと記されている。

昭和12年にこの歌に信時潔が作曲をした。これがなかなかの名曲で、出征した軍人が美しい日本のためにいつ死んでもいいという気持ちになったものだ。ところが、戦後この歌は戦争中の軍国主義をたたえる歌だと危険視されていたのである。
しかし万葉集の題詞をみると、この歌は戦争を謳歌するような歌ではなく、わか国で初めて金が陸奥の国から大量に出てきたことを天皇が喜んだ時に家持が歌った歌なのである。

中将姫伝説の広がり3:神奈川県藤沢市

2009年09月06日 | 中将姫伝説を訪ねて
 藤沢市の北西部御所見の用田字中条(あざちゅうじょう)には、中將姫がかつてここに住んだことがあるという伝承が残されていて、姫を祀(まつ)る小さな祠(ほこら)が建てられ、現在でも、姫の命日と伝えられる3月の14日には、この地区の人々が集まり、姫を偲んでのお祭りを行っている。

中将姫祠

<用田の中条に伝わる伝承>
 いつの頃か中將姫が中条に居られたことがあり、姫は見つかるのを恐れて、お面をかぶっていた。
 そのお面は、集落のお寺である寿昌寺(じゅしょうじ)に預けてあったが、住職がうなされるので、用田の寒川神社に納めたが盗まれてしまい現存しない。
 姫が馬に乗って散歩したという所には、『馬場』の地名が残り、かつては、姫のものだという五輪塔もあったとの言い伝えが残されている。用田中条の伝承は、わずかこれだけである。

中將姫の伝承がなぜここに?
いつの頃か(多分中將姫の伝承が広まる江戸時代)に、地名が同じであると言う理由から、女性のための信仰の対象として、姫を祀ることを始めたのではないかと考えざるを得ない。また、地区の言い伝えとして、初めの地名は中將と書いたが難しいので、何時の頃からか中条と改めたとも言われている。

川の駅「中将姫」
川の駅「中将姫」
藤沢市との境の神崎橋に出る。藤沢市側には「川の駅 中将姫」という休憩所が出来ていた。中将姫は藤原鎌足の孫娘で五歳のとき継母の迫害から逃れてこの地に隠れたことからその史跡がこの先の丘の上に小さな庵として残っている。さらに進むと中原街道へ出る。ちょうど新幹線のガードの付近だ。姫は後に父親の藤原豊成に救出されたと案内板に書かれていた。
 
その他、藤沢の遊行寺の宝物の中にも、中將姫縫仏(ぬいぼとけ)と伝える阿弥陀如来迎図があり、箱表には金泥で『中將姫繍佛』と書かれ、40世遊行上人が泉州の堺で賦算(ふさん)の折り寄進された者と伝えられている。

万葉アルバム(奈良):桜井、等弥神社

2009年09月02日 | 万葉アルバム(奈良)

妹が目を跡見(とみ)の崎の秋萩(あきはぎ)は
この月ごろは散りこすなゆめ
   =巻8-1560 大伴坂上郎女=


あなたが後で見ると言う跡見(とみ)の崎の秋萩よ、ここ暫くは散らないでおくれ、あなたが見にくるまで散らないでおくれ。という意味。

 桜井市にある等弥(とみ)神社は神武天皇時代に鳥見山中に創建された古社である。ここは古代の跡見(とみ)の地であったと推定されている。閑静な神社にこの歌碑が建っている。

大伴坂上郎女の子(坂上大嬢)が、大伴旅人の子である大伴家持の妻となったため、家持にとって大伴坂上郎女は姑であり叔母でもあった。
家持は万葉集の偏纂に大きく係わり473首の歌を残しているが、その家持の母代わりとなり教育したともいわれる大伴坂上郎女の歌は万葉集に86首も残されている。豊かな叙情性をもった恋の歌が多く見られる。