思想家ハラミッタの面白ブログ

主客合一の音楽体験をもとに世界を語ってます。

ひふみともこ  「神から人へ (上)」より  

2014-04-20 18:54:54 | Weblog
命とは、神に与えられしものなり。

命に生を与えるものは、神のみ力、お仕組みによる。

生とは現界での状態であり、命とは、無限に続く、魂のことなり。

それゆえ、命は死と生を繰り返すなるが、命は無限に、与えられし時から無限に続き、

この世に生を持つこともあらば、死としてあの世に帰ることもある。

しかし、一つ一つの命、魂は、せねばならぬみ役が定められており、命の続く限り、

それぞれの勤めとして、果たしていかねばならぬ。

生は、人の肉体をもってこの世で行を積むが、死はこの世での肉体の終わりであり、

あの世では 霊魂となる。しかし、貫くものは一つなり。

しかし、その命、魂であっても、終わる時が来る。

それは、神のご意志、ご意図にそぐわず、神のみ光をもってしても、浄まらず、

曇りを消せぬまでに、その命、魂が汚れしときなり。

そのとき、神は、自らのお仕組みにより、その命を消される。

よく生きて、よく死に、あの世で修行を終えずば、この世でもあの世でも行は続く。

仮にこの世で、どのような善行を積もうとも、それが、神のご意志、ご意図にそぐわずは、

それが、神の命ぜしものでなければ、し残した業となってあの世に持ち越される。





神は人を、人類を、神のご意志、ご意図でお作りになられた。

しかし、今、この世は、神の求められし地球のあるべき姿ではなく、

人もあるべき姿ではなくなった。神は、人類、全ての生の存続を望まれる。

神の心を持ち、神のことばを持ちて、自らの存在の意味を知り、自らのみ役を悟り、

自らのみ役を果たさんとする魂を救い、そして神の国で再生するを、

全ての人類に、切に望んでおられる。

それは、人を分けるためではなく、人全てが神からの魂、命を、大切に使い、

そしてこの世に神の国を復活させるためなり。





そしてこの世に起きる不幸現象は、全て、神が人に、自らのみ役を認識させるため

与えられる、神からのお伝えなのである。不幸現象、病苦、事故、災害、その他の現象

から、自らのみ役を、神の御心に適(かな)う霊行を、それぞれの行うべき業を、

人に悟らせんとされておる。それ故、神の御心を知るためには、その不幸現象から、

神のご意志、ご意図を読み取る努力が必要である。

たとえるなら、戦争は、人の自我、我欲、我利、我執の最たるものなり。

自己の我利、我欲、我執、その一事のために、人は命を、家族を失ってまで、欲望を

満たさんとする。

しかし、本来の姿に立ち返るとき、人は平和に暮らすことが可能なはずなり。





人は本来、罪、汚れを知らぬものであった。

しかし、自我が芽生え、自我が強まり、神のご意志、ご意図が届かなくなって、

神は人に、自らのご意志、ご意図を届けるため、魂の曇りを取り去るために、

人がそのような魂に戻るために、不幸現象をもって、悟らせんとされし。

人は我のかたまりであってはならぬ。

神と共にあるとき、人は己を小さく、弱く、狭くしていることが出来るなり。

しかし、人が神と離れ始めるとき、我は強く、大きく、魂の中に広がり、

神の声を聞こえなくなるよう、自らに仕向けてゆく。

それは、人類にとっての、地球全体にとっての大きな危機を意味する。

人が己の我をのさばらせ、己の立場のみを考え、己の幸せのみを求めることは、

神のお仕組みを妨げ、神のお仕組みを起こらなくさせてゆく。

神はそうした危機を避けさせ、取り返しのつかなくなる前に、人類の一部に戦争を

起こさせ、或いは災害を起こして、その元となっている、人の誤り、間違いに気付かせ、

悟らせんとされる。





人が賜りし肉体は、永遠の生は与えられぬ。

しかし、魂は、この世の肉体が滅びても、あの世に帰り、その活動を続ける。

魂と命、それは神の御心を映し、ご意志、ご意図を実現させるために、

肉体が与えられる。しかし、ひとたび肉体を手に入れし魂は、我を持ち始め、

欲望、執着を持ち始めて、神の御心を映さぬものとなる。なれば、魂の曇りを消し、

魂が、再び神の御心を映せるまでに、魂を浄め、高めねばならぬ。

さなくば、この世は、人の欲望のみが渦巻く地獄ともなるらん。





神は、この世の立替え、建て直しの期限を近き明日に定められし。

そのときまでの短き間に、一人でも多くの魂、生命、肉体が、

この世にいる間に、果たせねばならぬみ役を、十分に果たさねばならず、

それは、選ばれし幾人かの人が行うのではなく、人々が集まり、神の手足となりて、

互いを助け合って、行わねば出来ぬことなり。

出会いし者は、早急に神のご意志、ご意図を確認し、己のみ役を確認し直し、自らの

役目を果たしていかねば、間に合わぬ。神がどのようなお仕組みを仕組まれようと、

それに人が気付かねば、この世は変わらぬ。仕組みも止まる。

止まり、滅びるか、気づきて動くか。それは各々の決めることなり。

或いは、各々が、振り返り、顧みて、いかなる悟りを得るかにかかろう。

それは各々の生き方、この世での行の積み方により、変わってこよう。

良き生き方、行の積み方をされし者は、悟りも早かろう。

しかし、神の御心に適わぬ行ない多き者、曇り汚れの激しきものは、

いかなるお仕組みにも悟りを得ず、曇りをさらに深め行こう。





最期の時に、人は、最期の悟りを与えられる。しかし、最期の時では既に遅し。

悟りを得ても、肉体は既になく、魂の消滅と共に、永遠の時の中から消え行くなり。

時は短し。与えられし時は短し。

いかなる努力も、神の御心に適わぬ努力、自らのみ役を担わぬ努力は、

ただ我欲からなされる行いにて、神は見捨てられよう。

そして、魂を消滅させられよう。





神は気付きし魂のみを残し、集め、新たにそれぞれのみ役を与えられる。

そのとき、残りし魂は、神の御心を素直に映す魂なり。

神のご意志、ご意図に通じる心を備わせられし魂なり。





一人ひとりが集まり集いて、神の御心に調和し、一つの生命体のように全体を作り、

この世を動かして行く時、我は消え、欲もなく、争いもなくなろう。

人が人と比べあい、違いを見つけ、他を憎み、そねみ、うらやむ。それは我にて、

神の御心に遠きものなり。神の御心に、人の心が通じゆき、一つに和する時、

人は、我なく、欲なく己なく、人との違いもみ役の違い、課せられし行の違いに過ぎぬ

ことを知り、ゆえに争うことなく、妬み、そねむこともなし。

人が己をなくし、神と心 調和させ、神のご意志が即ち自らの意思となる時、

それは、この世に神の国を実現させえたときなり。

その時、人は、神に近く、神の御心に適い、神の御心を映したこの世を作りえよう。

神はただ、人に幸せ与え、人を平和に暮らさせんために、今日までの長い歴史、

時の流れを費やされた。

歴史、時の流れ、人の営み、万物の盛衰、生命の興亡、何一つ意味無きものはない。





来たるべき日、神の国がこの世に生まれしとき、人は再び、その意味を知ろう。

そして、そのときこそ、人は人として、神の子として、神の映された心を持ち、

神の御心を見、思い、悟ることとなろう。

それまでは、人は人としてのみ、この世を、この世での現象を、

見聞き感じることしかできぬ。

しかし、間もなくの日、来たるべき時の訪れる日、人は己の役割と、神の御心と、

他の生命、全ての生命、自然、物質、地球、それら全てと和する魂を与えられる。





今すぐ神の御心に立ち返り、清い魂を取り戻さねばならぬ。

そして霊行を求め、霊行を積まねばならぬ。霊行を通じてのみ神の御心を知ることが

出来る。それは、我のない、欲のない、汚れ、曇りとは最も遠き行であり、神の御心に

最も近き行いなればなり。

神は人類救済のため、人類全てを生まれ変わらせるために、仕組みをもって示されて

きた。その仕組みを学び、悟れよ。







             

               





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