思想家ハラミッタの面白ブログ

主客合一の音楽体験をもとに世界を語ってます。

場のシステムと時空

2010-01-24 11:31:51 | Weblog
音楽による場との共鳴によって発見したのは、世界には多様な場が存在し、それぞれの場が

独自の自己創出システムを持ち、しかもそのシステムは自己を産出するだけでなく時空そのものを産出しているということである。







これぞ究極の自己創出システムです。創発の連続です。南極に発生した場でしょうか。

創発それ自体をシステムとするネットワーク

2010-01-21 13:24:42 | Weblog
もう一度、第一世代と第二世代の見方と比較していうのなら、動的平衡を前提とする第一世代のシステム理論では、創発は稀な偶然から生じて、それがゆくゆくシステム全体が組み替わってしまうような構造転換におよぶとみなしていた。それはそれでひとつの見識だった。また、動的非平衡の第二世代のシステム理論では、たまたま紛れこんだノイズや「ゆらぎ」がシステムに秩序をつくるのではなく、システムがそもそも抱えもつ取り除くことのできない「ゆらぎ」そのものがシステムの創発をもたらすと考えられた。それを自己組織化とよんだのだった。 これもきわめて魅力的な見解だった。
 ところがオートポイエーシス理論では、創発そのものがシステムの本質なのである。そう、みなしたのだ。創発は新たな発現なのではなくて、(そういうものがあるとすれば)創発の構造をネットワークとするシステムが生じたとみなしたのだ。それは文字どおりの(つまり生粋の)自己創発システムだったのである。

 さあ、こんなような、創発それ自体をシステムとするネットワークがありうるのかどうか。しかもそれは自己の境界を自己のネットワークで決めているわけである。そして閉じているわけである。そこでは中身がどうであろうと創発しかおこっていないというのだ。こんな奇妙なことがどこでおこっているかどうかべつとして、マトゥラーナとヴァレラが言い出したことをそのまま延長させて考えてくると、こういう示唆を受信していくしかないのである。




そういえばバンゲリスの螺旋は、自分自身の産出を繰り返しながら新しい構造を生み出していくような感じの曲だった。まさに創発それ自体をシステムとする波動ネットワークといえる。


松岡正剛の千夜千冊より

2010-01-20 15:21:51 | Weblog
ウンベルト・マトゥラーナ&フランシスコ・ヴァレラ
『オートポイエーシス』
1991 国文社
H.R.Maturana & F.J. varela : Autopoiesis and Cognition 1980
河本英夫 訳


 そこで、ここでは本書の翻訳者である河本英夫の卓抜な解読力を借りることにする。河本は翻訳者にはとどまらない。日本におけるオートポイエーシス理論の第一人者であるだけではなく、マトゥラーナ、ヴァレラ、ルーマン以降のワールドワイドな議論を一気に抜き切った稀有な理論家であって、ぼくが見るに、いまのところオートポイエーシス・システムの展望について河本以上の成果をあげている者はどこにもいないといっていい。
 その河本が『オートポイエーシス・第三世代システム』という本のなかで、いまのべた自律的システム理論の歴史と変遷をまことに明快に分析してみせていた。いまはその要約論旨を借りようとおもう。河本は自律的システム理論の変遷を第一世代、第二世代、第三世代と分け、第三世代システムとしてオートポイエーシス理論を位置づけてみせたのだ。ぼくなりの補足を加えて、手短に案内する。

 第一世代のシステム論は「動的平衡システム」である。ここでは、有機体は外部の環境と物質代謝やエネルギー代謝をしながら自己を維持しているシステムとみなされる。環境条件がかなり変動しても、この自己維持はなかなか壊れない。
 これをいいかえれば、動的平衡システムとしての生命系は、入力と出力の流れのなかで持続的に「ゆらぎ」を解消しながら自己維持するシステムたらんとしているということになる。
 たとえば、はやくもサンチレールはこのようなシステムには「相互位置不変の原理」「相互補償の原理」「平衡の原理」がはたらいていると見た。キュヴィエは各器官が共通の機能をおこなうように協働作用がはたらいていると見た。カントもこの見方の一人で、生命系の各構成要素は全体を維持するための目的によってそれぞれの位置と機能が示しあわせていると見た。そこには「部分は全体に関与することによってのみ機能する」あるいは「すべての部分は互いの原因とも結果ともなっている」という見方が萌芽していた。
 これらの先駆的な見方に決定的な特徴を与えることになったのは、ウォルター・キャノンが提唱した「ホメオスタシス」という概念である。有機体にそなわっているだろう恒常性の維持という機能をホメオスタシスと名付けたのだ。生命系はセット・ポイントというものをもっていて、つねにそのポイントにシステムを安定させようとするという見方である。暑ければ汗をかき、寒ければ鳥肌をたてるというのがホメオスタシスだ。これは第175夜に紹介したクロード・ベルナールが血液の循環などを観察して仮説した「内的環境」という概念をさらに発展させたものだった。
 内的環境としてのホメオスタシス概念の確立は自律的生命システムを解くのにあたって重要な寄与をした。なぜなら、この概念によって生命系が外部環境のなかで自分自身で「自己の境界」を決定しているということがしだいにあきらかになってきたからである。ベルタランフィの『一般システム理論』は、いってみればこれらの成果を統合したものだった。

 有機体がホメオスタシスを通じて動的平衡を確保すると、そのシステムには安定した層のようなものが生じてくる。階層区分ができてくる。ベルタランフィはそのような階層が多階層になっていることに気がつき、その各層ごとにオーガニズムが機能しているとみなした。
 そこまではいい。しかし、その説明だけではかなり足りなかったのである。一番の問題は各階層間の関係が説明できないことだった。そこでアーサー・ケストラーがその代表的な理論家の一人なのだが、各階層のあいだには一方における自律的な関係と他方における従属的な関係とが同時にはたらいているのではないか、その同時にはたらく機能をもつ何かがそこに動いているのではないか、そういう見方をするようになってきた。ケストラーはこのような特徴を「ヤヌスの双面」とみなして、その自律性と従属性を担当している「ホロン」という要素単位を想定した。ぼくが工作舎時代に出版した『ホロン革命』とは、この仮説集にあたる。のちに清水博がそれを「関係子」に発展させたことについては第1060夜にのべておいた。
 こうして、おおざっぱにいうのなら、第一世代のシステム論は動的平衡を保つためのオーガニズムに関する理論と階層間を関係づける理論とを組み合わせるという方向に進んでいくのだが、ここに新たな視点が誕生してくることになる。それが第二世代のシステム論というものになる。

 第二世代のシステム論は「動的非平衡システム」を対象とする。システムを開放系とみなして、外部環境と物質代謝とエネルギー代謝をしながら、システムの形成を通じて周辺条件を有利に変えていくシステムのことである。
 このシステム論では、第一世代の理論が克服できなかった階層間の関係の問題を「階層は自律的に生成される」というふうに考えた。階層生成論に変えていったのだ。ただし、二つの仮説が分かれた。ひとつは「前成説」というもので、生成のプロセスによって生じたものは当初から微妙なかたちで潜在していたという見方をした。もうひとつは「後成説」である。そもそも未分化だったものが生成のプロセスのなかで徐々に秩序だったものに形成されていったとする見方をいう。
 後成説を提案したのはぼくがいっとき傾注していたコンラッド・ウォディントンで、このようにしてできた生命系を「エピジェネティック・ランドスケープ」(後成的風景)とよび、そのように生成のプロセスが進むことを「カナリゼーション」(運河化)と名付けた。そして、生体はこれらをアロステリックな酵素がはたらいて、自律性を活動させるようにしていると見た。
 理論の趨勢は後成説のほうに進んだ。しかしながら、このような見方はまだ発生学の特定のレベルにとどまっていて、生命系が外部環境とどのような関係をもっているからそのようになったのか、いったい何が未分化の要因をのちになって活性化させているのかが説明できず(ウォディントンは酵素を候補にあげたのだが)、とりわけ生成のプロセスに階層的な飛躍と見える現象、すなわち「相転移」がおこることと、生物たちが「自己の境界」を絶妙に変動させていくことを説明しきれなかった。
 オーガニズム派はいったん立ち往生をする。そこへ意外な方角から強力な援軍がやってきた。イリヤ・プリゴジンやヘルマン・ハーケンやマンフレート・アイゲンたちである。かれらは物質現象の分子的解明を進めるうちに「自己組織化」のしくみに気がつき、それをしだいに生命系の理論に適用していった。

 プリゴジンがあきらかにしたことは、自己組織化現象が熱力学的な平衡状態から十分に隔たった非平衡な開放系でおこるということである。開放系というのはシステムがつねにエネルギーの流れにさらされているということを示す。そこでは大エントロピーの増大に反して、「負のエントロピーを食べる」(シュレディンガー)というような秩序の形成がおこるとみなされた。この秩序形成はシステム内部の「ゆらぎ」を動因としている。
 ハーケンがあきらかにしたことは、第1060夜にも書いておいたように、相転移がおこっているときには分子間に協調的なシナジーが動いているということだ。相転移はやはり「ゆらぎ」がきっかけだった。アイゲンがあきらかにしたことは「ハイパーサイクル」の発見を通して自己触媒システムが作動していることだった。階層が安定しているとき、生成のプロセスの産物そのものが生成プロセスを自己触媒的に調整しうるというのがハイパーサイクルで、ここでは自己複製的な構成要素の自己とシステム全体の自己とが重なってきて、そのことが階層分化を促している。
 これらの自己組織化理論は、「ゆらぎ」によって新たな秩序の形成がおこるということ、階層は自己生成されているということ、そのようなことが可能になる自己の境界の決定には非平衡開放系という状態が関与しているという見方が有効であることを天下に知らしめた。それはまさに太陽-地球に生じた生命系がおこなっている自律的システムの特色をみごとに言い当てていた。
 第二世代としての「自己組織化する動的非平衡システム」がさらにどんな理論的特色をもっているかは、省略する。今夜はその話をしたかったのではない。今夜は、これら第一世代システムと第二世代システムの考え方になんらかの不十分なものを感じたマトゥラーナが、第三世代のシステム理論としてオートポイエーシス理論を組み立てた背景が理解できればいいからだ。そこで、さらに河本英夫を借りて、第三世代のシステム論としてのオートポイエーシス理論を、あらためてまとめておくことにする。

 もう一度言っておくと、オートポイエーシス・システムは、システムを自己決定しているシステムである。すなわち、みずからの構成要素と相互作用しながら作動する自己言及システムであって、そのように作動することでみずからの構成素を次々に産出しているシステムである。
 では、このような見方をとる理論はどこが第一世代や第二世代のシステム論とちがっているのか。3つに絞ろう。
 第1に、オートポイエーシス・システムは産出するプロセスそのものなのだから、階層をつくる必要がない。階層ではなくて「プロセスのネットワーク性」があるばかりなのだ。
 第2に、オートポイエーシスが自己言及しているということは、実は、あえていうなら同義反復によってシステムを作動させているということなのである。ということは、産出プロセスのネットワークが構成素を産出し、構成要素が産出するのは産出プロセスのネットワークなのである。つまり自己が自己を生んでいる。まさに自己創出システムなのである。こういう見方は、自己があって組織化が進むシステム理論とは異なっている。オートポイエーシスの自己は作用主体ではなく、システムの作動そのものを自己としているシステムなのだ。
 第3に、オートポイエーシスは空間や時間に煩わされていないということがある。第一世代のシステム論も第二世代のシステム論も、そこには時空間の領域との疎密な相互作用が前提になっていた。だからこそ熱力学的な非平衡性や不可逆な時間の条件が想定されてきた。しかしオートポイエーシスではそうした空間条件や時間条件すらシステムの産出プロセスが自己決定してしまう。

 この3つの特徴は、今日の生物学があきらかにしている生命系の条件から見ると、理解しにくいかもしれない。今日の生物学の多くがオーガニズム派に属していて、メカニズム派では説明できないことを説明する努力を払ってきたからだ。
 ところがオートポイエーシス理論はあえてメカニズム派に戻るかのように、徹底的な機械論を復活させた。オートポイエーシス理論は機械的決定論なのである。しかし、少なくともタンパク質と核酸をシステムの重大な構成素としてスタートをきった地球生命系では、こうした機械論はもはや適用しにくいと考えざるをえない。けれどもオートポイエーシス理論は、その考え方に別れを告げるのだ。タンパク質や核酸ではなくて、もしも鉄のイオン交換を用いてオートポイエーシスが成立するのなら、そこに別個の構造をもち別個の産出プロセスをもつ有機体が成立したっていいはずだと、そう、判断するのである。

 いったい、このことは何を示唆しているのだろうか。それとも、もはや理論のための理論だけを弄んでいるのだろうか。誰もが考えつかないようなことを考えてみただけなのか。
 そういう可能性もありうるだろうけれど、今夜はあえてそこに理論としての価値を見いだすとするのなら、すなわちオートポイエーシス理論がもし何かを示唆しているとすれば、それはおそらく「創発」とは何かについてのまったく新しい示唆をもたらそうとしていると考えるしかないだろうとおもわれる。
 もう一度、第一世代と第二世代の見方と比較していうのなら、動的平衡を前提とする第一世代のシステム理論では、創発は稀な偶然から生じて、それがゆくゆくシステム全体が組み替わってしまうような構造転換におよぶとみなしていた。それはそれでひとつの見識だった。また、動的非平衡の第二世代のシステム理論では、たまたま紛れこんだノイズや「ゆらぎ」がシステムに秩序をつくるのではなく、システムがそもそも抱えもつ取り除くことのできない「ゆらぎ」そのものがシステムの創発をもたらすと考えられた。それを自己組織化とよんだのだった。 これもきわめて魅力的な見解だった。
 ところがオートポイエーシス理論では、創発そのものがシステムの本質なのである。そう、みなしたのだ。創発は新たな発現なのではなくて、(そういうものがあるとすれば)創発の構造をネットワークとするシステムが生じたとみなしたのだ。それは文字どおりの(つまり生粋の)自己創発システムだったのである。

 さあ、こんなような、創発それ自体をシステムとするネットワークがありうるのかどうか。しかもそれは自己の境界を自己のネットワークで決めているわけである。そして閉じているわけである。そこでは中身がどうであろうと創発しかおこっていないというのだ。こんな奇妙なことがどこでおこっているかどうかべつとして、マトゥラーナとヴァレラが言い出したことをそのまま延長させて考えてくると、こういう示唆を受信していくしかないのである。
 では、ここで、諸君に問うてみたい。このように境界を自己決定して、その内部で創発あるいは創発をもどきをくりかえすかに見える自己創出ネットワークって、たとえば諸君がよくよく知っているウェブ社会そのものと似ているのかどうか、ということを――。インターネットは創発をくりかえすと思いこんで自己言及をしつづけているネットワークかどうかということを――。今夜はこの編集稽古をもって閉じることにする。はい、ヘイサケイ。





意識はネットワークの中継基地

2010-01-19 10:31:39 | Weblog
宇宙は人間の意識を利用して、巨大な宇宙ネットワークシステムを作ろうとしているのではないか。

意識はネットワークの中継基地のような存在になるのかもしれない。

意識は宇宙という巨大なシステムの一部に組み込まれている。

宇宙の進化にとって意識は必要不可欠な存在なのだ。


平面画像の立体視

2010-01-18 09:54:20 | Weblog
コンピューターグラフィックを続けていたらテレビの映像がが立体的に見えてきた。

おそらく、パソコンの2次元画像の立体視を繰り返すうちに脳が2次元画像を

無意識に立体的に見るようになったのだろう。

立体視には意識の能動性が関わっているように思われる。