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「久保みねヒャダ」結婚はしたいが恋愛はしたくない、の結婚観の先にあるもの:カント的問題にどう答えるか

2015-05-31 09:26:29 | テレビとラジオ
フジテレビ「久保みねヒャダこじらせナイト」のなかで、能町さんのツイート「結婚はちょっとしたいんだな、でも結婚に付随すると思われがちな恋愛やセックスなどはなるべくならしたくない」を取り上げていた。

彼女にとって結婚がなぜ魅力的かと言えば、それは家事全般を助けてくれる人が出来るからである。

そこにまったく共感できないという人もいるだろうし、すごく共感できるという人もいるだろう。

共感できても出来なくても、このツイートは若い世代が感じている根本的な感覚に直結している。



独身の友人たちの話を聞くと、結婚をする最大の理由はもはや家事の分担、という人も少なくない。

実際、結婚適齢期の人間は忙しい。とにかく仕事でも遊びでも時間が足りないのである。

仕事で成功したい人、趣味を突き詰めたい人。どちらも30代から40代というのは非常に重要な時期である。

資本主義が大好きな日本では、それが行き着くところまで行っている。

結婚に付随する諸々をこなしている暇がない。



だから「家事の分担」というきわめてプラグマティックな理由も、私はとても重要な結婚の理由だと思う。

結婚しないと経済的に成り立たないというのも良い理由だと思う。

超自然的な理由だけで結婚を考えるのは、空想上の生き物の性質を論争するくらい意味がない。

それはそれぞれの心のなかにあるもので成立しているので、論争する必要がないのである。

むしろ、結婚を「機能的」に考えるのは現実的だ。



その機能を突き詰めれば、優先順位において恋愛的要素が脱落することも理に適っている。

また、もし広い意味で経済的に問題がない場合には、子どもだけつくって結婚しないという選択肢も理に適っている。

あるいは、ドラマ「アリーmyラブ」のごとく、シングルで養子をもらうというのも合理的である。

ただ、そうした多様性を日本では制度的に認めていない。黙殺によって差別している。

日本社会の場合、この機能的結婚観に基づく家族の多様性を制度的に受け入れないと、もはや成り立たない段階に入りつつある。



ただ、そこで出てくる難しい問題もある。

家事を分担する、経済的に助け合う、というのはパートナーの人格を目的として扱っていない、という問題だ。

カント哲学のなかでは、「人を手段として扱うな、目的として扱え」という「定言命令」と呼ばれるテーゼが出てくる。

別にカント哲学を支持する必要はない。

しかし、食洗機やルンバの代わりに人間、というわけにはいかない。

では、人格を目的として扱う場合、一体、すべて平等に価値があるはずの人間を一人選ぶ理由は一体何か?

もし恋愛的な要素をすべて放棄した場合、そこで残る「選択の理由」は何か?



この問題を考えるうえで、私が指針にしているのは「星の王子様」のなかに出てくる、キツネ君の言葉だ。

「君が君のバラのために失った時間こそが、君のバラをかけがえのないものにしているんだよ」

このバラのモデルがエルサルバドル人の女性だったらしい、ということを最近知ったのだが、それはどうでも良い。

そんなことより私が言いたいのは、「誰かのためにかけた時間」という要素は偶然でもあり、能動的結果でもある、ということなのだ。

つまり、運命でもあり、意志でもある。

一人を選ぶということは、選んでいるとも言えるし、選ばされているとも言える。

つまり、パートナー選択の自由という問題の本質がここにある。

パートナー候補の能力や属性の良し悪しを挙げていくと、それは結局、理由にならないことがすぐにわかる。

候補者が無限に出てくるからだ。

それよりも、この時間の話の方がずっと私にはスマートで説得的に思えるのだ。



なぜ私が今の妻をパートナーに選んだのか、という問いへの回答をあえてすれば、

私の妻のために失った時間が一番大きかった、ということなのである。

それは意志でもあり、運命でもある。

結婚に機能的メリットがあるならば、すればいい。

そのうえで、パートナー選択の理由は意志と運命の奇妙な組み合わせ、とうことでどうだろうか。

それによってカント的な問題が一定程度解消されるのではないだろうか。

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