飛鳥への旅

飛鳥万葉を軸に、
古代から近代へと時空を越えた旅をします。
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2001年12月 春日若宮おん祭

2010年12月20日 | 思い出の大和路探訪
 12月17日、春日若宮おん祭のお渡り式を見に出かけた。
春日大社の摂社とされる若宮社の例大祭である。平安末期1136年、時の関白・藤原忠通が五穀豊穣、国家安寧を願って始めたとされる。
ご神霊が多くの供奉(くぶ)を従えてお旅所の行宮(あんぐう)へ遷られることを一般にお渡りと言うが、おん祭の場合はご神霊の行列ではなく既に行宮へ遷られた若宮神のもとへ、芸能集団や祭礼に加わる人々が社参する行列の事をいう。
この様子は、意匠を凝らした華やかな風流の行列としておん祭の大きな魅力の一つとなっている。
中心は平安時代から江戸時代に至る風俗を満載した伝統行列の部分である。

 お渡り式が始まる前に春日大社をお参りした。10時30分。


春日大社の社殿


静寂なたたずまい


飛火野の鹿もおん祭を見物か


飾り馬が出来上がり、間もなく行列が始まるようだ 11時12分
正式には将馬(いさせうま)という
将馬(いさせうま)は、かつて大和の大名家中より奉った引き馬の名残りで、神前に馬を献じた古習を示すもの。


春日若宮おん祭 スタート 12時


榊?


市女笠


赤衣(せきえ)
梅の白枝(うめのずばえ)と祝の御幣(いわいのごへい)を捧げた赤衣の二人。


十列児(とおつらのちご)


巫女(みこ)
白の被衣(かずき)をいただき風流傘を差しかけられながら騎馬で進む女性が巫女(みこ)(拝殿八乙女)である。


馬長児(ばちょうのちご)






野太刀(のだち)
5.5メートルほどもある見事な大型の野太刀を先頭に中太刀・小太刀・薙刀(なぎなた)・数槍(かぶやり)と続く。太刀・槍などのオンパレード。


大名行列
大名行列は、江戸時代からお渡りに加わったもので、武家の祭礼の伝統を大和国内の郡山藩・高取藩などが受け継いで供奉した。


大名行列をもって、お渡りの終了となるのか。

なかなか全部を観るのは大変な程の出し物である。
なにしろ祭り自体は0時からその日の24時まで延々と行われるようだ。
時間があれば参道の流鏑馬(やぶさめ)や、お旅所での神遊(かみあそび)を
観るのも楽しいようだ。

1991年3月 飛鳥(益田岩船)から聖林寺へ

2010年10月25日 | 思い出の大和路探訪
 大阪転勤を終えた2年後、ひさしぶりに飛鳥を訪ねた。

 桜が開花したころの飛鳥をサイクリングで回った。
飛鳥の西の益田岩船から、飛鳥中央部を経て東隣に位置する聖林寺まで、
自転車ならではの広範囲の旅だった。


コース:飛鳥駅-益田岩船-久米寺-下平田-橘寺-岡寺-飛鳥寺-紀寺跡-山田寺跡-聖林寺



益田岩船
益田岩船(ますだのいわふね)は奈良県橿原市白橿町にある花崗岩の巨大な石造物。つくられた時期や目的などは不明で、亀石・酒船石などと並ぶ飛鳥の謎の石造物の一つで、その中でも最大のものである。


人物が写っていると、岩船の大きさがわかる。


当時は眺望もよく岩船の全体像を望むことができたが、
20年後の現在では周りに竹林が茂り眺望がよくないようだ。


久米寺
女性のふくらはぎを見て雲から落ちたとの言い伝えがあるユーモラスな久米仙人ゆかりの久米寺。大和三山のひとつ、畝傍山の東南麓に位置する。


下平田


下平田、紅梅と菜の花


橘寺を望む


橘寺と仏頭山
正式名が仏頭山上宮皇院橘寺。その名にある仏頭山が背後に立つ。


橘寺の蓮華塚
聖徳太子が勝鬘経講讃を行った時に降った蓮の華を埋めたと伝えられる方形の土壇。


岡寺
義淵僧正によって建立されたと伝えられる。西国33カ所巡りの7番札所。


飛鳥寺と桜


飛鳥寺と桃の花


奥山への道から香具山を望む


紀寺跡
藤原京造営以前の7世紀後半に創建された古寺。現在は草地で何ない。


山田寺跡
蘇我倉山田石川麻呂の創建。
大化改新(645年)の時、中大兄皇子のもと蘇我入鹿殺害の重要な役割をはたした石川麻呂は、新政府で右大臣となるが、大化5年(649)3月に左大臣 阿部内摩呂大臣が亡くなった、その1週間後、こんどは右大臣の石川麻呂大臣 謀反の疑いを受け、妻子ほか8人とともに建設中の山田寺仏殿において自殺した。


山田寺跡全景
発掘調査によって、塔と金堂が南北に一直線に並ぶ伽藍配置が明らかになり、さらに昭和57年暮れ、回廊の一部が倒れたままの完全な姿で発見され、エンタシスの柱や連子窓など創建時の姿をしのばせる貴重な資料として、いちやく注目を浴びた。
世界最古といわれる法隆寺よりも半世紀もさかのぼる木造建築物だったからだ。


山田寺跡全景(別の方角)


聖林寺
桜井市にある真言宗室生寺派の寺院。
聖林寺には天平時代の最高傑作である国宝十一面観音が安置されている。


聖林寺から見た三輪山

1988年7月 飛鳥(稲淵-栢森-壺阪寺)

2010年10月04日 | 思い出の大和路探訪
 夏の暑い最中に飛鳥の上流を訪ねた。
コース:下平田-坂田-祝戸-稲淵-栢森-芋峠-高取城址-壺阪寺


下平田、鬼の俎の手前、多武峰を望む


坂田から石舞台方面を望む


祝戸研修センターを望む


祝戸付近の飛鳥川


坂田、マラ石
もともとは垂直に立っていたようで、飛鳥謎の石造物の一つ。
地元では飛鳥川を挟んで対岸にある丘を『フグリ山』と呼んでおり、ふたつで一対をなす『子孫繁栄』『五穀豊穣』を祈る古代信仰の遺物とされている。


稲淵、神所橋
稲淵の綱掛神事が行われる場所で、神所橋の橋の上に祭壇を整え、神職がお祓いの後、飛鳥川の上を横切って、陰物をかたどった「男綱」を掛け渡す行事がある。


稲淵、地蔵堂下の石橋
「飛鳥川 明日も渡らむ石橋の 遠き心は思ほえぬかも」
この石橋(いわはし)を渡って、毎夜愛しい彼女に会いに行ったという万葉人を彷彿とするようだ。


稲淵、竜福寺付近にて


稲淵、竜福寺と竹野生石塔
竜福寺は浄土宗鎮西派の末寺で、境内に日本最古の墓標と思われる五輪石塔がある。
竹野王碑と呼ばれているこの石塔は、5層のうち3層4層部分が残っていて、「天平勝宝三年歳次辛卯四月二十四日丙子、従二位竹野王」の文字が刻まれている。
竹野王という人については未だ謎だが、長屋王邸宅からも、その名が記された木簡が出土している。




稲淵、式内社飛鳥川上坐宇須多岐比売命神社
名前も長いが石段も長いこの神社。下流の甘樫丘近くにある飛鳥坐神社の男神に対する女神だとか。古代から伝わる雨乞いの儀式、『仮南無天踊り』が今も受け継がれている。


栢森、水神を祀る小祠


栢森の女綱
稲渕の男綱と対をなすこちらは、やはり飛鳥川上流に棲む女性竜神のシンボルをかたどっている。
女綱のそばにあるのは福石。


栢森集落


栢森、式内社加夜奈留美命神社
祭神である加夜奈留美命は、日本最古の女性の神様で、皇孫を守護した位の高い神様だそうだ。


飛鳥川上流、芋峠方面を望む


芋峠付近の役の行者石像
ここは、新旧の峠道が交わる場所である。
峠の途中にある役の行者像には、「右よしの山上」「左ざいみち」と彫ってある。


高取城址
日本屈指の山城「高取城」は、日本一の比高(麓から天守台までの高低差)390mを誇る。明治時代に解体されたため現在は石垣しか残っていないが、それが古代へのロマンをかきたてるようだ。


高取城址


壺阪寺 山門
西国三十三ヵ所第6番の札所。浄瑠璃「壷坂霊験記」のお里・沢市の物語の舞台である。


壺阪寺境内
一般には「壷坂観音霊験記」の壷阪寺の名で知られているが、正しくは南法華寺(みなみほっけじ)という。 「寺は壷阪、笠置、法輪」と清少納言の「枕草子」にあるように、平安時代から壷阪寺は霊験あらたかな寺として知られ ていたようである。


壺阪寺三重塔


壺阪寺大観音石像
大観音石像は、インドに対して社会奉仕事業(救ライ事業)を行ったお礼として、インド政府から贈られたもので、高さが20m、総重量1200トンあり、石像としては世界最大である。


壺阪寺、寺内より飛鳥方面を望む

1988年7月 奈良シルクロード博

2010年09月20日 | 思い出の大和路探訪
 なら・シルクロード博覧会は、1988年4月23日から10月23日まで奈良県奈良市で開催された博覧会。入場者は682万人。
平城宮跡会場以外は奈良公園周辺の会場で行われた。
 いくつかの写真のパビリオンの名前等が今となっては不明である。


奈良シルクロード博覧会 入場ゲート


博覧会会場


登大路会場  テーマ館










海のシルクロード館  海の道の文物展示


飛火野会場  いくつかのオブジェが展示されていた












平城宮跡会場



1988年5月 当麻寺練供養

2010年09月06日 | 思い出の大和路探訪
 毎年5月14日に行われる「当麻寺練供養(たいまでらねりくよう)」を初めて参観した。
 5月14日は、中将姫が生身成仏した命日。午後4時から、本堂(曼陀羅堂)を西方極楽浄土に見たて、東の娑婆堂をこの世に見たてて、来迎橋の上で催された。

 近鉄南大阪線「当麻寺駅」下車。駅前から参道がつづく


二上山の麓に当麻寺が見える


当麻寺参道


当麻寺山門から寺内を望む


当麻寺の東塔と西塔


娑婆堂(写真手前にある)から曼荼羅堂に続く来迎橋
来迎橋は今日の練供養のために設置される


練供養の始まり、曼荼羅堂を出発


僧侶に導かれ中将姫が娑婆堂に向かう


僧侶と稚児


中将姫像を乗せた輿


曼陀羅堂に向かう僧侶達


檀家の人々や、稚児さんの行列






曼荼羅堂で法要が行なわれ、いよいよ、来迎会のはじまりとなる
今日の主役、観世音菩薩が蓮台をもち中将姫をお迎えに行く


観世音菩薩の蓮台の上にはまだ中将姫がのっていない
そのうしろは合掌をして後に続く大勢至菩薩
最後に天蓋をもつ普賢菩薩が娑婆堂に進む


娑婆堂に向かう


娑婆堂での法要のあと、
娑婆堂から曼陀羅堂へ・・西方浄土への渡りになる




蓮台に中将姫を乗せた観世音菩薩が先頭に立ち、曼陀羅堂(西方浄土)に向かう






曼陀羅堂に向かう菩薩達


曼荼羅堂に入る


稚児たちの行列がつづく




中将姫像をのせた輿が曼荼羅堂にもどる
中将姫が西方極楽浄土へ旅立たれた、という練供養が終わる

1988年3月 越智・真弓の岡

2010年08月23日 | 思い出の大和路探訪
<1988年3月 「まうら悲しも越智・真弓の岡」(万葉の大和路を歩く会)>

 静かな飛鳥西側の丘陵地、歩く道沿いに桃の花が咲いていたのが印象的だった。

コース:橿原神宮前駅===越智・・・光雲寺・・・斉明天皇陵・大田皇女墓・・・束明神古墳・・・
   真弓丘・岡宮陵・・・桧隈里・・・於美阿志神社・・・近鉄飛鳥駅(徒歩約7km)

講師:甲陽学院高校教論 山内英正さん



光雲寺
高市郡高取町大字越智小字南西久保。
越智山光雲寺は黄檗宗の寺で、越智氏の菩提寺である。室町初期に京都大徳寺の義天が創建したと伝え、もとは興雲寺と称していた。越智氏が没落したあとは寺も衰微したが、天和年中(1681-84)に鉄牛が来住し、越智氏の石碑8基を改装し復興に務めたという。元禄11年(1698)天湫によって再興されてからは、光雲寺と称している。


光雲寺境内


斉明天皇陵
斉明天皇陵は高取町車木からアクセスするのが普通。車木の集落から斉明天皇陵がある越智岡の頂上付近までは石畳の階段が整備されている。そもそも車木という地名は、斉明天皇葬送霊車が来たりて止まったところ、すなわち車来であったとする地名紀元説話すらある。


この陵は女帝斉明天皇と孝徳天皇の皇后・間人皇后を埋葬した越智岡上陵と天智天皇の皇子・建王墓となっていて分かりにくい。
波乱の人生を生きた斉明天皇は、百済救援のために九州に下向した斉明7年(661)7月、朝倉宮で崩御した。68歳の高齢だった。


大田皇女墓
天智天皇の皇女であり天武天皇の妃であった大田皇女を埋葬した墓は、斉明天皇と間人皇女の合葬陵の前に位置している。
大田皇女は、中大兄皇子と蘇我倉山田石川麻呂の娘・越智娘(おちのいらつめ)の間に生まれた三人姉弟の長女である。下に鵜野皇女(のちの天武天皇の皇后、持統天皇)と658年5月、8歳で亡くなった建(たける)皇子がいる。大海人皇子(後の天武天皇)の妃となり、大伯皇女と大津皇子を生んだが、667年以前に亡くなった。




真弓の岡を望む


越智から真弓への道




真弓の岡
近鉄飛鳥駅の西方に広がる低い丘陵地帯が真弓の丘である。
「外(よそ)に見し 真弓の岡も 君ませば
 常(とこ)つ 御門(みかど)と 侍宿(とのゐ)するかも」 (巻2・一七四)
「朝日照る 佐田の岡辺(おかへ)に 群れ居つつ
 我が泣く涙 やむ時もなし」 (巻2・一七七)
 持統3年(689年)4月13日、日並皇子である草壁皇子が亡くなり、その殯宮のとき、人麻呂と皇子の舎人たちがその死を悼んで歌った挽歌の一部。


春日神社
境内に束明神古墳がある


束明神古墳(つかみょうじんこふん)
学者の間では、岡本天皇陵から300メートル離れた束明神古墳が草壁皇子であろうという説が有力。
ここは八角形墳といわれる横穴式石室で、そのレプリカが橿原考古学研究所付属博物館の敷地内にある。


草壁皇子を祀ってきた村人が天皇陵指定による立ち退きを恐れて石室上板を隠し、鉄の棒による探査を免れたも、その後の発掘でこの事実が検証されたそうだ。
村人は草壁皇子が石川の女郎(大名児)に贈った歌「大名児彼方野辺に刈る草の束の間も吾忘れめや」にちなみ、束明神(塚明神とすれば隠した事実が知れる)として祀ったとのこと。
当時を偲ぶ「束明神」「嘉永四年」の銘が残る灯籠が、現在塚に立っている。


案内板


岡宮天皇陵
岡宮天皇という名は追尊天皇名で、天武天皇と持統天皇の間に生まれた皇子「草壁皇子」のことをいう。
草壁皇子は天皇として即位することはなく、享年28歳という若さで逝去した。


桧隈の里
古代の桧隈の地は、後漢霊帝の曾孫(ひまご)という伝承をもつ東漢(やまとあや)の祖阿知使主(あちのおみ)が、応神天皇(15代)のとき、渡来し、定住した所と伝えれれている。力の弱い政権と蘇我氏はこの東漢の力を借りる為、飛鳥に宮古を移したといわれている。


於美阿志神社
この神社は延喜式の神名帳に記載されている式内社で、もとは古代寺院の檜隈寺があったところ。
 この地域は古代に渡来人が居住した地のひとつで、雄略天皇二年(475)に檜隈民使博徳(ひのくまのたみのつかいはかとこ)の存在が知られている。この人物が中国の呉との間を行き来して漢織(あやはとり)、呉織(くれはとり)、衣縫(きぬぬい)ら織機技術者を日本に連れてきた。檜隈氏は織物技術および建築技術などを請来し、やがて檜隈忌寸(ひのくまのいみき)を名乗って朝廷に仕え、そして居住地に先祖の阿智使主(あちのおみ)を祀ったという。


桧隈の民家


桧隈の民家

1988年2月 斑鳩の里

2010年08月09日 | 思い出の大和路探訪
 真冬の一日。斑鳩の里を散策した。


法隆寺中門


正岡子規の句碑
「柿食えば鐘が鳴るなり法隆寺」


法隆寺を出て、法輪寺遠望


法輪寺
聖徳太子の御子 山背大兄王創建とも伝えられ、飛鳥時代の仏像と、
昭和五十年再建の飛鳥様式の三重塔で知られている。


法輪寺三重塔


法輪寺三重塔相輪


くわんのん の しろき ひたひ に やうらくの
かげ うごかして かぜ わたる みゆ
会津八一(秋艸道人)


法起寺
飛鳥時代に建立された現存する日本最古の三重塔があり国宝に指定されている。又、1993年には世界遺産にも指定された。この寺は606年に聖徳太子が法華経を講説されたという岡本宮を寺に改めたものと伝えられており太子が建立した七ヶ寺の一つに数えられている。


法起寺三重塔相輪


慈光院
慈光院は寛文三年(1663)当地の大吊であった片桐石見守貞昌(石州)が大徳寺百八十五世玉舟宗璠(大徹明應禅師)を開山に迎え、父貞隆(慈光院殿雪庭宗立居士)の菩提寺として自分の領地内に建立した臨済宗大徳寺派の寺院である。


慈光院 書院へ続く霰雫しの延段


慈光院 書院から見た庭園


慈光院 書院玄関から山門(茨木城楼門)


慈光院 山門(茨木城楼門)

1988年2月 中河内

2010年07月26日 | 思い出の大和路探訪
 JR大和路線の天王寺駅から2つ目の「平野駅」で下車、杭全(くまた)神社と大聖勝軍寺を訪ねる。



平野駅


杭全(くまた)神社 入り口
大阪市平野区平野宮町にある神社。
「杭全」と書いて、関西人ならこれを「くまた」と読めるだろうが、関東人には難解な地名である。語源は、このあたりが渡来してきた百済(くだら)人たちが住んでいた地域で、「くだら」が訛って発音され「くまた」という地名が定着したという説がある。だが、杭全という表記にされた理由がわからない。



杭全(くまた)神社の大樟
大門の横に聳える大阪府の天然記念物の大樟。
幹周7.85m、樹高19.5m


杭全(くまた)神社 拝殿
貞観4年(862年)、征夷大将軍・坂上田村麻呂の孫で、この地に荘園を有していた坂上当道が素盞嗚尊を勧請し、社殿を創建したのが最初と伝えられている。


杭全(くまた)神社 本殿


大聖勝軍寺 山門
大聖勝軍寺は、八尾市立病院近くの国道25号線に面した市街地の真ん中にある。
かってこの地は渋川の阿刀と呼ばれた。我が国の仏教創生期に、仏教の導入に反対したと伝えられる物部守屋の別宅が、ここにあった。587年(用明2)4月、瀕死の病床で仏教に帰依することを用明天皇が群臣たちに諮問したことから、廃仏派の物部守屋は身の危険を感じてこの地に退いた。用明天皇の殯が明けるのを待って、崇仏派の蘇我馬子は諸王子と群臣とに勧めて、守屋を滅ぼそうと謀った。そして7月下旬の暑い盛りに、蘇我馬子に賛同した崇仏軍は、渋川の阿刀で守備を固める守屋を攻めた。その攻防戦の主戦場となったのがこの地である。





大聖勝軍寺 守屋池
大聖勝軍寺の境内には、物部守屋の首を洗ったという守屋池や馬蹄石がある。


大聖勝軍寺 仏殿


大聖勝軍寺 当山の山号の由来の「神妙椋樹」
聖徳太子の軍勢は守屋の軍勢の前に3度敗退、大軍に包囲され絶体絶命の窮地に陥った時、椋の大木が真っ二つに割れ、太子はその幹の空洞に身を潜め、九死に一生得たという。


大聖勝軍寺の太子堂
太子町の叡福寺が「上の太子」と呼ばれるのに対して、「下の太子」の名で親しまれている。
聖徳太子が、渋川の阿刀の館にいた物部守屋を滅ぼすにあたり、信貴山の毘沙門天に祈願して四天王をまつり、その加護により守屋を討って戦勝を得ることが出来たので、ここに一寺を建てて勝軍寺と称したという。

1988年1月 四天王寺・南河内

2010年07月12日 | 思い出の大和路探訪
 この日は飛鳥地方からすこ離れた大阪・四天王寺と南河内を歩いた。
南河内は渡来人の足跡が色濃く残る地であった。

コース:天王寺駅・・・四天王寺・・・近鉄天王寺駅===近鉄近鉄藤井寺・・・葛井寺・・・ ・・・白鳥神社・・・近鉄古市駅


天王寺駅から歩くと四天王寺が見えてくる


四天王寺 五重塔、中門
四天王寺は大阪市天王寺区にある、和宗総本山。元は天台宗だった。
593年(推古天皇元年)に聖徳太子によって建立された、日本仏法最初の大寺。
聖徳太子建立七大寺の一つとされている。
現在の伽藍は、第二次世界大戦後に復興されたもの。
伽藍の配置は、南から北へ向かって中門、五重塔、金堂、講堂が一直線に並び、それを回廊が取り囲む「四天王寺式伽藍配置?」である。日本では最も古い建築様式の一つである。


五重塔と金堂


五重塔と回廊


四天王寺の石鳥居(西門)と西大門


葛井寺(ふじいでら)の四脚門


葛井寺
百済の王族、王仁(わに)一族の葛井(ふじい)氏が河内に住み建立した氏寺が葛井寺の始まりと考えられている。


辛国神社
辛国神社は葛井寺の南西側に鎮座しており、渡来系氏族である葛井氏との関係が考えられている。またこの地方を治めた物部氏が創設したという説もある。


岡ミサンザイ古墳
古市古墳群に属する前方後円墳。仲哀天皇陵ともいわれている。陵名は惠我長野西陵(えがのながののにしのみささぎ)で、第14代仲哀天皇の陵墓に治定されている。


野々上(野中寺への途中)からの二上山


野中寺
聖徳太子が建立した河内三太子のひとつとされ、「中の太子」と呼ばれている。木造地蔵菩薩立像と金銅弥勒菩薩半跏像は国の重文。現在の建物は江戸初期の再建。(太子町の叡福寺が「上ノ太子」、八尾の勝軍寺が「下ノ太子」という)
本来は、今来才伎(イマキノテヒト)と呼ばれた渡来人の王辰爾(オウジンニ)を祖とする百済系渡来氏族の船氏の氏寺であったとされる。


野中寺の本堂


朝鮮の石人


野中寺の本堂の甍


野中寺塔礎石


応神天皇陵
羽曳野市の誉田御廟山古墳(応神天皇陵)で墳長422mは日本第2位である。
ちなみに第1位は仁徳天皇陵で墳長486m。


誉田(こんだ)八幡宮
応神陵の後円部を背に応神天皇を祀る。日本最古の八幡宮で、もとは墳墓の頂きに社殿があったとされる。


誉田白鳥遺跡 埴輪窯跡
埴輪窯11基と埴輪を作った工人が住んでいた建物跡が見つかっている。


西琳寺(さいりんじ)
欽明天皇の勅願寺として建立された向原寺が起源とされ、8世紀後半に百済系渡来人の王仁博士の後裔である西文(かわちのふみ)氏が開基とされる。


西琳寺の塔礎石 巨大な五重塔の心礎
出土品の瓦などから飛鳥時代創建は確実であり、境内の庭に置かれた高さ2m近い塔礎石は重量は27tを超え、塔礎としては飛鳥時代最大のものである。


白鳥神社
前方後円墳の後円部の頂上にある神社。古市の氏神となっている。

1987年12月 当麻の里

2010年06月28日 | 思い出の大和路探訪
<1987年12月 当麻・曼荼羅の里 近鉄文学散歩>

 二上山に抱かれた静かな当麻の里を訪ねるとき、ことに夕陽に映える秀峰を間近に仰いだときなどは、美しい曼荼羅が、中将姫の物語りが、この地に伝えられているのも当然だと実感される。

コース:二上山駅-専称寺-鳥谷口古墳-当麻山口神社-石光寺-中将姫の墓-当麻寺-当麻寺駅

講師:奈良芸術短期大学教授 木村芳一氏


専称寺(浄土宗) 二上山駅のすぐ南、香芝町の畑集落の内にある


加守付近を二上山を横に眺めながら歩く


鳥谷口古墳全景  手前:大池、中央:鳥谷口古墳、奥:二上山
新池の改修工事に伴って発見された。石棺の状況から古墳時代の終末期のものと考えられている。在地の名門当麻氏に連なる誰かの墓と推定されるが、大津皇子の墓ではないかとの説もある。


池の上の小山中腹に古墳がみえる


鳥谷口古墳


当麻山口神社
神社の北側の道は二上山の雌岳の南を河内に越える岩屋越であり、古事記にあらわれる古道と推定される。当麻氏の祖神、麻呂子皇子とその妃を祀っっている。


神社境内で講師に説明を聞く


石光寺
中将姫が曼荼羅を織るために、蓮糸を洗い染めた井戸、染井のあることから、染寺とも呼ばれている。創建は出土品から仏白鳳時代といわれている。


染の井と糸かけ桜


寒ボタンの寺としても名高い


寒ボタンが並ぶ境内


中将姫の墓と十三重石塔(当麻北墓と呼ばれる共同墓地の一部)
中将姫の墓塔と伝える層塔(現在は三層だけ残っている)と十三重石塔が並んで建っている。層塔は平安後期、十三重石塔は鎌倉末期と推定されている。


当麻寺、うしろに二上山、左手前が麻呂子山
当麻寺といえば中将姫と牡丹の寺としてあまりに有名。
曼荼羅をはじめとして、数多くの重要な建築・彫刻などの古文化財を要している。


本堂前の石手水船(鎌倉末期の銘があり、日本でも最古に近いもの)
奥にあるのが中将姫池


右手:西塔、左手:東塔
東塔は奈良時代末、西塔はやや後で平安初期といわれる。
創建当初の三重塔が二基とも残るのはここだけ。


(左)西塔の相輪:水煙下部に唐草文を配している
(右)東塔の相輪:水煙は魚の背骨を思わせる形


うしろ曼荼羅堂(本堂)

1987年11月 晩秋の飛鳥

2010年06月21日 | 思い出の大和路探訪
 11月下旬秋も深まる頃、上平田峠を越える人は見当たらない。静かな佇まいの飛鳥の風景である。夕方雲海の中に浮かぶ大和三山の景色は感動的だった。

コース:天武持統陵-定林寺跡-上平田-上平田峠-稲淵-阪田寺跡-都塚古墳
    -石舞台-飛鳥資料館(壬申の乱展)-奥山久米寺-大官大寺跡-藤原宮跡


天武持統天皇桧隈大内陵




定林寺跡付近より


定林寺跡手前の寺院


定林寺跡


上平田の民家


上平田峠からの南淵山 右に稲淵の集落を望む


稲淵付近 多武峰連山を望む


稲淵付近 多武峰連山を望む


都塚古墳


坂田の民家


飛鳥川にかかる神所(かんじょ)橋


南淵山と稲淵の集落


石舞台


藤原宮跡より飛鳥方面


耳成山と藤原宮跡


藤原宮跡


香久山


畝傍山


奥山久米寺




大官大寺跡

1987年11月 多武峰から飛鳥へ

2010年06月14日 | 思い出の大和路探訪
<1987年11月 「風吹き返す多武峰・飛鳥」万葉の大和路を歩く会>

 紅葉真っ只中の多武峰談山神社は人で賑わっていたが、多武峰から飛鳥への山道は人知れず静かな佇まいだった。

コース:桜井駅=多武峰・談山神社・・・冬野・・・畑・・・石舞台・・・島の宮跡・・・橘寺・・・川原寺跡=近鉄橿原神宮駅

講師:奈良県立橿原考古学研究所主任研究員 亀田博氏


談山神社
天武朝に藤原鎌足の長子・僧定慧が、父の遺骨を阿威山から移葬し、十三重塔を建てたのが始まり。










談山神社から冬野へ


西大門跡付近


冬野への道


多武峰から飛鳥を望む  奥:二上山、中:畝傍山、手前:甘橿丘


冬野
標高650m、明日香村最高所の集落。南は竜在峠を経て吉野町滝畑に通じる。


尾曾、毘沙門天と大ケヤキ


上(かむら)付近の民家


上(かむら)付近 尾曾からの道、道標と石灯籠


上(かむら)より多武峰を望む


細川付近


上居(じょうご)の立石


細川橋と多武峰の山々


上居橋より多武峰を望む


石舞台


石舞台公園で講師の説明


島の宮遺跡 遺跡の上に土砂がうめられていた


勾(まがり)の池跡
万葉集に、
「島の宮 勾(まがり)の池の 放(はな)ち鳥 人目に恋ひて 池に潜(かづ)かず」
(巻2-170)


川原寺での説明


橿原神宮前駅から畝傍山



1987年10月 宇陀・阿騎野

2010年06月07日 | 思い出の大和路探訪
<1987年10月 「かぎろひ立つ宇陀・阿騎野」>

万葉の大和路を歩く会に参加。
今回のコースは桜井出雲から狛峠を越えて宇陀・阿騎野に至るハイキングコースでもあった。そのため峠付近への登りは結構きつかったのを覚えている。
秋の収穫を終えたばかりの稲穂が随所にみられ、気持ちのよい歩く会であった。

コース:近鉄桜井駅=出雲・・・狛峠・・・麻生田・・・嬉河原・・・阿紀神社・・・長山歌碑の丘
    ・・・大宇陀町中央公民館=近鉄榛原駅 (徒歩約10km)

講師:武庫川女子大学教授 清原和義氏

桜井からバスで桜井市出雲に到着
この辺りは「出雲」地区と呼び、奈良格子の家も見かけるところである。


十二柱神社(桜井・出雲)
この「狛犬」は台座を4人の力士が持ち上げている珍しいものである。
ここは「武烈天皇泊瀬列城宮跡」とも伝えられている。


武列天皇・泊瀬列城宮跡碑


出雲から狛峠に向かう途中 出雲を望む(うしろ三輪・巻向山)


狛峠への道


狛峠付近


女寄付近から桜井市へ


榛原方面 貝ヶ平山


半坂付近より宇陀を望む  →万葉アルバム


宇陀の山々 伊那佐山


半坂付近


阿紀神社の森近くの道


阿紀神社


能舞台と万葉歌碑  →万葉アルバム


長山丘陵(かぎろいの丘)


かぎろひの歌碑前で説明する清原和義先生


万葉歌碑(柿本人麻呂)
東の野にかぎろひの 立つ見えて かへり見すれば 月傾ぶきぬ →万葉アルバム


かぎろいの丘より東の野を望む
左に高見山が見える。かぎろいは高見山より少し右のあたりから出るようだ。


かぎろいが見られる風景(「万葉散歩」サイトより拝借)  →万葉アルバム

大宇陀町中央公民館をあとにバスで近鉄榛原駅へ

1987年9月 飛鳥 真神が原から大原へ

2010年05月31日 | 思い出の大和路探訪
 初秋の飛鳥をレンタサイクルで散策した。この時は親子3人で。
残暑がまだまだ厳しかったが、夕方大原からの帰り道はすがすがしかったのを覚えている。

コース:高松塚古墳・・・下平田・・・真神が原・・・祝戸・・・島の宮・・・大原



高松塚古墳  古墳の周辺が徐々に整備されつつあった


下平田、鬼の俎の手前、多武峰を望む


亀石付近から飛鳥駅方面を望む


真神が原


明日香民俗資料館


酒船石




祝戸付近 玉藻橋からの飛鳥川


島庄遺跡の発掘現場


勾の池跡


大原 大伴夫人の墓付近より飛鳥坐神社を望む


大原 大伴夫人の墓


万葉歌碑  →万葉アルバム


藤原鎌足誕生地


大原の里より甘橿丘方面

1987年9月 太子道

2010年05月24日 | 思い出の大和路探訪
 斑鳩と飛鳥を結ぶ一筋の道、太子道と推定されているもののひとつである。
これは飛鳥時代に聖徳太子が斑鳩の宮から飛鳥京へと黒駒に乗って通ったと伝えられている道である。両地点を結ぶ最短距離の道で、「筋違道」(すじかいみち)ともいわれ、その時は太子通勤の道であり、同時に庶民の生活の道でもあった。
太子道は全長24キロの道のりで、騎乗(馬の歩速は7~8キロ)で3時間といったところ。
 太子道の沿道には、昔の面影をとどめ伝承を秘めた地が多く見られる。ところが最近の宅地開発のため歴史的風土の景観が損なわれ古道も埋もれて破壊されつつあるようだ。

 私はこの年、「太子道を往く」(岡本精一著)の本を携え、この太子道を探訪した。
斑鳩・法隆寺をスタートし、飛鳥・橿原神宮前まで踏破した記録である。


法隆寺 五重塔と中門


南大門より右手、太子道スタート


東院伽藍の土塀 左手:四脚門


駒塚 太子の愛馬黒駒を葬った塚
聖徳太子が斑鳩から飛鳥に通う時には、甲斐の黒駒に跨りお供に調子丸を伴われたと言われている。


成福寺へ通じる古道


成福寺古道わきの石仏


成福寺門前の碑(左)、成福寺(右)
成福寺は太子ゆかりの寺、太子と最愛の妃であった膳部夫人が住んでいたという「葦垣宮」の宮跡、太子がここで死んだとも言われている。


東安堵の広嶺神社(飽波神社跡)(左)、広嶺神社付近の筋違道(太子道)(右)
飽波神社も聖徳太子の飽波宮の伝承を伝えている。


大和川にかかる馬場尻橋 後方に二上山、葛城山系がみえる


額田野風景 額安寺付近、額田王はこの地の出身といわれる


額安寺(左) この寺の前身が太子建立の熊疑(くまごり)精舎
額田部の推古神社(右) 推古天皇の幼名が額田部皇女であるため


島の山古墳
島の山古墳は、伝説では蘇我入鹿の墓だともいわれているのだそうだ。
全長190mの大きな前方後円墳である。


三宅町屏風 白山神社(左)前の太子道


白山神社にある腰掛石  聖徳太子が駒を止めて休んだという伝承がある


屏風 杵築神社


三宅町伴堂(ともんどう)の太子道


杵築神社わきにつづく太子道


伴堂 杵築神社


伴堂の道


太子道わきの地蔵(融観寺)


三宅町黒田


黒田の法楽寺 太子創建という
盛時には、25坊を数える壮大な伽藍であったようだが、幾度かの戦火に遭ったことで、今は小さな本堂を残すだけとなっている。


三宅の原よりの展望 竜王山、三輪山


保津の環濠集落
保津は、環濠集落の名残をとどめており、村全体を濠が取り囲んでいる。濠は本来もっと広く作られていて内と外を繋ぐ門は保津では2ヶ所程度しかなく、木戸と呼ばれていた。
案内板によると明治中期までは、門番が置かれて引き橋が架けられていたようである。


百済野風景、百済寺遠望


百済寺三重塔


山部赤人の万葉歌碑  →万葉アルバム


農振橋からの飛鳥川、飛鳥方面を望む


田原本町秦庄 秦楽寺(じんらくじ)(左)
秦楽寺本堂(右)
<奏楽寺の池の七つの不思議>「一、阿字池はいずれの方向から見ても地形の全部が見られず、ひとすみだけは見えないということです。二、阿字池は百日の干ばつでも、水が絶えてかれたことがないそうです。・・」


田原本町 多(おお)神社
神社周辺は、太安万侶で有名な古代の氏族多氏の本拠地であった。


田原本町 屋就(やつぎ)神社(矢継の森)
<矢継の森の伝承>「むかし聖徳太子が、どこか自分の住むのに適した所はないものかとおおせられて、南から西北の方向を向き、「あの方面がよいように思われるので、これから矢を射るから、わたしはその落ちたところに行こう」と申されました。そして矢を放たれると今の矢継ぎの森に落ちました。
そこで家来がその事を申し上げますと、太子はまだ距離が近いからとおおせられて、再び矢を放たれると、現在の法隆寺のところに落ちました。いよいよこれでよいとて、永住の地と定められました。」


橿原市地黄町 人丸神社(左)柿本人麻呂の万葉歌碑(右) →万葉アルバム


橿原市小綱(しょうこ)町 入鹿神社


橿原市今井町 蘇武橋 太子が斑鳩から飛鳥へ通ったときこの橋を渡ったという
蘇武橋からの飛鳥川の流れ 後方、畝傍山


終着 橿原神宮駅