思想家ハラミッタの面白ブログ

主客合一の音楽体験をもとに世界を語ってます。

根井康之の哲学講義

2014-10-25 17:31:24 | Weblog
http://www.geocities.jp/neieiko/ro4/ro4r.html



 全人類は、その一人ひとりが、現在、真の実在界とそこに於ける本来的自己の忘却から覚醒し、全人格的転換を成し遂げるという、もっとも根源的で困難な課題を突きつけられている。しかし、この課題の所在そのものを、ほとんどの人間は自覚していない。人類は、真の実在界と本来的自己を忘却したまま、近代科学技術文明の無限の進歩に楽観的に身を委ねてきた結果、現在、地球生態環境の破壊をはじめとするさまざまな問題を生み出してしまった。

 このことは、近代科学技術文明が、その根底の真の実在界から遊離し、自己閉鎖的になったことの結果である。人間についていうならば、日常的自己が、その根底の真の自己から遊離して、自己閉鎖的になったため、そのさまざまな生活行為が自己の生活の全領域にさまざまな矛盾を生じさせた、ということである。しかし、人間は、真の実在界を忘却した日常的自己の枠内にとどまったままで、自分が生み出した諸問題の解決に悩み苦しんでいる。

 これらの諸問題を根源的に解決するためには、近代科学技術文明からその根底の真の実在界に還帰し、科学技術文明をそこに統合しなければならない。そのためには、一人ひとりの個人が、日常的自己から本来的自己へと還帰し、それに日常的自己を統合することが求められる。現在、一人ひとりの個人は、日常的自己の枠内にとどまるのか、それとも、それを本来的自己へと転換させるのか、自己の存在そのものを賭けた選択・決断を迫られている。覚醒とは、そのような事柄なのである。

 このことは、一人ひとりの個人が、目で見、手で触れることのできる事物、すなわち人間の感覚によって捉えることのできる事物、感覚界のみを唯一の現実と認める立場にとどまるのか、それとも、目で見、手で腕触れることのできない事物、感覚界を絶対的に超越する領域を真の現実性を有するものとみなす立場へと転換するのか、という選択・決断を迫られているということを意味している。

 科学技術文明、日常的自己の根底の真の実在界、本来的自己とは、超感覚的な性格を持ったものなのである。現代人にとって、そのような超越的実在領域は、ほとんど現実性を持ち得ないものとなっている。この超越的実在界は従来、宗教・形而上学がその固有の対象としてきた領域であった。近代以前においては、時間・空間的で有限相対的な感覚界は、その根底の超時間・空間的で無限絶対的実在を根拠として成立するものとみなされていた。神とか仏とかいうものが、それである。

 近代科学技術文明が惹き起こした自然生態環境・人間・社会文化環境のあいだの対立・相剋

 それに対して近代科学は、そのような超感覚的実在を認識対象とせず、感覚によって捉えることのできる対象を唯一の現実とみなす立場をとった。すなわち、近代科学は、感覚界をその固有の対象としたのである。近代科学は、感覚によって捉えることのできる対象に貫徹する法則を、理性によって解明した。ここに、宗教・形而上学を排除した近代合理主義が成立したのである。それは、感覚界を、その根底に存在する無限絶対の実在に根拠づけられたものとしてではなく、それ自体に内在する法則に従って運動をするものとして捉える立場である。

 こうして、自然と社会のそれぞれに内在する運動法則が解明され、それが技術に応用されることになった。すなわち、人間が、科学的知性と技術的意志にもとづく行為によって、自然生態環境・社会文化環境と自己との相互作用を媒介し、三者のあいだの物質・エネルギー循環を制御することが可能となったのである。これか゛近代科学技術文明の基本的な存立構造である。

 人間は、それ自身、自然生態環境に内属するものでありながら、意識を有する存在としてそこから超出し、それに働きかけることによって、社会文化環境を形成した。科学的知性と技術的意志を有する近代以降の人間は、有限相対的な感覚界の中心として、環境とそこに於けるもろもろの事物を支配しようとする。近代科学技術文明は、そのような人間の行為によって発展させられてきたのである。このようにして人間が、近代科学技術文明の進歩を楽観的に信じて、それを発展させてゆくにつれて、感覚界が、その根底の真の実財界から遊離し自己閉鎖的になってゆく、という事態が進行していった。それは同時に、科学的知性と技術的意志を有する日常的自己が、その根底の本来的自己から遊離し自己閉鎖的になってゆく、という事態が進行していったことでもある。

 しかも、科学的知性と技術的意志によって自己の生活を規制する現代人にとって、感覚界の根底の超越的実在界はほとんど現実性を持っていない。そのため、近代科学技術文明と日常的自己が、その根底から遊離し、自己閉鎖的になるという事態は、人間が自覚しないままに進行していったのである。その結果が、生物の一つの種としての人類の死滅の危機を招いた全地球的規模での自然生態環境の破壊であった。

 このことは人間が、科学的知性と技術的意志にもとづく自由な行為によって自然生態環境と自己と社会文化環境のあいだの物質・エネルギー循環を制御してきた結果、その物質・エネルギー循環を攪乱させ、三者のあいだに深刻な対立・相剋を惹き起こした、ということを意味している。そのため人間が、自己と二つの環境の相互作用を自由な行為によって媒介する生活の全領域に、さまざまな問題が生じることになったのである。

 これが、近代科学技術文明とそこに於ける日常的自己が、その根底の真の実在界とそこに於ける本来的自己から遊離し自己閉鎖的になったことが惹き起こした結果である。それは、近代科学技術文明そのものがもつ本質的な限界が露呈したことであった。近代科学技術文明が、この本質的限界を克服するためには、固有の枠組みである感覚界を、その根底の真の実在界に向かって越え出ることが必要となる。

 無限の創造的エネルギー・生命を制御しえない科学的知性と技術的意志

 では、感覚界を絶対的に超越する真の実在界の基本的存立構造とはどのようなものであるのか。それは、時間・空間的な有限相対的次元と超時間・空間的な無限絶対的次元の統合態である。この全実在界に於いては、超感覚的な無限絶対の実在すなわち無限の創造的エネルギー・生命が、一瞬一瞬、無限絶対的次元から有限相対的次元へ顕現してゆくとともに、そこから一瞬一瞬、無限絶対的次元へ還帰してゆく。こうして、全実在界を、超感覚的な無限の創造的エネルギー・生命が不断に貫流してゆくことになる。

 この全実在界に於けるすべての個物には、無限の創造的エネルギー・生命が充ち満ちている。

すなわち、すべての個物は、無限絶対的次元と有限相対的次元のあいだで一瞬一瞬、顕現と還帰の運動を繰り返す無限の創造的エネルギー・生命の循環運動を、自己の内部に体現する全実在界大の個物として存立している。

 人間もまた、それらの個物のひとつであるが、自覚的存在である人間は、全実在界を貫流する無限の創造的エネルギー・生命を超感覚的な直観によって捉え、全実在界の真実相を超理性的な智性によって明らかにすることができる。人間諸個人は、そのような存在として、全実在界を循環する無限の創造的エネルギー・生命の運動と自己を自覚的行為によって一体化させることで、全実在界大の超感覚的な生を実現することができる。それが、本来的自己にほかならない。

 人間諸個人が、本来的自己の生を実現することは、同時に、他のすべての個物・個人との一体的な生を実現することである。それは、人間が、超感覚的直観と超理性的な智性にもとづく自覚的行為によって、全実在界に於ける超感覚的エネルギー・生命循環を制御する、ということを意味している。

 無限絶対的次元から有限相対的次元には無限の創造的エネルギー・生命が垂直的に発現してゆき、その次元を水平的に循環してゆく。より具体的には、有限相対的次元に於ける自然生態環境・人間・社会文化環境のあいだを超感覚的な無限の創造的エネルギー・生命が循環してゆくということである。そこに於ける自然的個物・人間的個人・文化的個物には、超感覚的な無限の創造的エネルギー・生命が内在している。したがって、無機物・無生物、土・水・大気も、超感覚的生命を有しているいるのである。

 だが、人間の感覚によって捉えることのできる事物のみを認識対象とする科学は、有限相対的次元の外面の感覚界にとどまり、その内面にまで届くことができない。このため近代的人間は、感覚界に於ける自然生態環境・人間・社会文化環境のあいだの物質・エネルギー循環を科学的知性と技術的意志にもとづく行為によって制御する能力を獲得したにとどまり、その内面の超感覚的な無限の創造的エネルギー・生命循環を制御する能力を獲得するには至らなかったのである。

 それは、近代的人間が、全実在界を垂直的に循環する無限の創造的エネルギー・生命を制御する能力を獲得できなかったことの、有限相対的次元に於ける現われにほかならない。すなわち、人間諸個人が、有限相対的次元と無限絶対的元の統合された全実在界大の本来的自己として、無限の創造的エネルギー・生命循環を制御することができないため、有限相対的な感覚界に於ける自然生態環境・人間・社会文化環境のあいだに深刻な対立・相剋が生じたのである。

 人間が、自覚的に制御することのできない無限の創造的エネルギー・生命は、無限絶対的次元から有限相対的次元に無限衝動となって噴出してゆき、人間を駆り立ててゆく。このため人間は、科学的知性と技術的意志にもとづく行為によって自然生態環境・人間・社会文化環境のあいだの物質・エネルギー循環を極めて合理的に制御し文明を発展させながら、その知性と意志を自己が制御できない無限衝動によって非合理的に駆り立てられるという背理が生じることになる。

 人間諸個人は、自然生態環境のさまざまな自然的個物を支配し、それを加工・形成したさまざまな文化的個物で社会文化環境を豊富化し、それらの個物を享受することで多様な欲求を充足させてきた。しかし、その欲求は、無限衝動に駆り立てられたものとして際限のないものとなった。この際限のない欲求充足のため、物量的生産力の無限増大の運動が自己目的的なものとなって進行してゆき、諸個人の生はそれに従属させられることになった。

 人間中心主義・エゴイズムの克服という課題

 このことの原因は、有限相対的な感覚界とそこに於ける自己が、無限絶対の実在に存らしめられて存るということに無自覚な根本的無知(仏教でいう無明)にある。無限絶対的次元からは、無限の創造的エネルギー・生命が一瞬一瞬、有限相対的次元へ自己を顕現させてゆく。それによって、一瞬一瞬、無限の創造的エネルギー・生命を内在させた有限相対的な諸事物が創造されてゆく。すなわち、有限相対的な諸事物は、一瞬一瞬、無限絶対の実在から存在を賦与されてゆくことによって存立を保っているのである。これは、無限絶対の実在による不断の創造ということができる。

 有限相対的な諸事物は、無限絶対の実在の被造物として存在しているのであり、無限絶対の実在の絶え間ない存在賦与・創造の働きがなければその存在を一瞬も保つことができず、無に帰するほかはないのである。したがって、有限相対的な諸事物それ自体に本来的に帰属するものは何もないのである。

 しかし、感覚によって捉えることのできる事物のみを唯一の現実とみなす近代科学は、無限絶対の実在の絶え間ない自己顕現・創造の働きを見ることができず、感覚界をそれ自体で存立しているものとみなすことになる。そして、なによりも感覚界における日常的自己は、自己が無限絶対の実在によって在らしめられ、支えるられることによって存立していることを自覚することができない。そのため、日常的自己は、無限絶対の実在から賦与された存在を、自分自身に帰属するものとみなし、自己を独立的な存在とみなすことになる。

 日常的自己は、一瞬でも無限絶対の実在の存在賦与の働きが止まれば自己が無に帰することに無自覚なまま自己を常住不変なものとみなし、それに執着することになる。すなわち、無限絶対の実在の存在賦与の働きを抜きにして、自己はそれ自身の働きによって常住的な自己同一性を保つものとして存立しているとみなすのである。

 そして、日常的自己は、その生の常住不変性を存立させ続けるための手段として、他の諸事物を欲求の対象とし、それらを獲得、所有することを追い求めることになる。ここに、我への執着である「我執」(エゴイズム)、わがものへの執着である「我所執」が成立する。これが、仏教でいう「煩悩」である。科学的知識とその応用としての技術を獲得した人間は、自己を感覚界の中心に据え(人間中心主義)、自然生態環境・社会文化環境におけるあらゆる事物を支配しようとする。近代の科学技術は、このようなかたちで人間の「我執」、「我所執」を肥大化させ続けてきたのである。人間は、中心としての自己が自然生態環境・社会文化環境を従属させた感覚界の常住不変性(二つの環境を従属させた自己の生の常住不変性)に執着する。

 このようにして、人間は、無限の進歩を自己目的とする近代科学技術文明の運動を推進してきたのである。その結果、現在、人間の生の全領域にさまざまな問題が生じてきている。それらの諸問題を解決するために、人間中心主義・エゴイズムを克服し、生態系と調和した生活を実現すべきであることが指摘されている。

  

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