http://sp-phenomena.in.coocan.jp/part3/p3chapter2/p3c2-09.htm
“ヨーガ”における意識の変容について
ヨーガは、人間の最高の幸福を「解脱」に置いています。「解脱」とは、苦しみが付きまとう輪廻のサイクルから脱け出し、絶対平安・絶対幸福の世界(“三昧”という理想世界)に至ることです。この世の苦しみから脱出した境地が「解脱」です。仏教ではこれを“涅槃(の境地)”と呼んでいます。ヨーガにしても仏教にしても、究極の目標を輪廻からの解脱に置いているのです。
ヨーガでは「解脱」に至るためのさまざまなプロセスを説いています。段階的な意識向上のプロセスを経て、最終的に“三昧の世界”に至り「解脱」するようになるとしています。三昧に至ると主観と客観が完全合一して主客両面がすべて消え去り、自己意識・自己感情・人格さえも消滅するとしています。この究極的な高次意識の境地は、ほんのわずかな瞬間しか続きませんが、通常の意識状態に戻った後も大きな影響を心に残し、人生に対する姿勢を変えることになると教えています。
地上の宗教の中で、ヨーガほど「意識変容現象」に重きを置いたものはありません。意識変容現象が最重要視され、ヨーガ思想の根幹を貫いています。密教系の宗教・神秘主義的な宗教は、いずれも意識の変容体験を重視していますが、密教系ヨーガ(*特にクンダリーニヨーガやハタヨーガ)ほど、それを理論化し実践化しているところはありません。
ヨーガでは、意識変容のプロセスを「チャクラの覚醒」という独自の概念を用いて説明しています。クンダリーニヨーガでは、尾骶骨のチャクラにある宇宙エネルギー(クンダリーニ)を覚醒させ、それを上昇させて他のチャクラを通過させ、頭頂部のチャクラに導くことを目標にします。クンダリーニの上昇にともない、順番にチャクラが開かれていきます。すべてのチャクラが開かれると(覚醒されると)、最終的に“三昧(サマーディ)”という究極の境地が展開し、超感覚的な体験をすることになると説いています。その超感覚的な体験とは、「意識変容現象」のことを意味しています。
このようにヨーガには、悟り(三昧)に至る精緻な理論があります。しかし、それが理論の真実性を証明するものではありません。ヨーガ理論の精緻さと合理性に多くの現代人が惹かれ、ヨーガの実習を通じて三昧の境地を目指そうとしていますが、ヨーガの理論には「霊的事実」とはかけ離れた点が多くあります。思弁的につくり出した思想・理論としての完成度は高いのですが、事実と一致しているわけではないのです。当時のインド人が正しい霊的知識・霊的情報を知らない中で、思弁的につくり出したものがヨーガの理論なのです。それは「霊的事実」に照らしてみると、すべてが空論とは言えないまでも、大きくかけ離れています。
ヨーガでは、クンダリーニの上昇とチャクラの覚醒によって“三昧”という高次の境地に至るとしています。その三昧の体験とは、「霊の心→脳」という霊的エネルギーの通路の物的障害が一時的に解き放たれて、瞬間的に大量の霊的エネルギーが“脳”に流れ込んだときの意識状態のことです。大量の霊的エネルギーが“脳”に流れ込むと、潜在化していた「霊的意識」が顕在化するようになります。そしてこれまで味わったことがないような意識の拡がり、宇宙との一体感を体験するようになります。神と一体化し、その中に溶け込むような“霊的エクスタシー・霊的歓喜”を味わうようになります。無限に拡がる自分自身の意識に驚き、その変化に感動するようになるのです。
頭部のチャクラの覚醒とは、「霊の心→脳」という霊的通路が一時的に拡大し、大量の霊的エネルギーが“脳”にもたらされることを意味しています。霊的エネルギーの通路が一時的に拡大することを「チャクラの覚醒」という言葉で表現したのです。すでに何度も述べてきましたが、霊の心から脳(霊体から肉体)に大量の霊的エネルギーが流入してくる状況を地上サイドから霊視すると、接点(チャクラ)から一斉に霊的エネルギーが吹き出してくるように見えます。これが「チャクラの覚醒」と言われてきた現象の真相なのです。
クンダリーニは“性エネルギー(性欲)”であるとも言われます。これを上昇させることによって三昧に至るとするヨーガの理論は、「性欲エネルギーをすべて精神エネルギーに転化する」ということを意味しています。言い換えればそれは、「完全な霊主肉従化」をなすということなのです。性欲エネルギーは、地上人の心を支配する最も強力な肉体的欲望です。それを完全に霊の心の支配下に置くということは、「完璧な霊的コントロールを達成する」ということを意味しているのです。
「意識変容現象」と霊性レベルの関係
ヨーガの理論に従うなら、「意識変容現象」という高次の意識世界は、霊的成長の最終点において発生する特別な現象ということになります。意識変容現象は、霊性の高さを示す指標ということになります。意識変容現象を“悟り”と同一視するなら、それは悟りを開くほどの高い霊性の持ち主だけが体験することができる特別な現象ということになります。従来の宗教では、意識変容現象(三昧・悟り・神秘体験・霊的エクスタシー体験)を最も高い霊性レベルの指標と考えてきました。
しかし結論を言えば、「意識変容現象」は必ずしも霊性の高さを示すものではありません。もちろん一定の霊性レベルに至っていなければ意識変容現象を体験することはできませんが、意識変容現象が最高の霊性レベルの証とは言えないのです。意識変容現象は、一定の霊性レベルに至った人間が霊主肉従の努力・霊的コントロールを心がけ、瞑想によって意識を深めたときに発生するものです。他の多くの心霊現象が必ずしも霊性の高さとは関係がなかったように、意識変容現象にも同じことが言えるのです。
これまで「意識変容現象」は、悟りや三昧・神との合一体験として捉えられてきたため、霊性が高い人間だけが持ち得る特別な体験であるとのイメージができ上がってしまいましたが、それは間違いです。
サイキック・レベルの「意識変容現象」の発生には、霊性よりも「霊能力」が決定的な要素となります。この点からすると、意識変容現象を体現したヨーガ行者や仏教徒の霊性が高いとは言えません。神秘体験や霊的エクスタシー体験をした修道者だからといって、必ずしも霊性が高いわけではないのです。意識変容現象を体験できない人の中にも、霊性の高い人は大勢います。霊性の高さは心霊現象によって判断されるものではなく、日常の利他的行為によって判断されるべきものです。心霊現象よりも「霊的成長」こそが人間にとって大切であって、それは日常の実際の行為を通して達成されていくものなのです。
「意識変容現象」の問題
ヨーガや密教宗教・神秘主義宗教によって、意識変容現象が理想化されることになりました。そしてニューエイジや精神世界の中で、多くの現代人が意識変容現象を目指すような風潮が生まれました。悟り・三昧・ニルバーナ・霊的エクスタシーを求めて瞑想に励むような人間が増えました。
ヨーガをはじめ密教宗教や神秘主義宗教では、どのようにしたら究極の境地に至ることができるようになるのかを説いています。独自の霊的修行法が示され、それが人々の願望・好奇心を刺激することになっています。多くの現代人が物質的な世界から霊的世界に意識を向けるようになったことは大きな進歩と言えますが、それに比例して重大な問題・深刻な問題が発生するようになっているのです。
一日も早く悟りを得たい、神秘体験をしたいといった願望が邪心を生み、霊的問題を引き起こすようになっています。その霊的問題とは“精神障害”と“低級霊の憑依”です。霊的修行にはエネルギーの集中が不可欠です。それが正しい方向性を持ってなされるときには問題はありませんが、邪心・野心といったエゴ的感情に支配された中で行われると、精神の異常・不調和を引き起こすことになってしまいます。間違った方向に向けての霊的エネルギーの集中が、大きな反動となって本人の心を蝕むことになるのです。
一方、一度でも「意識変容現象」を体験すると、その刺激が生涯忘れられなくなります。意識変容現象とは、それほどまでに大きな影響を当事者の心に残すものなのです。それがしばしば、日常の自分自身の心を嫌悪させるようになります。意識変容現象が霊界への正しい憧れ・希望を喚起することになるなら、それは本当に素晴らしい体験ということになりますが、現実の自分に対する“嫌悪感・絶望感”だけをふくらませるとするなら、素晴らしい体験とは言えなくなります。「早く次の意識変容現象を体験したい!」といった焦るような気持ちを持つとするなら、無益を超えて有害になってしまいます。
霊性が低い人間に、何かの拍子に「低次元の意識変容現象」が発生することがあります。こうした状況は“低級霊”にとって、働きかけのチャンス到来を意味します。邪心を持った人間が稀に意識変容現象を体験すると、かえって心を醜くするようなことになってしまいます。
心霊現象にとらわれることなく、日常の霊主肉従の努力と人類への奉仕を優先している人間であれば、「意識変容現象はあってもよし、なくてもよし」ということになります。それが霊性の優れた人間のあり方なのです。そうした人がたまたま意識変容現象を体験するなら、それを神からの御褒美と考え、将来の希望・励みとするようになります。意識変容現象の体験が、焦りや絶望に結びつくようなことはありません。霊的成長を優先しない生き方、利他的奉仕よりも霊能力開発を優先する生き方は邪道です。
意識変容現象に関しては“ドラッグ”の問題もあります。1950年代には、LSD・メスカリン・ケタミン・DMTなどの薬物(ドラッグ)が少量で意識の変性を引き起こすことが発見され、多くの西洋人がドラッグを用いた意識変容現象を求めました。1960年代にはLSDが世界中で非合法化されるようになり、70年代に入ってこの流行に終止符が打たれました。ある種のドラッグは“心霊中枢”を刺激し、一時的に低次元の変性意識を出現させますが、それはどこまでも邪道です。霊性を高める努力のともなわない不自然な霊能力開発は、それに見合った“自業自得”の悲惨さや苦しみをもたらすことになるのです。
LSDが禁止された後、ドラッグを用いずに意識の変容を実現するためのさまざまなテクニックの開発が進められました。瞑想法・催眠暗示法・呼吸法・現代機器を用いたヘミシンクなどの方法が開発されました。しかしこうした新しい手法も、霊性開発を優先せずに心霊現象を引き起こそうとする試みであるかぎり、やはり邪道的方法と言えます。時にそれが成功することがあっても、後になってさらに悪い結果が生じるようになります。
“ヨーガ”における意識の変容について
ヨーガは、人間の最高の幸福を「解脱」に置いています。「解脱」とは、苦しみが付きまとう輪廻のサイクルから脱け出し、絶対平安・絶対幸福の世界(“三昧”という理想世界)に至ることです。この世の苦しみから脱出した境地が「解脱」です。仏教ではこれを“涅槃(の境地)”と呼んでいます。ヨーガにしても仏教にしても、究極の目標を輪廻からの解脱に置いているのです。
ヨーガでは「解脱」に至るためのさまざまなプロセスを説いています。段階的な意識向上のプロセスを経て、最終的に“三昧の世界”に至り「解脱」するようになるとしています。三昧に至ると主観と客観が完全合一して主客両面がすべて消え去り、自己意識・自己感情・人格さえも消滅するとしています。この究極的な高次意識の境地は、ほんのわずかな瞬間しか続きませんが、通常の意識状態に戻った後も大きな影響を心に残し、人生に対する姿勢を変えることになると教えています。
地上の宗教の中で、ヨーガほど「意識変容現象」に重きを置いたものはありません。意識変容現象が最重要視され、ヨーガ思想の根幹を貫いています。密教系の宗教・神秘主義的な宗教は、いずれも意識の変容体験を重視していますが、密教系ヨーガ(*特にクンダリーニヨーガやハタヨーガ)ほど、それを理論化し実践化しているところはありません。
ヨーガでは、意識変容のプロセスを「チャクラの覚醒」という独自の概念を用いて説明しています。クンダリーニヨーガでは、尾骶骨のチャクラにある宇宙エネルギー(クンダリーニ)を覚醒させ、それを上昇させて他のチャクラを通過させ、頭頂部のチャクラに導くことを目標にします。クンダリーニの上昇にともない、順番にチャクラが開かれていきます。すべてのチャクラが開かれると(覚醒されると)、最終的に“三昧(サマーディ)”という究極の境地が展開し、超感覚的な体験をすることになると説いています。その超感覚的な体験とは、「意識変容現象」のことを意味しています。
このようにヨーガには、悟り(三昧)に至る精緻な理論があります。しかし、それが理論の真実性を証明するものではありません。ヨーガ理論の精緻さと合理性に多くの現代人が惹かれ、ヨーガの実習を通じて三昧の境地を目指そうとしていますが、ヨーガの理論には「霊的事実」とはかけ離れた点が多くあります。思弁的につくり出した思想・理論としての完成度は高いのですが、事実と一致しているわけではないのです。当時のインド人が正しい霊的知識・霊的情報を知らない中で、思弁的につくり出したものがヨーガの理論なのです。それは「霊的事実」に照らしてみると、すべてが空論とは言えないまでも、大きくかけ離れています。
ヨーガでは、クンダリーニの上昇とチャクラの覚醒によって“三昧”という高次の境地に至るとしています。その三昧の体験とは、「霊の心→脳」という霊的エネルギーの通路の物的障害が一時的に解き放たれて、瞬間的に大量の霊的エネルギーが“脳”に流れ込んだときの意識状態のことです。大量の霊的エネルギーが“脳”に流れ込むと、潜在化していた「霊的意識」が顕在化するようになります。そしてこれまで味わったことがないような意識の拡がり、宇宙との一体感を体験するようになります。神と一体化し、その中に溶け込むような“霊的エクスタシー・霊的歓喜”を味わうようになります。無限に拡がる自分自身の意識に驚き、その変化に感動するようになるのです。
頭部のチャクラの覚醒とは、「霊の心→脳」という霊的通路が一時的に拡大し、大量の霊的エネルギーが“脳”にもたらされることを意味しています。霊的エネルギーの通路が一時的に拡大することを「チャクラの覚醒」という言葉で表現したのです。すでに何度も述べてきましたが、霊の心から脳(霊体から肉体)に大量の霊的エネルギーが流入してくる状況を地上サイドから霊視すると、接点(チャクラ)から一斉に霊的エネルギーが吹き出してくるように見えます。これが「チャクラの覚醒」と言われてきた現象の真相なのです。
クンダリーニは“性エネルギー(性欲)”であるとも言われます。これを上昇させることによって三昧に至るとするヨーガの理論は、「性欲エネルギーをすべて精神エネルギーに転化する」ということを意味しています。言い換えればそれは、「完全な霊主肉従化」をなすということなのです。性欲エネルギーは、地上人の心を支配する最も強力な肉体的欲望です。それを完全に霊の心の支配下に置くということは、「完璧な霊的コントロールを達成する」ということを意味しているのです。
「意識変容現象」と霊性レベルの関係
ヨーガの理論に従うなら、「意識変容現象」という高次の意識世界は、霊的成長の最終点において発生する特別な現象ということになります。意識変容現象は、霊性の高さを示す指標ということになります。意識変容現象を“悟り”と同一視するなら、それは悟りを開くほどの高い霊性の持ち主だけが体験することができる特別な現象ということになります。従来の宗教では、意識変容現象(三昧・悟り・神秘体験・霊的エクスタシー体験)を最も高い霊性レベルの指標と考えてきました。
しかし結論を言えば、「意識変容現象」は必ずしも霊性の高さを示すものではありません。もちろん一定の霊性レベルに至っていなければ意識変容現象を体験することはできませんが、意識変容現象が最高の霊性レベルの証とは言えないのです。意識変容現象は、一定の霊性レベルに至った人間が霊主肉従の努力・霊的コントロールを心がけ、瞑想によって意識を深めたときに発生するものです。他の多くの心霊現象が必ずしも霊性の高さとは関係がなかったように、意識変容現象にも同じことが言えるのです。
これまで「意識変容現象」は、悟りや三昧・神との合一体験として捉えられてきたため、霊性が高い人間だけが持ち得る特別な体験であるとのイメージができ上がってしまいましたが、それは間違いです。
サイキック・レベルの「意識変容現象」の発生には、霊性よりも「霊能力」が決定的な要素となります。この点からすると、意識変容現象を体現したヨーガ行者や仏教徒の霊性が高いとは言えません。神秘体験や霊的エクスタシー体験をした修道者だからといって、必ずしも霊性が高いわけではないのです。意識変容現象を体験できない人の中にも、霊性の高い人は大勢います。霊性の高さは心霊現象によって判断されるものではなく、日常の利他的行為によって判断されるべきものです。心霊現象よりも「霊的成長」こそが人間にとって大切であって、それは日常の実際の行為を通して達成されていくものなのです。
「意識変容現象」の問題
ヨーガや密教宗教・神秘主義宗教によって、意識変容現象が理想化されることになりました。そしてニューエイジや精神世界の中で、多くの現代人が意識変容現象を目指すような風潮が生まれました。悟り・三昧・ニルバーナ・霊的エクスタシーを求めて瞑想に励むような人間が増えました。
ヨーガをはじめ密教宗教や神秘主義宗教では、どのようにしたら究極の境地に至ることができるようになるのかを説いています。独自の霊的修行法が示され、それが人々の願望・好奇心を刺激することになっています。多くの現代人が物質的な世界から霊的世界に意識を向けるようになったことは大きな進歩と言えますが、それに比例して重大な問題・深刻な問題が発生するようになっているのです。
一日も早く悟りを得たい、神秘体験をしたいといった願望が邪心を生み、霊的問題を引き起こすようになっています。その霊的問題とは“精神障害”と“低級霊の憑依”です。霊的修行にはエネルギーの集中が不可欠です。それが正しい方向性を持ってなされるときには問題はありませんが、邪心・野心といったエゴ的感情に支配された中で行われると、精神の異常・不調和を引き起こすことになってしまいます。間違った方向に向けての霊的エネルギーの集中が、大きな反動となって本人の心を蝕むことになるのです。
一方、一度でも「意識変容現象」を体験すると、その刺激が生涯忘れられなくなります。意識変容現象とは、それほどまでに大きな影響を当事者の心に残すものなのです。それがしばしば、日常の自分自身の心を嫌悪させるようになります。意識変容現象が霊界への正しい憧れ・希望を喚起することになるなら、それは本当に素晴らしい体験ということになりますが、現実の自分に対する“嫌悪感・絶望感”だけをふくらませるとするなら、素晴らしい体験とは言えなくなります。「早く次の意識変容現象を体験したい!」といった焦るような気持ちを持つとするなら、無益を超えて有害になってしまいます。
霊性が低い人間に、何かの拍子に「低次元の意識変容現象」が発生することがあります。こうした状況は“低級霊”にとって、働きかけのチャンス到来を意味します。邪心を持った人間が稀に意識変容現象を体験すると、かえって心を醜くするようなことになってしまいます。
心霊現象にとらわれることなく、日常の霊主肉従の努力と人類への奉仕を優先している人間であれば、「意識変容現象はあってもよし、なくてもよし」ということになります。それが霊性の優れた人間のあり方なのです。そうした人がたまたま意識変容現象を体験するなら、それを神からの御褒美と考え、将来の希望・励みとするようになります。意識変容現象の体験が、焦りや絶望に結びつくようなことはありません。霊的成長を優先しない生き方、利他的奉仕よりも霊能力開発を優先する生き方は邪道です。
意識変容現象に関しては“ドラッグ”の問題もあります。1950年代には、LSD・メスカリン・ケタミン・DMTなどの薬物(ドラッグ)が少量で意識の変性を引き起こすことが発見され、多くの西洋人がドラッグを用いた意識変容現象を求めました。1960年代にはLSDが世界中で非合法化されるようになり、70年代に入ってこの流行に終止符が打たれました。ある種のドラッグは“心霊中枢”を刺激し、一時的に低次元の変性意識を出現させますが、それはどこまでも邪道です。霊性を高める努力のともなわない不自然な霊能力開発は、それに見合った“自業自得”の悲惨さや苦しみをもたらすことになるのです。
LSDが禁止された後、ドラッグを用いずに意識の変容を実現するためのさまざまなテクニックの開発が進められました。瞑想法・催眠暗示法・呼吸法・現代機器を用いたヘミシンクなどの方法が開発されました。しかしこうした新しい手法も、霊性開発を優先せずに心霊現象を引き起こそうとする試みであるかぎり、やはり邪道的方法と言えます。時にそれが成功することがあっても、後になってさらに悪い結果が生じるようになります。