それでも僕はテレビを見る

社会‐人間‐テレビ‐間主観的構造

バレンティーナの喜び

2012-06-08 22:51:28 | イギリス生活事件簿
類似のタイトルが増えているのが少し気になる。

が、今日もバレの話を書く。



バレはイギリスに英語を勉強しにきた。

就職活動をしつつ、英語の勉強もしてきた。

英語のテストで良い点数をとって、豪州の大学への奨学金を取ろうという寸法だ。

だが、彼女の英語の点数はなかなか伸びなかった。

真剣に勉強し始めたのはここ数か月で、いよいよバレも本気になったなと思っていた。

試験が終わった直後にマンマとシルビアが来て、羽目をはずした彼女。

その結果が今日の夜に出た。



僕はリビングで音楽をかけながら、研究書を読んでいた。

ラケルは再び諸々の手続きのために早朝に帰国。

家には僕らふたりしかいない。

かけていた音楽はテクノ、しかもなかなかの大音量だから、バレが部屋から降りて来たとき、文句でも言いにきたのかと思った。

が、彼女は興奮した調子で「英語のスコアが取れたよ!」と叫んだ。

僕らは抱き合って喜んだ。



英語の苦しみは僕もよく分かる。

僕はイギリスに来るまで、英語の点数が全然上がらず、留学をあきらめかけたほど、英語には苦しんできた。

結局、専門の論文を英語で書き、それを参考資料として提出することで、少し足りなかった点数を補って、奇跡的に今の博士課程に入れてもらったくらいだ。

僕は完全に英語では落ちこぼれもいいところだった。

だからバレの喜びはとても共感できる。



バレのスコアは、実際なかなか良かった。群を抜いて良かったのはやはりスピーキングだったのだが、前回のスコアを聞いたところ、今回は信じられないほどの成長を見せていた。

彼女のコミュニケーション能力のたまものだろう。

特にクリスと友達に(あるいは親密な仲に)なったのはかなり功を奏したに違いない。

英語を学ぶなら異性から、である。



バレは喜びをかみしめながら、このフラットを褒めたたえた。

このフラットでの生活が彼女の成長を支えたのだ。

ついでに僕の成長もたたえてくれた。

確かに僕もこのフラットで、そして特にバレのおかげで大きく変われた。

今このタイミングでバレが回想する気持ちも大いに分かる。

僕も博論の結論を書き終わったあと、とんでもない感慨に浸ることを禁じ得なかった。修正にかかる時間のことなど、考えるエネルギーは全くなかった。

それは長い長い緊張からの束の間の解放であり、闘争における休息であり、長い雨季に訪れた一瞬の晴れ間なのであった。

バレにとっても、僕にとっても、感慨は終わりのファンファーレではない。

まだやることは沢山ある。

けれど、喜ぶことはその人の生における素晴らしい瞬間に違いないのである。

まったくセネカの言ではないけれども、僕はこのフラットで楽しむことを学んだ。

歓楽を共にし、誰かと心から一緒に楽しむことが、この僕にも許されているのだ、と知った。

この感覚については多くの説明を要するので、今日はこのくらいにしておきたい。

あくまで僕個人の心の話である。

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